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先住民〈風砂の民〉の集落で思わぬ戦闘に巻き込まれてから、すでに数日が経過していた。アリエルとテリーは荒野を越えて遺跡へ向かう過酷な旅に備え、着々と準備を進めていた。
しかし必要な物資の調達には時間を要し、出発は遅れていた。防寒具、駄獣の装具、長期保存が可能な食糧と飲料水、地図に記された難所を越えるための登攀具――どれひとつとして欠けてしまえば、命に関わる重要な装備だった。
その間、アリエルは領主ルゥスガンドの娘シビラと会っていた。静かな部屋で使用人に見守られながら、彼女は柔らかな声と優しい眼差しで異人の話に耳を傾けていた。
〈神々の森〉で出会った魚人の話を聞かせると、シビラは身を乗り出し、まるで水底の光を追うかのように目を輝かせた。湖の底には無数の古代遺跡が沈み、その間を魚人たちが泳いでいたこと。彼女たちの青い鱗が月光に濡れて煌めいていたこと。細部を語るたびに、彼女は興奮を隠しきれなかった。
亜人の存在が確認されていない世界だからなのか、使用人たちは眉をひそめていた。けれどシビラは疑うことなく、まっすぐな眼差しでアリエルを見つめていた。
相変わらず、対話の際には〈共感の護符〉を用いていた。護符が放つ微かな呪力が、大気を微かに震わせながら、言葉の奥にある感情を互いに伝えていた。しかし、その数は限られていたので、貴重な札を消費せずに〈共感〉の呪術を自在に扱えるよう習得する必要があった。
アリエルはひとりの時間を使い、呪力の性質を観察し、制御の手段を模索した。かつて独学で呪術を習得したときと同じように、呪素の流れを感覚で捉え、それを模して放つという手法は今回も有効だった。繰り返し試すうちに、護符なしでも〈共感〉の呪術を発動できるようになっていった。
それは不完全なモノだったが、やがてシビラとの対話では護符が不要となり、彼女の語る言葉の響きや抑揚、そして感情の動きが、より鮮明に伝わるようになった。無駄な呪力の流れを削ぎ落とすことで、呪術は精密になり、発動範囲は狭まったものの、その代わりに理解の質が深まった。
感情の機微だけでなく、言葉の裏に潜む意図までが、微かな温度の差となって伝わる。それは単なる呪術の習得というだけでなく、シビラとの対話を重ねるうちに、現地の言葉を聞き取れるようになったことも影響していたのだろう。
出発の目処が立たないまま、重く濁った空の下で日々は過ぎていった。しかし準備は着実に進んでいた。
その日、アリエルは背の低い石垣に腰を下ろし、これまで便宜上〈蛇刀〉と呼んできた小刀を手のひらにのせ、じっと見つめていた。呪力を帯びた細身の黒い刃は、光を吸い込むように鈍く沈み、見る者に微かな威圧感を与える。
集落での戦闘では、この小刀が予想外の威力を示した場面があった。直接的な斬撃というよりも、それが引き起こす現象によって敵を死に至らしめた。惜しむらくは、〈蛇刀〉に付与された本来の力――相手の呪素を吸い上げる能力を、意図的に試す機会がなかったことだ。
しかしそれは同時に誰かの命を奪うことでもあるのだから、ある意味では喜ぶべきことだったのかもしれない。
確かなことがあるとすれば、それは〈蛇刀〉がこの世界において、予想もしない効果を発揮したという事実だった。この世界の人間からは呪力が感じられず、体内を流れる微かな呪素すら、ほとんど感じ取れないほど希薄だった。それにもかかわらず、戦闘中に小刀を通して流れ込んできた呪素の量は、従来の世界と変わらないものだった。
あの感覚――鋭い針のように神経を貫き、胸の奥深くまで達する力の奔流。それは、この世界の人間が持つ呪素の質や量だけでは、到底説明がつかなかった。
ひとつの仮説が、アリエルの脳裏をよぎった。もしかすると、〈蛇刀〉は単に呪素を奪っているのではなく、吸収の過程で相手の生命力そのものを呪力へと変換しているのではないか。あるいは、この世界の構造そのものが異質であり、他の呪術と同様に、呪力の在り方に対して強い干渉を与えている可能性も考えられた。
しかしそれを確認する術はなく、無闇に試すには代償があまりに大きすぎる。あくまで推測の域を出るものではなかった。
通常の武器とは異なり、目に見えない呪素の流れに直接作用する〈蛇刀〉は、呪素の存在しない世界――そう信じていたこの地において、呪素を補給する最も効率的な手段になることに気づいた。
この小刀は、〈神々の森〉で守人の砦を襲撃しようとしていた呪術師から偶然手に入れたものだったが、それがこの世界で生き延びるための貴重な装備になっていた。
アリエルは小刀を〈収納空間〉に納め、そっと瞼を閉じた。つめたい風が石垣の隙間を抜け、足元を微かに撫でる。この世界で生きる術は確保されつつあったが、それは同時に、誰かの居場所を奪うことにもつながる。どのような選択であれ、それは世界に影響を与えてしまう。そのことを感じながら、静かに息を吐いた。
