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いよいよ探索の準備が整うと、その夜、ルゥスガンドの屋敷で簡素な出発式が行われることになった。屋敷の大広間には、ふだんの静けさを破るように人々の声と食器の触れ合う音で満ちていた。三階建てほどの高さをもつ吹き抜けの天井からは、職人の手で丁寧に作られた金属製の燭台が吊るされ、無数の小さな火がそこで踊っていた。
その暖かな灯りは磨かれた石の床と彫刻が施された円柱を照らし、どこか幻想的な陰影を落としていた。灯りの下に並べられた卓上には、塩漬けの魚や香草と穀物を混ぜた温かい粥、蒸した芋や干し果実を混ぜた菓子の皿が整然と並んでいた。葡萄酒で満たされた陶器製の器がその合間を埋め、香りの強い蒸留酒も振る舞われていた。
出発式はあくまで簡素なモノとされていたが、それでも屋敷の主であるルゥスガンドの富の力が感じられた。そこにはアリエルとテリーのほか、〝風砂の民〟でもある賢女トゥーラと数名の先住民たちも招かれていた。
領主の屋敷に呼ばれるということが彼女たちにとっていかに異例であるかは、その慎重な立ち居振る舞いから明らかだった。普段は身に着けないような小綺麗な衣服をまとってはいたが、内心の警戒を隠そうとしない視線が、彼らの動揺を物語っていた。
移住者との間に長く続いた緊張関係――とくに〈エーテル〉を巡る争いの記憶は、今なおこの土地の空気に沈殿していた。その過去の一端を知る者として、アリエルは彼女たちがこの場に招かれたこと自体に、小さな驚きを覚えていた。
やがて人々は思い思いに食事と酒をとりながら言葉を交わしていく。探索隊の面々をはじめ、ルゥスガンドの関係者や屋敷の使用人も集まり、全体としては静かだったが、やがて次第に盛り上がりを見せながら宴はゆるやかに進んでいった。
いつものように黒い装束を身に着けたアリエルは、白絹の長衣に身を包んだルゥスガンドの娘――シビラと話をしていた。今日の彼女は、繊細な銀糸で刺繍された衣をまとい、髪には荒原に咲く小花を飾っていた。その場にふさわしく着飾ったその姿を目にしたとき、アリエルの記憶の奥で、ラライアや照月來凪の面影が揺らいだ。
どうして彼女たちのことを思い出したのかは分からなかったが、少女に何かを贈りたいと衝動的に考えた。そこでアリエルが取り出したのは、足首に着ける銀の装飾品だった。ごく簡素な造りではあるが、丁寧に編まれた鎖には神々の言葉が小さく刻まれ、〈魔除け〉と〈癒し〉の効果が付与されていた。
それは瘴気や病を退けると信じられ、負傷の際にも傷の回復をわずかに早める程度のモノで、驚くほどの効果は期待できなかった。しかし、この世界においては異質な存在だったことを忘れていた。
アリエルが装飾品を手渡し、その効果を説明すると、シビラの顔がわずかに驚きに揺れた。彼女はしばらくその銀の鎖を眺めていたが、やがてそれを胸元にそっと押し当て、静かに礼を述べた。この世界の人々は呪術を疑う傾向があるが、彼女は真実として受け止めてくれていた。
それを目にしたルゥスガンドの表情は、明らかに驚愕の色に染まっていた。無理もない。彼はすでに水薬の力をその目で見ていたのだ。
今回は、日常的に身につけるだけで娘の身を護る装飾品――しかも、奇跡を起こす呪術が刻まれた品が贈られたのだ。しかし彼は、娘からそれを取り上げるような真似はしなかった。むしろ、何度となくアリエルに礼を述べるほどに感謝していた。
そのルゥスガンドは、今夜の式にふさわしく、紺に染め上げられた絹の長衣をまとっていた。しなやかなその生地には繊細な刺繍が施され、袖口や襟元には金糸が縫い込まれていたが、豪奢というよりも、威厳を湛えた静けさのような趣があった。
屋敷の主として卓の上座に着いていた彼は、ふとした瞬間に杯を傾けながら、出席者ひとりひとりに視線を向けていた。しかしその眼差しは、長年統治の責を担ってきた男のものではなかった。期待を胸に秘め、ただ静かに見守る者の顔だった。
そこにアリエルがやってくると、彼は声を低くして礼を述べた。言葉は少なく、簡潔なものだったが、その重みは明らかだった。彼が感謝していたのは、数日前にアリエルから手渡されていた水薬のことだった。
あの瓶の封はすでに解かれていて、すでに薬液はすべて使い切っていたと聞かされた。それは彼の妻のために使われたのだという。長く床に臥し、快癒の見込みすら乏しいとされた重い病――命にかかわるような深刻な衰弱状態だった。
