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はるか遠くに見える雪原の反射に目を細めるころには、その純白の地平から吹きつける凍てつく風を、よりハッキリと感じられるようになった。くるぶしにも届かない浅い川を渡り、凍りつかない程度の水の冷たさを肌に感じながら、探索隊は氷原を目指して歩を進めていた。
駄獣たちの吐く息は白く、澄みわたる空気に溶け込んでいく。果てしない荒原で聞こえてくるのは、川の水音と風の音だけ。その皮膚を凍らせるような大気のなか、先住民たちは忙しなく川の水を汲む。高地では脱水状態が命取りになることを、彼らは身をもって知っているのだろう。
最初に周囲の異常を察知したのは、トゥーラが父と慕う壮年の狩人だった。彼は足を止めると、指先で霜を払い、濡れた地面を慎重に露わにしていく。そして彼の手が止まる。そこには、ごく浅い窪みがあった。それは風に削られたようにも見える微かな凹みだったが、彼は足跡だと判断した。
アリエルも気になり瞳に呪素を集めると、慎重に〈痕跡感知〉を発動させた。視界に重なる赤紫の粒子が揺らめき、微かな生命の残滓を浮かび上がらせる。確かに、そこには人の輪郭があった。
しゃがみ込むようにして、じっと動かずに何かに集中していた気配が感じられる。そこに残された痕跡は、何者かが潜んでいたことを語っていた。
さらに別の狩人が、数十歩ほど離れた場所で同様の痕跡を発見した。そこにも細かな砂に覆われた足跡があり、わずかに向きを変えながらいくつか連なっていた。
どうやらそれは、複数の足跡が組み合わさって構成されたものだった。探索隊の周囲を広く囲むように残された人の形跡――それは偶然では説明できない、何らかの意図が感じられた。
見通しのきく荒原では、夜になると野営の灯りは遠くからも視認できるようになる。偶然だったのかもしれないが、野営の火を見つけた何者かが静かに接近してきたのだろう。
もし、その意図が敵意に基づくものであったならば、十数頭の駄獣を連れて行動する探索隊は、身を隠すことも素早く逃げることもできず、圧倒的に不利な状況に立たされる。潜在的な危機は、まさに目前に迫っていた。
その可能性を口にしたのはテリーだった。軍人らしく、躊躇うことなく冷酷な選択肢を提示する。『こちらから先に仕掛けるべきだ』と。その言葉には一切の迷いが感じられなかった。状況を逸早く把握し、優位に立ったうえで脅威に対処したいと考えたのだろう。敵の意図が明らかになる前に主導権を握るべきだという判断だった。
決断は探索隊を率いるトゥーラに託された。彼女は迷っていた。表情には緊張と戸惑いが交錯していたが、無理に判断を急ごうとはしなかった。静かに息を吸い込み、傍らにいた壮年の狩人に助言を求める。
彼は首を横に振り、まずは状況を見定めるべきだと告げる。荒原には複数の部族が存在し、そのすべてが好戦的というわけではない。ただ単に、探索隊の存在が気になっただけなのかもしれない。だから彼は、こちらから攻撃するのは早計だと判断したのだろう。
トゥーラは助言を受け入れ、しばらく様子を見ることにした。狩人たちには周囲の見張りを徹底させ、どんな些細な異変でも必ず報告するよう命じた。警戒体制はこれまで以上に強化され、わずかな兆候すら見逃さぬよう厳命を下した。
それからしばらくして、索敵のために壮年の狩人とともに先行していたアリエルは突然、奇妙な感覚に襲われることになる。それまで耳に届いていた小川のせせらぎは、どこか遠ざかるように弱まり、花々の香りを含んでいた風も、いつの間にか変質している。その流れは重く、どこか鉄錆の臭いを帯びていた。
岩場にしゃがみ込んでいた壮年の狩人も、その違和感に気づいたようだった。ふたりは同時に顔を上げ、荒原の静寂に耳を澄ませる。風に混じって聞こえる微かな擦過音。布が何かに打たれ波打つように揺れる、そんな不規則な音だった。
音の正体を確かめようと、ふたりは慎重に丘をよじ登り始めた。足音を潜め、物音ひとつ立てないようにして、地衣類が繁茂する傾斜を静かに進む。枯草が足に絡みつき、凍てついた藻が靴底にまとわりつくたび、足元が滑りそうになる。
奇妙な構造物を見下ろせる丘にたどり着くまでに、十分ほどの時間を要した。視界の先にあらわれた光景は異様だった。灰と黒に染まった岩を粗雑に積み上げた構造物が、荒野の中に沈黙をたたえて佇んでいる。それは住居ではなく、どこか神殿を思わせる――明らかに人を寄せ付けない気配を漂わせた信仰の場のように見えた。
その構造物を取り囲むようにして、数えきれないほどの布切れが風にたなびいていた。となりに立った狩人によれば、それは〝祈祷旗〟と呼ばれる祈りのための薄布だという。それぞれの旗には祈りの言葉が書き込まれていて、風に揺れるたびに、ひとつの祈りを唱えるのと同じ効果があると信じられているようだ。
