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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編

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 荒原に吹きつける風が冬の訪れを囁くなか、探索隊は遺跡〝時の眠る園〟を目指して荒野を進んでいた。霜に白く覆われた地表が見渡す限り広がり、灰色と黒の斑模様(まだらもよう)を浮かべる岩と地衣類だけが点在する単調な風景が続いていた


 空は重く沈み、吐息は白く、生命の気配は薄れつつあった。その朝、視界のかなたに、ゆるやかに移動する鹿の群れが確認された。大きな群れだった。百頭はいただろうか。群れに接近するのは容易ではないが、何頭か確保できれば、物資の消耗を抑えることができるだろう。


 先住民たちはすぐに反応し、賢女トゥーラのもとへ集まり狩猟を提案した。適切に処理すれば、保存食として冬を越す糧にもなる。


 彼女は探索隊の責任者でもあるアリエルとテリーのもとに向かうと、狩りの可否を静かに問う。テリーは快諾し、アリエルは無言で思案したあと、狩りへの同行を申し出た。意外だったが、狩人の技に興味があるという。


 狩人たちは戸惑った。彼ほどの戦士が、なぜ辺境の部族の狩りに関心を持つのか理解できなかったからだ。それでも、ひとりの男性が黙って首を縦に振った。トゥーラが父と呼ぶ壮年の狩人だ──石炭のように黒い瞳を持ち、狼のように俊敏で、鋭い注意力によって荒野の彼方に消えた獲物の痕跡を追うことができた。


 彼は肩から吊るしていた革袋に干し肉と水袋を詰め、簡潔な身振りで仲間に出発の合図を送った。


 荒野では絶えず突風が吹きつけていたが、卓越した斥候(スカウト)でもある男性は、それには注意を払わず、地面に残された足跡に注意を向ける。身をかがめ、地表に刻まれた――ほとんど判別のつかない形跡を読み取っていく。


 霜に覆われた土には、ほとんど足跡らしきものはなかった。それでも彼は立ち止まり、湿った土の凹みや、折れた枯れ枝の向きを読み取る。踏みつけられた苔の傷み具合、岩から剥がれ落ちた地衣類、足跡の間隔――そのすべてから、彼は荒原の彼方へ消えていった群れの進路と挙動を読み取っていく。


 一時間ほど、風を避けながら斜面を縫うように進み続けたのち、狩人は低く手を上げて仲間たちの動きを制した。


 足元には複数の痕跡が残っていた。乱れてはいたが、明らかに鹿のものだった。まず左へ、ついで右へ、そして再び左へと、餌場を探しながら進路を決めかねているようだった。狩人は唇を引き結び、地面に残る痕跡に触れながら方角を確かめた。


 その間、アリエルは沈黙を守りながらも、狩人の動きひとつひとつを逃さず観察していた。時折、狩人の手が止まる瞬間を見計らっては、質問を投げかける。


 たとえば、「どうしてこの方角を選んだのか」あるいは「これは何の痕跡なのか」といった具合に。獲物が通った痕跡をたどる猟師の技術――追跡(トラッキング)に興味があったのだろう。狩人は(いぶか)しんだが、アリエルの質問に答えるうちに、荒原で獲物を追う術を自然と語るようになっていた。


 足跡の深さ、踏み込みの強さ、そしてニオイや風向き――それらを通じて、獲物の数や状態、移動の速さすら読み取れるのだという。そして最も重要なのは、そうした痕跡に気づくための観察力と、細部にまで行き届く注意深さを備えていることだった。


 荒原では、狩りは生存のための技術だった。つめたい風は獣のニオイを散らし、霧は視界を奪い、寒さは反射を鈍らせる。それでも、生きていくためには獲物を仕留めねばならない。


 息を殺して気配を読み、獣のような冷酷さで獲物を追う。狩人たちの眼差しには、戦場では見られない種類の緊張と、己の仕事に対する確かな誇りが宿っているように感じられた。


 その追跡は、意識の隅々にまで神経を研ぎ澄ませる行為でもあった。風は冷たく、砂利混じりの土が這うように舞い、足元の霜が音を立てて割れていく。狩人たちは言葉少なに荒野を進んでいく。追跡はすでに数時間に及んでいた。


 彼らは互いに間隔を保ち、ほとんど音を立てずに動いていた。足音も気配も押し殺し、ただ獲物を求めて動く。


 ひとたび視線を落とせば、そこには、わずかに窪んだ地面や、小石の傾きの乱れといった――ほとんど存在しないに等しい痕跡が続いていた。彼らはそのすべてに目を凝らし、頭の中で線をつなぎながら、鹿の群れの動きを予測していく。それはもはや思考ではなく、感覚の領域に近かった。


 そのため、追跡は極度に集中力をすり減らす行為となる。気がつけば、誰もがひどく消耗してしまっているものだった。


 しかし今回の狩りにはこれまでにない変化があった。アリエルの存在が、追跡の在り方そのものを変えたのだ。彼は壮年の狩人のそばを離れず、その動きや痕跡の確認の仕方、判断の速度と精度を目に焼きつけるように観察していた。


 加えて、アリエルは〈生命探知〉の呪術を応用し、新たな追跡の技術として昇華させていた。深紅の瞳に呪素が滲むと、風に混じる微かな生命の残滓が可視化される。それは視界の端に揺れる煙のようであり、熱が過ぎ去ったあとの空気の歪みにも似ていた。


