44〈部族〉
地下水に溶け込んだ呪素と、荒野に点在する遺跡群との関連は明白だった。しかし、この地は他部族によって厳格に管理される聖地であり、外部の者が自由に調査できる場所ではない。
ましてや、彼らにとって特別な意味を持つ儀式の最中に詮索するなど、無用な火種となるだけだった。アリエルは未練を振り払うように静かにその場を離れ、中央広場へと戻ることにした。
塔が見える広場までやってくると、すぐにトゥーラの鋭い視線を感じ取った。彼女は明らかに不機嫌そうに腕を組み、アリエルのことをじっと見つめていた。どうやら彼女の忠告を無視してあちこち歩き回っていたことに腹を立てているらしい。彼はそれに気づかないフリをして、完全に無視することにした。
その気まずい空気のなか、神官たちとの交渉について質問する。トゥーラはひとつ溜め息を漏らし、それから淡々と説明してくれた。交渉は滞りなく進み、探索隊の通行は正式に許可されたという。
その証として、青地に螺旋を描く灰色の塔が特徴的な旗章が授けられた。教団の旗が風にはためいている限り、いかなる部族も探索隊に手出しすることは許されない。それは荒野の掟であり、それは絶対の保証とされた。
『けれど――』とテリーは付け加えた。『教団の権威を無視する蛮族も少なからず存在する以上、警戒は緩められない』と。
とはいえ、多くの先住民にとって教団は畏怖すべき存在であり、その庇護下にある者を襲えば、報復は免れない。旗章は、きっと役に立つはずだった。
神官たちが妙に協力的だったことが気になり、アリエルはその理由を訊ねることにした。どうやら、テリーが領主の代理人として教団への食糧支援を約束したようだ。教団は常に貧しい人々への援助を行っていて、慢性的な物資不足に悩まされていたようだ。そんな状況のなか、彼が提案した支援は教団にとって魅力的に映ったのだろう。
この支援により、教団は民への施しを継続でき、領主側は先住民との繋がりを得られる。双方にとって都合の良い取引となったわけだ。どうやら、アリエルの預かり知らないところで思惑が交錯していたようだ。
テリーはさらに付け加えた。『交渉がここまで順調に進んだのは、トゥーラたちの尽力によるところも大きいですが、それ以上に、教団が困窮している証でもあるのでしょう』と。
確かに、この短期間で交渉がまとまるのは、ただの偶然ではなかったのだろう。いずれにせよ、これで目的地への道は拓けた。探索隊は、ひとつ重要な障壁を越えたことになる。
ちなみに、部族に信仰されてきた教団は、〈ドゥルガ〉と呼ばれているという。かつて存在した〈オルセラ教団〉から枝分かれした分派であり、ここに建つ構造物は〈セラの遺構〉と名付けられている。
〈ドゥルガ教団〉は、古の言葉で〝氷に閉ざされた地で祈る者〟という意味を持つらしいが、トゥーラたちでさえ、その由来は詳しくは知らない。それでも、荒野の冷たさと、この場所に染みつく言い知れない気配は、その名に相応しい沈黙を湛えていた。
冬の訪れが近づきつつあるせいか、荒野には重苦しい緊張が漂っていた。狩場をめぐる部族間の争いは激しさを増し、鳥葬場には絶え間なく遺体が運び込まれていた。駄獣が引く荷車の上には、粗末な布に包まれた遺体が並べられ、身を寄せ合うように積まれている。
冷たい沈黙に包まれた駄獣の荷車を脇目に、一行は数えきれないほどの祈祷旗が括りつけられた柱の間を通って、荒野で待機していた探索隊と合流する。
焚き火の煙が風に流され、乾いた空気のなかへと消えていく。互いの無事を確かめたあと、駄獣の背に青地の旗章が掲げられた。螺旋の塔が描かれた旗を見て、狩人たちも心なしか安堵しているように見えた。
彼らの視線の先には、遠く霞む山脈と雪原の影が見えている。これから向かうのは氷原の入り口にあたる部族の定住地だ。その地で最後の物資を補給し、歩荷たちを休ませてから、雪原を越える旅路が始まる。
高地に向かう道は緩やかに見えて、実際には過酷だった。標高が上がるにつれて空気は薄くなり、呼吸も浅くなる。アリエルのように高山病を知らない者にとっては、その恐ろしさを想像するのも難しい。
頭痛、吐き気、倦怠感、食欲の喪失。症状が悪化すれば、呼吸困難や錯乱、昏睡すら引き起こす。段階的な高度順応を怠れば、命を落とすこともある。
だからこそ、環境に適応するための数日間の猶予期間が必要になってくるのだろう。軍人として鍛えられたテリーでさえ、顔色を悪くし、息苦しそうに額の汗をぬぐっていた。
日は傾きつつあったが、日没までには目的地へたどり着かねばならなかった。定住地の門は夜間には固く閉ざされ、外に留まれば、冷気と獣の脅威に晒される。駄獣たちの歩調を早め、荷を揺らしながらも移動は続けられた。やがて白銀の地平に無数の影があらわれる。そこが〈シャアラ族〉の定住地だった。
〈シャアラ族〉──古くから〝素早く射る者〟と称される部族だ。遊牧民としても知られ、家畜とともに荒野を移動する彼らのことを、他部族は今なお〈矢の民〉の名で呼んでいた。 しかし現在の彼らは矢を射ることよりも、平穏と交易を選ぶ部族となっている。彼らの定住地に着けば、しばしの安堵と補給が得られるはずだ。
