33〈賢女トゥーラ〉
灰色の雲が重たく垂れこめるなか、死者の平安を願う祈りが捧げられる。賢女トゥーラは戦場の中央に立ち、血に染まった大地に両膝をついて天を仰ぐ。その唇から紡がれるのは、静かな祈りの声。言葉の意味は分からなかったが、その調べは荒原の風に溶け、魂を慰めるように響いた。
彼女の両脇には、戦いで家族や仲間を失った者たちが集まり、膝を折ってその姿を見守っていた。荒野に生きる者たちが抱える死の重みは、よそ者には計り知れない。そこには、確かな敬意と哀惜があった。
祈りが終わると、先住民たちは無言のまま周囲に散らばる遺体を回収していく。アリエルもテリーに声をかけたあと、彼らを手伝うことにした。いくつかの遺体はひどく損傷していて、原型を留めていないものも多かった。手足の失われた者、顔が潰れた者、臓物が飛び出ている者。その中には、家族の名を呼びながら自らの手で亡骸を運ぶ者もいた。
燃料に乏しい荒原では遺体を焼却するだけの木材が確保できないからなのか、先住民たちは古い仕来りに従い鳥葬を行うという。
土葬という選択肢もあるが、荒野の地面は硬く、掘るには適していない。そのため、特別な権限を与えられた一族の者が遺体を頭から足の先まで細かく切り分け、肉や骨を露出させたあと、聖地に並べて鷲に食べさせるという。
回収された遺体の多くは現場で解体されることになる。重い刃で骨を断ち、肉を裂いていく。腹部は大きく裂かれ、食べやすいように内臓をむき出しにする。人体が解体される様は、あるいは儀式に近いのかもしれない。いずれにしろ、そうして軀は旅立つ準備を終える。
鳥たちを介して、肉体を天へ還すという意味合いもあるようだ。内臓と骨は大気に晒され、やがて空へと昇っていく。それが彼らの信仰の一部だった。
アリエルも〈神々の森〉で似た風習を目にしたことがある。その中には、鳥葬に似た方法で遺体を処理する者たちもいたが、これほど整った手順で行われる鳥葬は稀だった。大抵は急ごしらえの焼却か、簡素な土葬で済まされる。この荒原には、死と共に生きてきた者たちの風習と、確かな信仰が根付いているように思えた。
先住民たちと協力して一箇所に集められた遺体は、駄獣の引く荷台に積み重ねられ、毛皮をかぶせられて集落の外へと運び出されることになる。その周囲には、槍と弓を手にした先住民の若者たちが護衛として立つ。死臭が漂う荷には獣も人も惹きつけられるため、つねに警戒しなければならないのだろう。
アリエルの残忍な戦いを目の当たりにしていたからなのだろう。護衛の男たちは、賢女トゥーラを集落に残していくことに不安を覚えているようだった。彼女に何かあれば、この一族が滅びることを自覚しているのだろう。それでも、遺体を長く集落に留めるわけにはいかなかった。
遺体を急いで処理するのは、荒野に生息する狼などの猛獣を集落に近づけないためだった。血と死の臭いは、すぐに周囲の猛獣を呼び寄せる。隔絶された地で生きる彼らには、他の共同体からの支援を得る術がなく、自らの力で身を守らなければならない。たとえ相手が狼であっても、孤立した集落にとっては脅威となるのだろう。
生き残った者たちは、そのことを誰よりも理解していた。だからこそ、躊躇いながらも旅立った。どこからともなく風が吹きつけ、乾いた土をわずかに舞い上げ、死の行列を包み込む。荷台を引く駄獣の足取りは重く、沈黙がすべてを支配していた。
こんな結末を望んだ者は誰一人としていなかった。しかし、不満を口にする者もいない。遠ざかる死者の列を見送る者たちの顔には、深い悲しみの色が滲んでいた。
祈りと遺体の処理を終える頃には、灰色の雲に覆われた空は薄暗くなりかけていた。やがてトゥーラに名を呼ばれると、アリエルとテリーは彼女の後に続く。たどり着いたのは、集落の中心に近い石造りの小屋。かつて病に伏した若者が治療を受けた場所でもある。夜の気配が迫る中、その小屋だけが微かに煙を吐き出していた。
入り口の毛皮をくぐると、薄暗い室内は外観からは想像できないほど広く、天井も高かった。仕切りのない一間続きの空間は、踏み固められた土間で整えられ、中央には石を積んで囲んだ炉が据えられている。炉は円形を成し、表面が煤で黒く染まった平たい石が何層にも重なっていた。
その炉の中心では炎が弱々しく揺らめき、その灯りが石壁に影を踊らせながら、小屋の内部を静かに照らしていた。
空気は重く、煙たい。湿り気を帯びた土のニオイが鼻を突き、炉の煙は煙突へ逃れる途中で室内に広がっていく。その空気に混じるように干し肉や獣の脂、古い毛皮の獣臭が鼻腔を刺す。
壁沿いには無造作に積まれた毛皮が何枚も重なり、天井からは乾燥中の薬草や干し肉が紐で吊るされていた。その空間の一角には革紐で編まれた籠や手製の器が並び、炉の近くには黒ずんだ石鍋と木製の杓子が置かれている。
トゥーラは何も言わず、炉の傍らに敷かれた大きな毛皮を手で示した。アリエルは促されるまま、その場に腰を下ろした。薄汚れた灰褐色の毛皮は擦り切れ、ところどころ地肌が覗いていたが、冷えた身体には不思議と温もりが伝わる。