 この〈痕跡感知〉とも呼べる新たな技術が加わったことで、狩人たちは無用な消耗を避けながら、より確実に群れに接近することができた。


 狩人たちは最初こそ訝しんだが、すぐに彼の提案した方向の正しさに気づきはじめた。数分のうちに新たな痕跡を見つけ、迷いのない判断で群れに近づきつつあることを察した。


 彼らはアリエルの卓越した感性と異常な学習速度に驚きを覚えながらも、誰もおおげさに騒ぎ立てるようなことはしなかった。ただ静かに、それを受け入れるだけだった。異人が異常だったのは、今に始まったことではなかったからだ。


 いずれにせよ、アリエルはこの経験を通じて未知の技術に触れることの大切さを学び、旅の間、より多くの時間を狩人たちと過ごすようになった。そうして彼らの技術を少しずつ習得していくことになる。


 やがて一行は丘の稜線に沿って身を伏せた。そこからは、低木の合間を抜けて移動する鹿の群れが見えた。風は横から吹きつけていて、彼らは群れの背後に位置していた。


 狩人たちは手信号を交わし、斜面を迂回しながら風下へと回り込んでいく。弓の弦が張り直され、ゆっくりと矢がつがえられていった。その一連の動きすべてが、沈黙の中で慎重に進められていった。


 矢が放たれたのは、一瞬の静寂のあとだった。最初の一頭が倒れ、次の一頭がよろめく。鹿たちは逃げ出そうとしたが、包囲の手際と正確さがそれを許さなかった。その隙に、草陰から突進した狩人が、もう一頭の心臓を槍で貫いた。数分もしないうちに三頭が仕留められ、辺りには血の臭いが混じった湿った空気が漂いはじめていた。


 血抜きは手早く、そして慣れた手つきで進められた。生きているあいだに喉を裂き、素早く血を抜く。それから担ぎやすいように足を縛っていく。その間、誰ひとりとして無駄口を叩かない。すべては儀式のように、決められた流れの中で淡々と進行していく。


 作業を終えると、一行は探索隊との合流地点を目指して歩き出した。陽はすでに傾き、空気には凍てつく冷たさが混じりはじめていた。風は鋭さを増し、獲物を背負った身体からじわじわと熱を奪っていく。


 その帰路の途中、丘の上にひとつの影が立っていた。風に逆らうように佇むその影は、巨大な狼のモノだった。灰色の分厚い毛皮が風にたなびき、筋肉の起伏が体毛越しに波打つように動いている。群れではなかった。単独で、ただそこに立ち、眼下の一行を無言で見下ろしていた。


 狩人たちは本能的に身を固め、矢を番える者もいたが狼は一切反応しなかった。ただ、丘の上から静かに見つめていた。するとアリエルが前に出る。つめたい風が月白(げっぱく)の長髪を揺らし、狼と視線が交わる。その瞬間、時が凍りついたような静寂が訪れた。


 やがて狼は踵を返し、音もなく岩混じりの斜面を下っていった。風だけが残り、獣の気配は消えていった。そこで何が起きたのか、誰もその意味を理解していなかった。


 不可思議な邂逅ののち、狩人たちは探索隊との合流を果たした。野営地は風を遮る岩陰に設けられ、地面には厚手の毛皮が敷かれていた。その中央には石が円形に積まれ、焚き火を囲むように、毛皮をまとった人々が静かに腰を下ろし、それぞれの器で湯を啜りながら食事を分け合っていた。


 アリエルが焚き火のそばに腰を下ろすと、先住民のひとりが近づき、皮袋を差し出してきた。家畜の乳を発酵させて作った酒だと、となりに座るトゥーラが教えてくれる。感謝を口にしながら受け取り、少量を唇に含んだ。


 舌先に広がったのは微かな酸味とともに、以前よりも濃く感じられる塩味だった。寒冷地では塩分を取ることが大切なのだろう。発汗を伴う狩猟の後にふさわしい、身体に染み渡る味だった。


 やがてアリエルは狩りに同行した狩人たちに向き直り、トゥーラを介しながら、いくつかの質問を投げかけた。道具の使い方、矢の素材、獲物を仕留めたあとの処理の手順――彼は森での狩猟との違いに強い関心を抱いていた。


 すると狩人のひとりが鹿の骨で作られた(やじり)を見せてくれた。それは鉄よりも軽く、獲物を仕留めるというより、血を流させて動きを鈍らせることを目的としていた。弓もまた独特だった。反りの少ない短弓は携行性に優れ、至近距離での精確な一撃を狙うためのものだった。


 矢の軸を指差しながら説明する狩人は真剣そのものだった。そこには、よそ者に対する差別意識も(あざけ)りもない。彼らはアリエルの問いにひとつひとつ答え、言葉よりもむしろ、手の動きと実演によって理解してもらおうとしていた。


 夜は静かに深まりつつあった。焚き火のぬくもりが荒野の空気をわずかに和らげ、焚き火を囲んで座る者たちの影を、ゆらゆらと不安定に歪めていた。頭上では、厚い雲の切れ間から瞬く星が微かに顔を覗かせていた。


 狩りは成功し、肉が手に入った。それ以上に、今日という一日は、アリエルにとって未知の技術に触れる貴重な時間となった。

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