彼女は今、奇跡のような回復を見せているようだった。しかし、長く寝たきりの生活だったため筋力が衰え、この場に姿を見せることはできなかった。それでも身体を起こし、自ら食事をとり、言葉を交わせるまでに回復しているという。
式の準備中も、彼女は何度も『直接、礼を述べたい』と口にしていたという。しかしそれは叶わなかった。ルゥスガンドは、その言葉を何度も思い返していた。たとえ偶然であったにせよ、アリエルが差し出した水薬がその奇跡を呼び起こした――その事実は、彼の中で長く燻っていた焦燥を和らげるには、あまりに充分すぎる出来事だったのだろう。
その話を聞いたとき、ようやく腑に落ちた。なぜ彼がこの不毛の地で、わざわざ領主の役目を引き受けたのか。単なる職務ではない、個人的な意志がそこにはあったと理解できた。ルゥスガンドは、〈エーテルの泉〉と呼ばれる伝承の地を――あるいはその痕跡を探し求めて、この地に自ら赴いたのだ。
伝承の真偽には、彼自身も懐疑的だったのかもしれない。それでも彼は、この荒野で手に入るかもしれない希少な薬草に、治癒の手がかりがあると信じていた。そうでもなければ、わざわざこの極寒の地に妻と幼い娘を連れて移り住む理由などあるはずがない。
荒野に派遣されていた調査隊は、軍務の一環でも、開拓のためのものでもなかったのかもしれない。目的は、妻を癒す手段の発見――それだけだったのだろう。彼が言葉にせずとも、それは明らかだった。
この探索で〈エーテル〉を探せと強要してこなかったことも、アリエルの旅の目的に過剰な干渉を加えなかったことも、妻の命を救った者への純粋な感謝があったからにほかならない。
この地の支配者でありながら、彼は私情を捨てていなかった。むしろ、私情に忠実であることを誇りとしていた。そういう男だった。だからこそ、彼の静かな言葉には重みがあり、アリエルもまた、その真摯な想いに礼で応じるほかなかった。
ふたりは杯を交わしながら、しばし視線を交わす。言葉以上の理解が、その短いひとときに交わされた。こうして、簡素な催しは幕を閉じることになった。
夜明け前の空は、いつものように冷えきった灰色の雲に覆われていた。屋敷の前庭に、ゆっくりと朝の光が差し込みはじめるころ、石造りの門前にはルゥスガンドの娘シビラと、数人の使用人たちが集まっていた。寒さをこらえるように厚手の布を羽織り、吐く息を白く染めながら、静かに旅立つ者たちを見送っていた。
シビラは長衣の裾をしっかりと握りしめ、まるで言葉を探すようにアリエルを見上げていた。贈られた銀の装飾品は、足元でわずかに光を帯びている。けれど、別れの言葉は笑顔で交わされた。それが最後の別れにはならないと、彼女は信じていたのだろう。アリエルもまた、これからの旅が過酷なものになると理解していたが、それで充分だった。
テリーは素早く荷物を確かめ、駄獣の手綱を引きながら屋敷の門を抜けていった。朝靄のなか、硬い石畳の上を歩く足音だけが静かに響いていた。
アリエルもその後に続き、沈黙のまま港町の中心部にある広場へと向かう。そこにはすでにトゥーラをはじめとする〈風砂の民〉の姿があった。彼女は裾の長い旅衣の上から毛皮を重ね、風に髪をなびかせながらこちらに視線を向けている。その傍らには、氷原に向かう数名の先住民たちが立っていた。
十数頭の駄獣と数十名からなる探索隊の一部は、すでに数日前に先遣隊として港町を出発していた。アリエルたちは、先住民の集落へと向かったその先遣隊と合流するため、迅速に移動しなければならなかった。
ちらりと断崖に視線を向けると、薄い霧に覆われているのが見えた。つめたい風が頬をなで、彼らの前方には灰白色の荒野が広がっている。低くうねる地形の先には、未踏の氷原が広がっているはずだった。そこには風を遮るものはなく、雪の下には鋭く砕けた岩が埋もれ、遠い空には灰色の雲が重たくのしかかっていた。
数日の行程の間、物資を運搬していた先遣隊とは合流できない。必要最低限の水と食料、そして装備を積んだテリーの駄獣だけが、彼らの命綱となる。
風はどこまでも冷たく、地平線の彼方から鋭く吹きつける。旅の始まりにふさわしいものは、何ひとつとしてなかった。ただ、生と死の境界に足を踏み入れる覚悟だけが、彼らの背を押していた。
そうしてアリエルは無言のまま歩みを進めた。霜で凍りついた荒野の土の感触を確かめるように、再び過酷な環境に身を浸していった。