背を伸ばしながら座ると、わずかに焦げた獣脂の臭いが鼻を掠めた。炉の炎が時折ぱちりと弾ける音を立て、壁際の影を揺らしている。
テリーも腰を落とし、アリエルのとなりに座った。彼は石壁に背を預けながら、周囲に視線を巡らせた。外からの音に微かに耳を傾け、出入り口に人影がないかを確かめるように目を凝らす。その慎重な様子に、兵士としての癖が表れていた。
もはや襲撃の心配はないと分かっていても、すぐに応戦できるように油断だけはしない。その意識が、彼の動作すべてに染みついているようだった。アリエルも敵意を感じていなかったが、それでも懐に小刀を忍ばせていた。
間もなくして、小屋の奥から年配の女性が姿をみせた。深く皺の刻まれた顔には、疲労の色が浮かんでいる。以前、アリエルが治療した青年の母親に違いなかった。彼女に差し出された椀には、白濁した液体が注がれていた。湯気はなく、ぬるりとしたその液体は微かに泡立っていた。
テリーによれば、客人に酒を振る舞うのは先住民たちの伝統的な習慣のようだ。アリエルは感謝を口にしてから受け取り、わずかに頭を下げた。
それから唇を椀の縁に寄せてそっと口に含む。家畜の乳を発酵させたものだろうか、酸味が強く、泡が弾けて鼻に独特の臭気が抜けた。甘さはなく、むしろ微かな塩味が後味として残る。乳の香りが濃く、口当たりは重く、舌にねっとりと絡みつく。独特の臭気を放つソレは好みの味ではなかったが、それでも礼を尽くして飲むことにした。
炉の熱が衣に染み込むなか、トゥーラは向かいに腰を下ろし、炎を静かに見つめていた。その背後では薬草の束がゆるやかに揺れている。厳しい自然と向き合い続ける暮らしの気配が、空間の隅々まで染み渡っているようだった。
炉の炎が静かに揺れるなか、トゥーラは近くに積まれた毛皮と道具の山から、動物の皮紙で作られた簡素な地図を取り出した。彼女の考えを察して、アリエルも地図を広げて炉のそばに並べる。
両者の地図が並ぶと、トゥーラは静かに片膝をつき、長い指で印のひとつをなぞった。〈共感の護符〉越しに伝わる彼女の感情は慎重で、その奥には焦燥と不安が潜んでいるのが分かる。
『遺跡にたどり着くには、〈白い荒原〉を越えなければいけない』
彼女が示したのは地図の北東、ほとんど未踏に近い高地帯だった。
そこは一年を通じて雪と氷に閉ざされ、風は皮膚を裂き、まつ毛さえ凍りつく地だという。吹き荒ぶ風は骨の髄まで突き刺さり、氷原では方向感覚すら奪われる。過去にその地を越えた者はほとんどいない。迂回路はなく、遺跡にたどり着くには〈白い荒原〉を踏破するしかなかった。
遺跡は平原にある遺跡群のひとつと考えていたが、トゥーラの言葉によれば、それは誤りだった。目的の〝門〟は、古の文明が築いた都市の中心部に存在するという。
地図上では、廃墟に埋もれたただの一点にすぎない。しかし、かつてこの地を支配していた者たちが遺した巨大な構造物群――それらの遺跡の多くは、今も氷の下に眠っているという。アリエルが探しているのは、その都市遺跡の中央に存在する〝門〟なのだと、彼女は静かに告げた。
その道のりは、想像できないほど過酷な旅となる。食料、水、燃料、予備の装備――どれかひとつでも欠ければ命にかかわる。物資の運搬には駄獣が不可欠であり、地形が険しい場所では荷を背負って崖を登る歩荷も必要になる。
凍結した峠、雪に埋もれた峡谷、渡河困難な氷河の裂け目……それらすべてを越えて進まなければいけない。トゥーラは一族の中でも逞しく経験豊富な者を選び、同行させると話してくれた。ただし、それには当然、相応の報酬が必要になると付け加えた。
アリエルは、その交渉をテリーに任せることにした。〈共感の護符〉を通じた意思疎通には限界があるうえ、これほど複雑な条件を含む契約には細心の注意が必要だった。正式な仕事として、間違いのない形で取り決めを交わさなければならない。テリーはうなずきながら、時折トゥーラの言葉を確認するように質問を投げかけていた。
旅に必要な装備の多くは、港町に戻って調達しなければならなかった。保存食、極寒用の衣類、精密な道具類、替えの履物や水筒、そして氷上移動に用いる特殊な器具――この集落では手に入らないものばかりだ。出発には少なくとも数日を要する。
問題は、出発の遅れが命取りになる季節が迫っていたことだ。氷原が完全に閉ざされる前に、すべての準備を整えなければならない。
トゥーラは地図の上に指を置いたまま、しばし黙り込んでいた。その怜悧な眼差しは、遺跡ではなく、その手前に横たわる困難な道程を見据えているようだった。
アリエルもまた、地図の空白地帯を眺めながら、そこで何が待ち受けているのかを想像しようとしていた。旅の目的地は、ただの古代遺跡ではない。極限の寒冷と孤独、そして過去に置き去りにされた何かが、そこで彼を待ち構えているように思えた。




