32
荒野で狼の死骸を回収し終えた青年は、駄獣を連れて集落へと戻っていた。先ほどまで聞こえていた喧騒はすでに静まり、灰色の雲が空に垂れ込めるように、重苦しい空気が辺りに満ちていた。駄獣の吐く息は白く、冷たく湿った風が枯れ草を撫でながら、血の臭いを運んできていた。
集落を囲む石垣が見えてくると、彼は思わず足を止めた。かつて見慣れていたはずの場所が、まるで捕食者の群れに蹂躙されたかのような異様な場所に変わり果てていた。
地衣類を赤く染める血は乾ききらず、汚泥と混じりあって黒ずんだ血溜まりを作っていた。地面に横たわる死体の多くは、集落の狩人たちだった。その中には一緒に旅してきた仲間の亡骸もあったが、そのほとんどが斬り裂かれ、内臓が露出している。獣の牙ではなく、人の手によって加えられた損傷だと気づいた瞬間、青年の喉が微かに震えた。
腹を割かれ、内臓が飛び出している者。片腕を失いながらも地面に爪を立て、逃げようとする痕跡を残したまま事切れた者。目を見開いたまま、額に手斧を深々と突き立てられたまま動かない者もいた。薄霧がわずかに残るなか、死体の間をゆっくりと歩く青年の足取りは重く、駄獣さえも鼻を鳴らして警戒するように身をすくめていた。
崩れた石垣の間を抜け、ようやく集落の通りに出たとき、青年の目に生き残った者たちの姿が映った。通りの中央では、応急処置を受ける者たちが膝をつき、血で包帯を赤く染めていた。腕を吊られた若い女性は苦痛に顔をしかめ、倒れた者の胸を押さえながら必死に止血する男性の手は震えていた。
通りの端には、身動きできなくなった負傷者が何人も横たわっていた。呻き声は絶えず、誰のものか判然としないほどに低く、断続的に聞こえていた。目を閉じたまま手足を痙攣させる者、唇だけを動かしながら声にならない言葉を呟く者。死んでいるのか、まだ生きているのかさえ分からない者が、そこかしこに倒れていた。
青年は駄獣の背に積んだ狼の死骸を降ろすことさえ忘れ、その場に立ち尽くしていた。血の臭いが辺りに充満し鼻腔を満たし、遠くで誰かが嗚咽を漏らすのが聞こえた。仲間たちの顔を見るたびに、無傷で立っている者がほとんどいないことに気づく。
唇が乾き、何か言おうとしても声にならなかった。ただ目の前の惨状に心臓が締め付けられるような痛みと、言いようのない寒気を感じていた。目の奥がじんと熱くなる。
過酷な自然と共に生きる者にとって、猛獣を仕留めることはただの生存手段ではなかった。それは、己の力と技術を証明するモノであり、狩人としての誉れでもあった。だからこそ、あの狼を倒したにもかかわらず、アリエルがその死骸に一瞥もくれなかったことに、青年は言葉にならない戸惑いを覚えていた。
群れを率いていた狼は大きく、明らかに老練な個体だった。毛並みも見事で、丁寧に剥げば高価な外套や交易品にもなる。けれどそれ以上に、青年の胸にはアリエルが放った矢に対する強い好奇心が残っていた。彼はそれを確かめるために、ひとりで狼の遺体を回収する役目を買って出た。
灰色に染まる空の下、血の臭いを辿りながら岩場を掻き分けてたどり着いた現場には、まだ乾ききらない赤黒い痕跡が残っていた。地面に崩れるように横たわる狼の巨体は、すでに硬直が始まっていたが、その首元には深く矢が突き立てられていた。
青年は死骸のそばにしゃがみ込むと、慎重に毛皮に触れながら矢を引き抜く。しかし鏃は原形を留めておらず、いくつもの小さな破片が肉に食い込んでいるのが見えた。
鏃が爆ぜるように体内で砕けた痕跡だ――それは意図された破壊でなければ説明がつかないほど、完璧な位置で破裂しているように見えた。その効果を狙って作られた矢だったのなら、それは相手を確実に殺すことに特化した恐るべき凶器でもあった。
青年は無意識に唇を引き結び、背筋に微かな緊張を走らせた。アリエルという異人が、どのような種類の戦場に立っていたのかを、ほんのわずかでも垣間見た気がした。
それから青年は狼の死骸を駄獣の背に括りつけ、集落へ戻った。そうして彼は集落を覆っていた死の静けさを目にすることになった。
あらためて周囲を見回すと、無数の死体が折り重なるように転がっていた。皮膚を裂かれ、臓腑を地面に撒き散らした者。肩から斜めに斬り裂かれたまま、目を見開いて空を見ている者。矢が喉元に突き刺さっている死体の近くでは、戦闘の巻き添えになった哀れな駄獣が息絶えていた。
青年は足元に視線を落とす。濡れた土の間に、黒くしみ込んだ血の跡が残っていた。無傷で立っている者などひとりもいない。呻き声と咳、喉に詰まった血を吐く音だけが通りから聞こえてきていた。応急処置を施されている者の中には、すでに意識を失い、目を開いたまま動かない者もいた。
そしてその中心に、あの異人が立っていた。返り血はおろか、汚れひとつない黒い厚手の毛皮を身に着け、まったく疲労の色が見られない。手にしていた奇妙な小刀からは、粘度の高い血液が糸を引きながら滴っている。青年の視線を感じたのだろう、アリエルがこちらを見つめ返すのが見えた。
