35〈エーテル〉
この世界の人々が〈エーテル〉と呼ぶ物質は、ただの薬ではなかった。それは信仰に近い幻想であり、人々の欲望と夢が結晶化したかのような、まさに〝奇跡〟と呼ぶにふさわしい霊薬だった。
どのような毒でも、重い病でも、あるいは命にかかわる深い傷さえも──ただ一滴、舌に落とすだけで癒してしまうと信じられていた。アリエルはルゥスガンドの言葉を反芻しながら、〈エーテル〉について考えていた。
この地のどこかに存在する〈エーテルの泉〉は──人間の手が及ばない遥か北方の果て、凍てつく氷原をさらに越えた先にあるという。民間伝承によれば、その泉の水は澄みきっていて、冷たくもほんのり甘みを帯び、ひとたび口にすれば死の淵からすら生還する奇跡の力をもたらす。
その効能について口にする者はいたが、それを実際に目にした者は誰ひとりとしていない。すべては、遠い昔から語り継がれる物語の域を出ることはなかった。
それでも、半世紀ほど前には〈エーテル〉の存在を信じ、数々の困難を乗り越えてこの地を目指した者たちがいたという。
海を越え、この荒原へと足を踏み入れた者たちの多くは、飢えに苦しむ者、病に侵された者、そして救いを信じる者たちだった。しかし何より多かったのは、〈エーテル〉に商機を見いだした者たちだった。名声を求める冒険者や傭兵、ある者は薬商人として、またある者は一族の命運をかけて。
彼らは遥かな海を越え、果てしなき荒野へとたどり着いた。そうして欲望と野心に満ちた者たちが港を築き、交易所が生まれ、市場には活気が満ちた。幻の泉を求める彼らの足跡こそが、この土地の礎となったとも言える。
やがて毛皮の流通と交易の利権が都市の骨格を支えることになった。〈エーテル〉が見つからなくとも、荒野には交易の道が開かれ、辺境にしては珍しく発展を遂げていった。しかし、その繁栄は束の間のものにすぎなかった。
当然のように、探索隊が時間をかけて捜索しても〈エーテルの泉〉は見つからなかった。どれほど掘り、地質を調べても、それは目に見える形では存在しなかった。その代わりに鉱脈が発見され、希少な鉱石や有用鉱物が掘り出された。鉄、銅、宝石や顔料として珍重される青金石、さらには石炭までもが見つかった。
それらは副産物ではあったが、この地の価値を決定づける要因となった。しかし本来の目的は果たされることはなかった。奇跡の水を求めてきた者たちは、次第に採掘へと傾倒し、利権に目を光らせるようになっていった。
移住者の増加に伴い、先住民との軋轢が次第に表面化していった。先住民の部族が〈エーテル〉の存在を知っているはずだと頑なに信じた荒くれ者たちは、暴力をもってその在りかを問い詰め、協力を拒む者には容赦なく力を振るった。その過程で先住民の多くが過酷な探索を強要され、奴隷として扱われる者もあらわれた。
こうして多くの集落が破壊され、家族は引き裂かれ、命を奪われた。先住民との間で争いは激化し、幾多の死が積み重なる中、人々は疲弊していった。そしていつしか、泉の在りかを巡る探求は忘れ去られていった。皮肉なことに、〈エーテル〉という名のもとに流された血の量は、癒された者の数をはるかに上回っていた。
やがて報復の連鎖が始まると、この地を治める人間が派遣されることとなった。港には剣と鎧をまとった兵士たちが溢れ、互いに正義を口にしながら、利権を巡る争いが絶え間なく続いた。そして〈エーテル〉を求める者はいなくなり、人々の関心から消え、やがて細々と語られる伝承へと姿を変えてしまった。
アリエルはふと思考を中断し、視線を上げた。つめたく湿った風が吹きつけ、足元から砂塵が舞い上がり、駄獣の毛並みに絡みつく。
〈ヤァカ〉にも似たその生き物の背には、しっかりと梱包された木箱や革袋が幾重にも括りつけられていた。荷を積む労働者たちは額の汗を拭いながら、黙々と作業を続ける。荷物のひとつひとつが、過酷な旅の現実を物語っていた。
鉄と油のニオイが混じる港の空気の中、物資を運ぶ人々の影が規則的に動いていく。奇跡を求めた時代の名残が、ただ静かに過ぎ去っていくのを眺めながら、アリエルは〈エーテル〉という言葉の背後にあった人々の欲望と絶望を思った。
小さな硝子瓶に入った水薬――ルゥスガンドはそれを奇跡と見たのだ。しかし、それはあまりにも滑稽で、同時に哀しい物語でもあったように思えた。
あらためて周囲を見回すと、どんよりとした曇り空の下、駄獣たちの群れが静かに蹄を鳴らしているのが見えた。港町の広場に設けられた一角では、十数頭の獣たちが列をなし、それぞれの背には毛織の布と革紐で縛られた荷が括りつけられていた。水袋、干し肉、薬箱、防寒着、そして天幕。同行する人間の数だけ、荷は増えていった。
この地でも珍しい規模の隊列だったのだろう。その異様な光景に誘われるようにして、人々が集まりはじめていた。好奇心に駆られた子どもたちは、荷を括りつけていた革紐に触れようとしては叱られ、跳ね回るようにして騒いでいた。その周囲では、仕事がなく暇を持て余していた男たちが腕を組み、無言で準備の様子を見守っていた。