狩りを生業とするトゥーラたちの〈リュプレス族〉とは性質こそ異なるが、共に荒原で生きる先住民であることに変わりはない。
ちなみに、〈リュプレス〉という名称は〝荒原に潜む狩人〟という意味を持ち、風より静かに、獣のように鋭く獲物を仕留める狩猟部族として知られていた。彼らの斥候としての技術を目にしたこともあり、その名が伊達ではないことを理解していた。
荒涼とした丘陵地の裾野を滑るようにして広がる定住地は、まるで風に舞う無数の旗のように、色とりどりの天幕が大地に咲き誇る光景を見せていた。
大小さまざまな天幕が連なり、緩やかな傾斜に沿って、土地の起伏に合わせて張られている。赤、青、黄、緑──褪せた布には、太陽と風の痕跡が浮かび、どの幕も音を立てながら揺れていた。
家畜の群れも目にすることができた。ヤギ、羊、馬があちこちで草を食み、時折、小さな鳴き声を響かせている。その周囲には、荒原で拾い集めた黒と灰色の岩を積み上げた石垣が張り巡らされていたが、それはせいぜい人の胸ほどの高さで、戦に備えた防壁というより、風を遮り、家畜を守るためのものにすぎないのかもしれない。
定住地の至るところから白い炊煙が立ち昇り、薄い霧のように漂っていた。香ばしい脂の濃い香りに混じり、乾燥させた薬草のすっとする匂いが鼻腔をくすぐる。人々は天幕の間を忙しなく行き交い、ある者は薬草の束を抱えていた。
ここは、ただの集落ではないのだろう。遊牧の民でありながらも定住を選んだ人々による、大規模な居住地なのだ。
その騒めきのなかに緊張が走る。探索隊の接近に気づいたのだろう。石垣の向こうから蹄の音が鳴り響き、砂埃を巻き上げながら複数の馬が駆け寄ってくる。部族の戦士たちは黒い毛皮をまとい、頭部には尾羽をあしらった独特の髪飾りをつけていて、その鋭い視線は、風のなかでも確実に標的を捉える鷹を思わせる。
とりわけ印象的だったのは、彼らの顔に塗り込まれた黄土だ。それが何を意味するのかは分からなかったが、どこか威圧的な雰囲気を漂わせていて、戦士たちの印にも思えた。
トゥーラが迷いなく青地の旗章を掲げると、戦士たちは手にしていた弓をゆっくりと下ろした。 先頭の大男は馬上から探索隊をじっと見据え、やがて無言のまま馬を寄せてきた。 威圧的な体躯と、風に晒された粗野な顔立ちには、警戒と慎重の色が濃く刻まれていた。
トゥーラはハッキリとした声で名乗りを上げ、部族の名と目的を簡潔に伝えた。大男はしばらく無言のまま睨みつけていたが、やがて下馬し、深々と頭を下げる。その所作には礼儀と秩序があり、その粗野な外見とは裏腹に、礼節を重んじる気配が感じられた。
それから彼は仲間の戦士をひとり呼び寄せ、案内役として探索隊を託した。どうやら、周辺一帯で蛮族の襲撃が相次いでいるようだ。周囲の警戒に余念のない大男は、歓迎の言葉を残し馬に跨る。トゥーラは落ち着いた声で礼を述べ、戦士たちに導かれながら、定住地へと歩を進めた。
定住地に近づくごとに、視界は濃密な生活の気配に満たされていく。探索隊が石垣の境界を抜け、〈シャアラ族〉の定住地へと足を踏み入れると、そこには想像以上に複雑で豊かな暮らしの気配が広がっていた。
羊毛を紡ぐ女性たち、炭火で獣肉を煮込む男性、そして子どもたちの小さな笑い声。穏やかではあるが、空気にはどこか張り詰めたものが漂っている。天幕の数は膨大で、遠くから見たときよりも、はるかに規模があるように感じられた。
天幕は主に獣皮を縫い合わせて作られているが、ただの毛皮の寄せ集めではなく、厳しい荒野の風雪に耐えるよう巧みに補強されていた。
入り口や柱の周囲には厚手の布が幾重にも巻かれ、屋根の上には、荒原で拾い集めた枝を組み合わせた支柱がしっかりと据えられている。天幕の内側には編み込まれた草や藁が敷かれ、暖を保つための炉も設けられているようだった。
探索隊が案内されたのは、定住地の入り口近くにある一角だった。そこは、訪れる商人のために設けられた広場で、やや広めの天幕が規則正しく並んでいる。布地は鮮やかな紅や深い藍に染められ、交易の場としての華やかさを意図したものだと推測できた。
定住地の近くには小川が流れ、その澄んだ水音が耳に心地よく響いてくる。川辺には青草が広がり、駄獣たちは頭を垂れて静かに草を食んでいた。水に困らないこの土地は、探索隊にとって、まさに絶好の休息地だった。
トゥーラは、狩人たちが荒野で狩っていた数頭のシカを感謝の印として定住地の代表者に贈った。長く伸びた枝角と、引き締まった肉を見た〈シャアラ族〉の者たちは驚きと感謝を隠さず、丁寧に礼を述べた。その表情には、余裕のない切実さが滲んでいた。おそらく、この地でも食糧事情は決して楽ではないのだろう。
荷を解いて駄獣を休ませるなか、ゆっくりと陽が傾いていくのが見えた。どこからともなく香草と肉の匂いが漂い、談笑する人々の声が微かに耳に届く。その穏やかな騒めきの底には、どこか張り詰めた警戒感が滲んでいた。アリエルはその気配を肌で感じながら、荒原で生きる部族の慎ましい日常を無言のまま見つめていた。




