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つめたい風が荒原を這うように吹きつけていた。空には鈍く濁った灰色の雲が広がり、陽の光は遮られ、どんよりとした空気が空一面を包んでいる。前方に視線を向けると、起伏のない地形が、ゆるやかな傾斜を描きながら遥か遠方へと続いているのが見えた。
地面は凍結と融解を繰り返した痕跡に覆われ、泥とも土ともつかない冷たく固い地表は、歩くたびに足元をすくった。枯れた雑草が風に揺れ、水滴のついた地衣類が岩肌に広がっていた。
移動の間、誰も口を開こうとはしなかった。声を発しても突風にかき消され、意味をなさないことを誰もが理解していたからだ。アリエルは先頭を行くトゥーラのとなりに立ち、正面から風を受けながら歩き続けた。時折、視界の端で駄獣の背に積まれた荷が揺れるのが映る。駄獣の鈍い足取りが、旅の過酷さを否応なく物語っていた。
その道中、いくつもの打ち捨てられた集落を通り過ぎることになった。半ば崩れた石垣は枯れ草と地衣類に呑み込まれ、構造物と呼べるものは、瓦礫と化した石積みの壁だけだった。かつて人々が暮らしていた痕跡は、風と時の流れに削られ、すべてが消え去っていた。それでも荒涼とした景色は、この地の歴史を雄弁に語りかけてくるようだった。
三日目、一行は視界を塞ぐほどの濃い霧に捕らわれた。光すらも屈折するような霧の中、彼らは前に進むことすらままならず、地図も役に立たなかった。進むべき方向が定まらないまま、荒野の中で足を止めざるを得なくなったそのとき――濃霧の裂け目から、まるで浮かび上がるように廃墟が姿をあらわした。
それは、村と呼べるかどうも疑わしい場所だった。漆喰すら施されていない石積みの小屋が三棟、平坦な地に点在していた。屋根は芝土の重みに耐えきれず崩壊し、太い梁と苔生した石が交互に折り重なっていた。残された壁の窓枠には、風除けとして獣皮が張られていたが、ひどく汚れ原形が失われた状態で垂れ下がっていた。
村の中心には石積みの井戸があり、その近くには朽ちかけた家畜小屋の残骸が残されていた。アリエルは井戸の縁に手をかけ、中を覗き込んだ。浅い井戸の底には、わずかな光を反射する程度の水しかなく、かわりに露出した汚泥の中に黄ばんで砕けた人骨が幾重にも沈殿していた。その数は、ひとつの家族のものではなかった。
となりに立ったトゥーラが事情を説明する。彼女にも確信はなかったが、この場所は、かつて他部族の襲撃によって壊滅した先住民の集落だという。途中で黙り込んでしまったトゥーラの言葉を補足するように、テリーが詳細について教えてくれた。
かつて移住民と手を組んだ一部族が、わずかな報酬と引き換えに、それまで敵対していた部族を攻撃したのだという。そうした裏切りとも取れる略奪行為は、この地では決して珍しいものではなかった。もちろん、この村を襲撃したのが部族だったのか、それとも部族に見せかけた移住民の仕業だったのかは、今となっては誰にも分からないのだという。
沈黙が空間を支配したまま、誰も言葉を発さなかった。廃墟は風に晒され、霧のなかに静かに溶け込んでいた。過去の痛みと死が、そこに染みついていたような気がした。しばらくして霧が薄れはじめると、一行はようやく移動を再開することができた。
それから二日、遠くに先住民の集落の輪郭が見えはじめる。低く石を積み上げただけの建物群が、冷たい空気の中に沈むように佇んでいた。トゥーラが先導し、集落の中へと足を踏み入れる。〈風砂の民〉の先遣隊が焚き火を囲みながら、一行の到着を待っていた。彼らは言葉を発することなく、静かにうなずいて迎え入れてくれた。
焚き火の炎は温かく、その熱は、沈黙のなかにわずかな安心をもたらしてくれた。深い霧の中を彷徨いながら進んできた一行は、ようやく集落にたどり着けたのだ。
到着が遅れてしまったのは、荒原に立ち込めていた深い霧のせいだった。冬の到来とともに気温が下がり、地表付近の温度が急激に低下したことで、空気中の水蒸気が冷やされ濃い霧を生み出していた。荒原は幾重にも重なる濃霧に包まれていた。視界を奪う霧は、まるで意志を持つかのように行く手を阻み、旅人の方向感覚までも奪っていく。
集落にも白濁した薄霧が低く垂れこめ、岩と霜に覆われた大地には、幾度となく踏み固められた痕跡が微かに残されていた。
すでに到着していた先遣隊のまわりでは、駄獣たちが整然と列をなし、その背には布で包まれた荷がいくつも括り付けられていた。出発の準備は着々と進められていたが、アリエルたちの到着の遅れに対する不満は誰の表情にも見られなかった。荒原の厳しさを、彼らは誰よりも理解していたのだ。
その集落は、小高い丘の斜面に沿って築かれていた。石積みの外壁には苔が生え、雑草が繁茂していたが屋根は丁寧に補修されていて、家畜小屋や水場には生活の気配が感じられた。ルゥスガンドから提供された食料や燃料は、過酷な冬への備えとして充分に行き渡っていたのだろう。住人に空腹の様子はなく、焚き火の煙が静かに立ち昇っていた。