女性たちは少し距離をとりながら、駄獣の様子や積荷の量を観察し、先住民のことを語り合い、季節の変わり目について囁き合っていた。時折、先住民の蔑称でもある〝砂被り〟という言葉が耳に入ってきた。
先住民たちは黙々と働いていた。彼らが身につけている衣は、いずれも鹿革や獣の毛皮を加工したもので、使い込まれていて装飾は最小限だった。年齢や性別を問わず、その動きには一切の無駄がなく、道具の扱いにも迷いがなかった。そこには、長くこの地に根を張ってきた者たちにしか持ちえない手際の良さがあった。
その雑踏のなか、アリエルに向かって歩いてくる女性の姿があった。毛布として使われるものだろう、無数の毛皮を抱えていたのはトゥーラだった。艶のある黒髪は編み込まれ、後ろで丁寧に纏められていた。黒曜石のように輝くその眸は、周囲の視線を意に介していなかった。
壮年の男性が彼女に近づくのが見えた。浅黒い肌は陽に焼け、石炭のように黒く熱を帯びた目をしていたが、声は低く抑えられていた。
先住民たちに直接指示を出していた男性で、トゥーラは彼のことを〝父〟と呼んでいたが、血の繋がりがあるのかは分からない。先住民たちの習慣として、一族は分け隔てなく家族として扱われていた。誰もが兄であり、父であり、そして母だった。
しばらく言葉少なに会話したあと、男性は毛皮を受け取って荷に括りつけるため、駄獣の方へと向かった。トゥーラは身じろぎもせずに立ち尽くしていたが、やがてアリエルの方へと歩き出した。光を反射する銀の飾りが髪の根元で微かに揺れていた。
その顔には、ほとんど表情というものがなかった。アリエルの前に立つと、彼女は口元だけで微笑した。
『それで──』と、トゥーラは言った。
『あんたは旅の準備をしないのかい?』
「必要ない」
その言葉を聞いて、トゥーラはまじまじとアリエルの顔を見つめた。
つぎの言葉が見つからなかったのだろう。困ったように眉が寄せた。こういう時、彼女はいつも必要以上に考える癖がある。そして考えるという行為は、彼女にとって常に〝困りごと〟のひとつだった。
彼女と出会ってから、まだ数週間しか経っていないが、この光景を目にするのはもう何度目か分からない。彼女にとって〝何かを考えること〟は、そのまま〝困りごとを抱えること〟にも等しかった。
アリエルを見つめる彼女の表情が、わずかに変化するのが見えた。唇の端が上がり、小さな微笑みを浮かべる。その口元から、小さく鋭い犬歯が覗いた。
彼女の肌は浅黒く、頬や首筋には薄い傷跡が点在していた。厳しい環境での暮らしの所為だろう。それでもその整った顔立ちは美しかった。目は大きく、頬骨の角度が鋭く、表情に乏しいはずのその顔に、なぜか見る者の視線が吸い寄せられる。
ふたりの周囲ではまだ騒がしさが続いていた。子どもたちの声、荷を括りつける音、鼻を鳴らしながら動く駄獣の音──それらすべてが、つめたく湿った風の中に溶け込んでいるようだった。アリエルはその騒ぎを背にしながら、トゥーラのことを見つめていた。やがて彼女は諦めたように肩をすくめた。
『……時々、あんたが本物の魔術師かなんかだと思う時がある』
冗談めいた言葉だったが、その目は真剣そのものだった。問いではなく、確認を取っているようでもあった。
「呪術師だ。森では、魔術とは言わない」
アリエルは偽りなく答えた。語尾に抑揚はなく、ただ事実を述べただけだった。
『……それって、似たようなモノでしょ?』
トゥーラはそう言って、少しだけ唇の端を噛んだ。
考える時の癖なのだろう。そっと首をかしげ、目を細めながらアリエルを見つめる。雲間から差す日の光が彼女の長いまつ毛を透かし、その影が頬に淡く落ちた。
『でも、否定はしないんだね』
アリエルはうなずいてみせた。
「これから何週間も一緒に行動することになる。否定したって、いずれそれが嘘だったって分かる時がくる。だったら、無駄なことはしないほうがいいと思ったんだ」
トゥーラは一瞬だけ考えこむような表情を見せたが、そっと唇を舐めると、わずかに口角を上げた。艶のある微笑みだった。表情の作り方が意図的であることを隠そうともしなかった。
『それなら――』と、彼女は囁くように言った。
『呪術師とやらは、他に何ができるの?』
アリエルは考えるように視線を伏せたあと、そっと視線を上げて、彼女の眸を見つめながら言う。
「敵を殺すこと以外に……か?」
返事に困ったのか、トゥーラはわずかに眉を寄せた。それから、ふっと小さく息を漏らし、笑いをこらえるように顔を背けた。
『あんたも冗談を言うんだね』
冗談を言ったつもりはなかったのか、今度はアリエルが困ったような表情を浮かべた。
トゥーラの髪飾りが音を立てて揺れる。ふたりの間に微妙な沈黙が生まれたが、それはぎこちなくも親密な一瞬だった。