しばらくして、アリエルは暇そうにしていたトゥーラを連れて、沿岸で解体されていた海獣を見に行こうと考えていた。軽やかな足音が背後から近づいてきたのは、ちょうどそのときだった。
振り返ると、毛皮工房で偶然命を救った青い目の女性――今ではルゥスガンドの屋敷で使用人として働く若い女性が立っていた。清潔な衣服を身にまとった彼女は、礼儀正しく頭を下げ、ルゥスガンドが応接室で待っていることを告げた。
先住民たちへの報酬に関する話だと考えていたが、トゥーラはすでに交渉を済ませていたようだ。不審に思いながらも、アリエルは彼女の後について静かな回廊を進んでいく。 その廊下には細やかな装飾や狩猟の戦利品が控えめに飾られていて、主の趣向が色濃く反映されているようだった。
使用人の手で重厚な扉が開かれ、アリエルは応接室へと通された。暖炉の炎が低く灯り、厚手の毛皮が壁に掛けられている。すでにルゥスガンドは席についていて、その背後にはテリーが護衛として控えていた。
簡潔な挨拶を交わしたあと、アリエルは席に着く。簡素ながらも格式を感じさせる木製の机。その上には巻物や地図が広げられ、準備中の物資についての話が始まった。
執事が保存用の乾燥魚肉、凍結に耐える水袋、粉末状にした薬草類。そして旅の荷を運ぶ駄獣――短脚で毛の厚い、高地に適応した〈ヤァカ〉に似た獣たちの手配についても知らせてくれる。テリーも説明を補足しながら、塩分を含む保存肉や乾燥野菜の確保状況について、淡々と報告していく。
ルゥスガンドも要所で言葉を挟みながら、各物資の納入状況を確認していた。氷原を越える旅には不可欠な、靴底に装着する金属製の爪付き金具も準備してくれていた。
けれど倉庫に保管されていた旧式のものは錆び付き、装着部が脆くなっていたため、職人が鍛造し直す必要があり、その完成には数日を要するとの説明を受けた。時間はかかるが、そのぶん耐久性は保証されるという。
これらの物資の対価として、アリエルが差し出すのは治療用の水薬だった。しかし、品質の低い水薬に価値を見出していなかったアリエルは、それだけでは足りないと考え、これまで旅の中で入手したいくつかの品々も提供することにした。
それらは敵対者から鹵獲したものであり、使用するあてもなかったモノだったので、この地で受けた数々の助力への礼として、放出して身軽になることにした。
もはや毛皮の能力を隠すつもりはないのか、アリエルは〈収納空間〉から取り出した品々を、ひとつずつ卓上に並べていく。南部の都市〈抵抗の丘〉で、良質な土と熟練の陶工によって焼かれた釉薬がかかった陶器。口縁に銀細工が施された酒杯には、淡く花を模した青の染付が描かれていた。
それらの品の中には、ルゥスガンドが誇らしげに見せてくれたグラスに匹敵する品はなかったが、それでもこの地の粗野な器とは一線を画していた。
続いて取り出したのは、手のひらに収まるほどの銀の装飾品だった。曲線を多用した装飾は、部族の古い信仰を象徴していたようだったが、今ではその意味を知る者はほとんどいない。それなりに価値のある品ではあったが、恩義に報いるため、アリエルは惜しげもなく手放した。
そして最後に取り出したのは、水薬の瓶だった。手のひらにすっぽりと収まる小さな硝子瓶。その澄んだ青色の液体は、微かに灯りを反射しながら瓶の底でわずかに揺れていた。 瓶には紙が巻かれ、封を守るための簡単な呪文が焼き付けられていた。微かな呪力を帯びたその紙には、薬液の劣化を防ぐ役割も備わっていた。
ルゥスガンドは品々を興味深そうに観察していたが、水薬の瓶が卓に置かれた瞬間、その視線が止まり、表情がわずかに引き締まった。青い眼差しが瓶の内側を覗き込むようにじっと動かず、その沈黙が水薬の重要性を物語っているようだった。
ルゥスガンドは水薬の瓶を手に取ると、そっと傾けて揺らめく液体を無言のまま凝視していた。小窓から差し込む薄明かりが瓶の内側で淡く反射し、静かにきらめいた。しばしの沈黙のあと、彼はゆっくりと顔を上げて低く抑えた声で言った。
『……これは、エーテルなのか?』
その言葉は、アリエルの耳にどこか異質に響いた。
けれど〈共感〉の呪術によって、ソレはまるで聞き慣れた言葉のように、ゆっくりと頭の中に染み込んできた。〈神々の森〉では、すでに忘れ去られた言葉なのかもしれない。
アリエルは再び瓶に視線を戻した。硝子越しに揺らめく液体。それは彼にとって見慣れた凡庸な水薬だった。〈神々の森〉で錬金術師たちが大量生産していた薬品のひとつであり、貴重な〈霊薬〉とは異なり、低質な素材と呪素が用いられたため、効能は限定的で不安定だった。
しかし、この世界では違った。品質の低い水薬ですら、まるで神が与えた奇跡のような効果を示した。それについて疑問は残るが、今はエーテルについて知る必要がある。アリエルは迷うことなく、質問を投げかけることにした。