深紅の双眸が微かに明滅し、地底から這い上がってくるような身も凍る冷気の気配が肌を刺した。言葉など交わさずとも、その眼差しだけで全身の鳥肌が立つ。
青年はその場に立ち尽くし、息を殺しながら思った。――やはり、あれはこの荒野に巣食う得体の知れぬ化け物に違いない。姿こそ人のようでも、その実、世界の理から外れた存在なのだと。自然の猛威や獣の脅威などよりも、はるかに危険で邪悪な存在だと。
狼の死骸を背負った駄獣が、鼻を鳴らして小さく後退る。青年もまた、無意識のうちに視線をそらし、一歩だけ身を引いた。言葉にならない混乱と、恐怖とも畏怖ともつかない感情が、胸の奥でじわじわと広がっていた。
駄獣の脇に屈み込んだ青年は、くくり付けていた革袋の紐をほどき、中から乾燥させた薬草の束と、清潔な包帯を取り出していく。裂傷に効く葉を手早く千切り、器用に揉みほぐしながら周囲に視線を巡らせると、ふと、通りの端から歩み寄ってくる人影が目に入った。
彼女は集落の精神的指導者であり保守的だった〝祖母〟とは対照的に、一族の未来を見据え、長らく言葉と行動で人々を導いてきた賢女だった。濃い灰色の外套を羽織り、血に濡れた足元を気にする様子もなく、まっすぐに異人のもとへと歩み寄っていく。
青年は手の動きを止めかけたが、すぐに薬草の処置に意識を戻した。今は仲間たちの命を繋ぎとめることを優先すべきだった。
アリエルもまた、彼女が近づくのを遠くから感じ取っていた。足音よりも先に、彼女の気配が近づいてくるのが分かった。
すぐそばに控えていたテリーが、腰の剣に手を添えて一歩前に出ると、アリエルは軽く首を振った。護符の効果を介した微細な仕草で、彼女に敵意がないことを伝える。テリーはうなずいたあと、先住民たちの治療を手伝いに向かう。
女性と対峙したアリエルは、ゆっくりと彼女の様子を観察した。風が止んだように、空気が重くなる。荒野のどこかから吹き込む冷気が血の臭いと混じり合うなか、ふたりの間だけは静かだった。
彼女は背筋を伸ばし、まっすぐに立っていた。肩をすくめるでもなく、足元を見つめることもない。だがその表情の奥には、揺れ動く感情が幾重にも重なっていた。
その眼差しの奥底に宿っていたのは、純粋な怒りだった。歯を食いしばるようなわずかな顎の動き、指先のこわばり、ぎゅっと結ばれた唇――それらが彼女の感情を雄弁に物語っていた。だが同時に、その瞳の奥には、今にもこぼれ落ちそうなほどの悲しみが、張り詰めた薄膜のように浮かんでいた。
〈共感の護符〉を通して伝わってきたのは、言葉を持たぬ叫びのような激情だった。怒りと悲しみ――それらすべてを呑み込みながらも、膝を折ることを拒む強靭な精神が、そこには確かにあった。
長い沈黙が過ぎた。やがて彼女は視線を逸らすように俯いて、足元に転がる石ころを見るような仕草のあと、低く、静かな声で言った。
『……弟は無事だったよ』
その言葉からは、戸惑いと疑問が感じられた。
アリエルの言葉が真実だったのかを、すでに彼女は確認していた。たしかに、死の淵にあった弟は生きていた。壊れかけた命が、〝何か〟によって現世に引き戻された。だが、その〝何か〟がもたらしたのは奇跡だけではなく、集落を覆い尽くす惨劇でもあった。
祖母が扇動したことは確かだ。それに従った狩人たちにも責任がある。けれど――そもそもアリエルが集落に来なければ、その争い自体、起こらなかったのだ。その事実を、彼女の心から決して拭い去ることができなかった。
弟の命を救ってくれた恩人。だが同時に、一族に死をもたらした異人でもある。その矛盾に、彼女は未だ覚悟を定めきれずにいた。何かを責めようとすれば、何かを否定することになる。そのことが自身の信念に反することも、彼女は分かっていた。
『……約束は守る。遺跡にも案内する』
彼女は深く息を吸い込み、静かに続けた。
『けれど、それとは別に――報酬は払ってもらう。狩人たちは死に、私たちはこの荒野で生きる術を失ったんだから』
それは訴えではなかった。要求でも、懇願でもない。ただ冷酷な現実を突きつける言葉だった。アリエルはうなずいたあと、正当な報酬が支払われることを伝えた。領主の名においてそれが保証されていること、そして、それによって先住民が損をすることは決してないと。
彼女はその言葉を黙って受け取った。納得したかどうかは分からない。ただ、その眼差しから怒気が少しだけ引いたような気がした。複雑な思念が、ようやくひとつの形に収まり始めたのだろう。
しばらくの沈黙のあと、彼女は右手を差し出した。一族の血で汚したその手は、微かに震えていた。けれど力強く、真っ直ぐに差し出されていた。
『……トゥーラだ』
そのとき初めて、彼女は名前を口にした。アリエルと視線を交わしたまま、複雑な感情と責任のすべてを胸に抱えながら。その名は風に乗り、やがて荒野の果てに消えていった。