『祈りの言葉を風に乗せるためのものだ。精霊や亡き者のために――おそらく、この場所は葬送の地だ』
祈りの言葉に染められた薄布が風に舞うたび、まるで何かを鎮めるように空間を優しく撫でていく。それらは無数の柱に結わえられ、あるいは岩に括り付けられ、風に揺れながら、ひとときも休まず祈りを唱え続けていた。
アリエルは〈神々の森〉でも、似たような方法で祈りを捧げる部族がいたことを思い出しながら、ふと空を仰いだ。
頭上では無数の鷲たちが旋回していた。どの鳥も獲物を探しているわけではなく、まるで儀式の完了を待っているかのように、空の一点に列をなし、静かに旋回をつづけている。その動きには捕食の荒々しさはなく、どこか整然とした静けさが漂っていた。
その鳥葬場の中央広場には、骨が高く積み上げられていて、周囲には黒く染みついた血痕が残っていた。肉体は切り分けられ、骨ごと風にさらされ、そして鳥によって処理される――それが、この地における死者の帰還の形だった。
あるいは野蛮にも見えるその儀式だったが、荒野に生きる者たちにとっては神聖な循環であり、自然へと還るための葬儀でもあった。
この場を冒涜することは許されない。それでも、この鳥葬場をどの部族が管理しているのか確認する必要があった。人の痕跡を探るように足元に視線を走らせると、砂に埋もれかけた足跡がわずかに見えた。それは新しく、完全には消えていなかった。誰かが、ほんのしばらく前にここを訪れていたのだ。
葬送を終えた直後だったのか、それとも探索隊を監視していた者なのか――その判断はつかなかった。となりに立つ狩人の表情は険しかった。やはり、先住民にとっては信仰的な意味合いを持つ重要な場所なのだろう。
すぐに引き返して鳥葬場の存在を報告すると、トゥーラの表情がわずかに引き締まった。沈黙ののち、彼女は静かにうなずいた。
荒原に生きる者として、他部族の聖域を無視することはできない。たとえその地に敵意が潜んでいたとしても、まず神々へ祈りを捧げ、敬意を示さねばならない。そうした掟は言葉よりも重く、彼らの骨と血に深く刻み込まれている。
トゥーラの決断に異を唱える者はいなかった。とはいえ、彼女ひとりを送り出すわけにはいかず、随行者として長年彼女のそばに仕えてきた壮年の狩人と、戦士として信頼できるアリエルとテリーが選ばれた。
その場に残る狩人たちは探索隊の護衛にあたり、歩荷と駄獣を守るための布陣が慎重に組み直される。見張りもさらに強化され、突発的な襲撃を想定して、全員が武器を手元に備え、即応できるよう備えた。
荒野では、わずかな油断が命取りになる。彼らは緊張を抱きながらも、与えられた役割を粛々と果たしていた。
トゥーラは供物として保存食と乳酒を手にすると、沈黙のまま鳥葬場へ向かった。一行は丘を越え、風にはためく祈祷旗の影の中へと足を踏み入れる。無数の布が揺れる音は、まるで幾千の声が語り合うような、低く抑えられた祈りの連なりのようだった。
建造物へと続く石畳の通路は粗削りながらも人の手で整えられ、その先には薄く削られた石段が延びていた。そこで鳥葬場へ遺体を運んでいた駄獣とすれ違う。その際、鞍が通常とは逆向きに固定されているのが見えた。何か意味があるのだろうが、質問するような雰囲気でもなかった。
厚地の幔幕に囲まれた構造物に近づくと、風の向こうからいくつかの影が浮かび上がった。白地を基調に、赤や黄色の装飾布を幾重にも巻きつけた長衣を身にまとった人物が数名、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるのが見える。
その衣は、先住民たちが身にまとう野暮ったい毛皮ではなかった。手入れされた織物に金の装飾が施され、その姿はまるで神官のようだった。
彼らの周囲には白や灰色の毛皮に身を包み、弓を携えた者が数人、間隔を空けて控えていた。弦に指をかけたまま、目を細めてこちらの動きを監視し、一瞬たりとも視線を逸らさない。
敵意こそ感じられなかったが、その警戒心は明らかだった。わずかでも無用な動きがあれば、即座に反応する構えだった。
トゥーラは歩みを止め、頭を垂れるようにしてゆっくりと供物を掲げてみせた。それは、交戦の意志がないことを示す、先住民の仕来りに則った所作でもあった。
神々に祈りを捧げに来た――ただ、それだけの意思表示。それでも、空気の張り詰めた気配は消えなかった。はためく旗の音のなか、誰ひとり言葉を発することなく、ただ風だけが通り過ぎていった。
アリエルは沈黙を保ちながら、傍らに立つ壮年の狩人とともに、周囲の気配を読むように視線をめぐらせた。戦いは避けねばならない。けれど、もしも武器が必要とされるのであれば、彼は躊躇うことなく抜刀するだろう。
嫌な緊張感が場を包み込むなか、どこからともなく、呪素の気配が漂ってきていることに気がついた。
やがて神官と思われる者たちが静かに道を開ける。トゥーラが安堵したように歩を進めると、アリエルもまた、無言のままその背に従った。