一行の到着に、集落の空気がわずかに揺らいだ。異人がまとう異質な気配を察知したのだろう。住人は紅い眼をした旅人を遠巻きに見つめ、その傍らに立つ賢女トゥーラの存在によって、なんとか気持ちを落ち着かせていた。
アリエルが頭巾を後ろへ払い、通り雨に濡れていた長髪をさらすと、集落の空気はさらに冷え込んだ。月白色の髪は、荒野を彷徨うと信じられている亡霊のように、周囲の視線を刺のように集めた。けれどトゥーラだけは怯えた様子を見せず、住人たちを安心させるように、アリエルのそばから離れようとはしなかった。
そうとは知らず――あるいは気にしていないのか、アリエルは小屋のひとつを借りると、濡れた毛皮を脱ぎ捨て、炉の火にあたりながら荷をほどいた。小屋の内部は質素ながらも、暖を取るには充分だった。梁には無数の薬草が逆さに吊るされ、乾いた芳香が空気にほのかに漂っていた。その隙間を縫うようにして、雨に濡れた鎖帷子を吊るす。
もっとも、それは〈石に近きもの〉の手で鍛造された特殊合金であり、羽のように軽く、それでいて錆びる心配はなかった。とはいえ、慎重な所作が身体に染みついているのか、アリエルはそれを丁寧に広げながら吊るした。
続けて黒衣を脱ぎ捨てると、すでに乾き始めていたザザの毛皮を肩に掛ける。肌が露わになるのも意に介さず、すっかり裸になって無言のまま火に手をかざした。
外では、駄獣たちの吐息が白く噴き上がり、手綱や縄を締め直す音が静かに響いていた。誰もが黙々と、しかし明日の出発に向けて備えていた。暖かな炉の灯りの中で、アリエルは冷たい息を吐き出しながら、静かに瞼を閉じる。しばらくしたら、過酷な旅路に備えて装備の確認をするのもいいだろう。
扉が軋む音とともに、小屋の中に冷気が流れ込んでくる。そこに姿をあらわしたのは、トゥーラだった。つめたく湿った毛布を片手に抱え、足音も立てず炉のそばに歩み寄ろうとしていたが、ふいにその動きが止まる。視線は、黒衣を脱ぎ捨てたアリエルの上半身に注がれていた。
炉の灯りが淡く揺れるなか、彼の右腕に異様な模様が刻まれているのが見えた。指先から肘にかけて、肌は深い鉄紺に染まり、硬質な鱗のような皮膚がその表面を覆っている。爪は真っ黒に変色し、まるで獣の鉤爪のように鋭かった。それはすでに何度か目にしていたが、こうして間近で見ると、その衝撃は圧倒的だった。
それは病の症状とも、外傷の痕とも思えなかった。ただそこにあるというだけで、根源的な不安が、恐怖とともに胸の奥から湧き上がってくる。それが呪いなのか、あるいは異なる部族の習俗による変質なのか、彼女には判断がつかなかった。
確かなことは、それが常識の外側にあるということだった。彼の身体能力も、人間の域を遥かに逸していた。あの戦いで見せた動き──速度、力、そして〝呪術〟と呼ばれる奇跡。そのすべてが常人の枠に収まるものではなかった。
もしそれが何らかの祟りによるものだとすれば、どれほどの因果がこの青年の内に渦巻いているのか、彼女には想像すらできなかった。
荒原には今も、古の怨念が染みついているとされていた。移住民たちの間では、それによる精神異常や突然死の数々が、先住民の〝呪い〟だと信じられていた。
実際、移住民が〈エーテルの泉〉を求めて荒原を探索していた時代には、多くの死者が出ている。その大半は未知の病原体による風土病が原因だったが、移住民の多くはそれを祟りだと信じて疑わなかった。
トゥーラの中にあったのは、祟りの恐怖というよりも、理解できないものに対する本能的な畏れだった。彼は異人であり、荒原を越え、その先に聳える白い峰々の、さらに向こうからやって来たのだという。
彼が語ったことは少ない。けれど、その沈黙と異質さ、そして理不尽なまでの強さが、どこか現実味を帯びていた。詮索してはならない――そう思ったのは、自分の身を守るためというよりも、彼との間に築いた小さな関係性を壊さないためだったのかもしれない。
ふと視線が合う。アリエルは無言のまま、炉の火越しにトゥーラを見つめ返していた。薄暗がりに照らされた彼女の浅黒い肌は、淡い灯りを受けて輝き、濡れた長い睫毛が頬にやわらかな影を落としていた。
その表情には、戸惑いも警戒もなく、ただ安心感に包まれた者の静けさがあった。時折、彼女は信じがたいほどの美しさを見せる。それは、過酷な土地で生き抜いてきた者だけがまとう、一種の厳粛さが垣間見せるものだったのかもしれない。
沈黙に耐えきれなかったのか、彼女は困ったような表情を浮かべたあと、炉のそばに歩み寄った。動きはどこかぎこちなく、気が動転していたのだろう。アリエルの目の前で、彼女は濡れた上衣を肩から滑らせるようにして脱いでいく。とくに深い理由があったわけではない。ただそこに火があり、衣が濡れていた――それだけのことだった。
アリエルは何も言わず、ただ彼女の姿を見つめていた。濡れた薄布越しに透けて見える彼女の乳房や、肌に走る無数の傷跡を見つめる。そのひとつひとつが、過酷な土地で刻まれた生の証だった。しばしのあいだ、ふたりは無言のまま炉を見つめていた。火は静かに燃え、荒原の風が石壁の隙間で微かな音を立てていた。