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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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30〈集落〉


 白い息を吐く駄獣の向こうに、背の低い石垣が見えた。風に削られ、灰色に風化した石が積み上げられ、その隙間から雑草が覗いている。崩れかけた石の角が、ここに刻まれた長い年月を物語っているようだ。いくつかの石造りの家屋が一定の間隔で並び、煙突から薄っすらと煙が立ち昇っているのが見えた。やはり、以前訪れた集落で間違いない。


 アリエルの胸の奥がざわつく。あのとき――病に苦しむ青年を救うために〈治療の護符〉を使った結果、欲望に呑まれた住人たちに刃を向けられることになった。その記憶の影が蘇ると、荒野の風よりも冷たい汗が背筋を伝うような嫌な感覚がした。


 そこで、ふと奇妙な気配がよぎる。アリエルは立ち止まり、ほとんど無意識に目を細めて呪力を集めた。その瞬間、視界の色が剥がれ落ち、白と黒の世界が広がった。〈生命探知〉を介した視界には、付近一帯の生命の揺らぎが白い輪郭となって浮かび上がる。


 集落の入り口付近、崩れた石垣の影や家屋の死角に、複数の人影が潜んでいた。武器を握り、肩を上下させながら、呼吸を整えている。こちらの接近に気づいているのは間違いない。すでに臨戦態勢だ。石垣を越えた瞬間、容赦なく襲いかかるつもりなのだろう。


 呪力を霧散させて瞼を閉じる。目を開くと、世界に色彩が戻っていた。先住民を率いるあの女性は、待ち伏せに気づいていないのか、それとも知りながらも無視しているのか。彼女は迷いなく駄獣たちを導き、ごつごつした岩場を進み続けていた。住人たちと共謀している可能性もあるが、単に情報を伝えられていないだけかもしれない。


 ここで立ち止まるべきか、それとも前に進むべきか――決断を迫られる場面だった。しかし、いずれにせよ、引き返せなくなる前に知らせたほうがいいだろう。アリエルはテリーに視線を送った。


「集落の入り口付近に、武器を持った人間が潜んでいる。彼女に伝えてくれないか」


 テリーは眉を寄せ、剣の柄に手を添えたあと、小走りで隊列の先頭へと駆けていった。駄獣たちは不安そうに鼻を鳴らし、列がわずかに乱れる。女性に待ち伏せの報告をするテリーの口元は緊張に強張り、彼女の瞳が鋭く細められるのが遠目にも分かった。やはり、彼女にも襲撃の情報は伝えられていなかったのかもしれない。


 ちょうどその時だった。騒々しい怒号が響いた。堪え切れなくなった数人の襲撃者が、石垣の影から飛び出し、手斧や棍棒を振りかざしながら駆けてくる。その鈍い刃は、灰色の雲間から差し込む光を受けてぎらついていた。


 先住民たちは何が起きているのか分からず、混乱し、駄獣の世話をしていた若者たちまでもが腰の短剣を引き抜き、鋭い視線をこちらに向ける。


『待て! 俺たちは――』

 テリーは誤解を解こうとしたが、やむを得ず腰の剣を抜き放ち、敵意を向ける先住民たちと対峙した。その剣先は、荒野に差し込む冷たい光を受けて獰猛な獣の牙のように輝く。


 隊を率いていた女性に視線を向けると、彼女は無言のまま、冷ややかな眸でこの光景を見つめていた。その表情には、どこか戸惑いにも似た感情が見て取れた。駄獣のそばに立っていた先住民たちも次々と武器を抜き、困惑した顔をこちらに向ける。


 その混乱の中、彼女がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるのが見えた。表情は落ち着いていたものの、無言の圧力を帯びた視線でアリエルを真直ぐに見つめていた。彼女は目の前に立つと、約束の報酬を渡すよう迫った。


 けれど、この状況で遺跡に案内してくれる確信もない。だから、まだ報酬を渡すわけにはいかない。落ち着いた声でそう告げると、彼女は眉間に皺を寄せて不満の色を示した。それはすぐに脅迫めいた感情を孕む言葉へと変わった。どんな病や傷でも癒すという薬を、今すぐ渡せ、と。


 その頃になると、〈共感の護符〉を介して、彼女の胸の奥にある焦燥が伝わってきた。誰かが病に倒れているのだろう。しかし、それでも彼女の態度によって、アリエルの考えが変わることはなかった。


 そのとき、集落の奥から杖をついた老女が姿をあらわした。以前、この場所で会ったことがある。老女は彼女のもとへ歩み寄り、何事かを告げる。その口元は薄く笑みを浮かべていたが、アリエルを見つめる視線の奥には欲望が潜んでいた。


 石垣の影では、武器を手にした者たちが静かに身を潜め、じりじりと距離を詰めていた。彼女が共謀しているというよりも、集落そのものが一枚岩ではないようだった。彼女は純粋に水薬を求めている。その一方で、老女の口からは、かつてこの地でアリエルが用いた〈治療の護符〉の話が次々と溢れ出る。


『いいね、あれこそが奇跡だ。必ず奪い取るんだ!』

 その声は荒々しく響き渡った。


 アリエルは慌てずに周囲を観察した。武器を向ける者たちの身体が小さく震えているのを見逃さなかった。恐怖と殺意が入り混じった目つきは、今にも飛びかかりそうでありながら、同時に躊躇(ちゅうちょ)しているようにも見えた。


 それはテリーを取り囲む者たちも同様だった。剣を握りしめているものの、その顔には疑念が張り付いていた。町の有力者の付き人を、ここで無闇に斬ってよいのか――その判断がつかず、躊躇しているのだろう。


 女性に視線を戻すと、護符を通じてわずかな安堵が感じ取れた。以前、アリエルが護符を使い治療した青年は、どうやら彼女の親類だったらしい。しかし彼女とは対照的に、老女の声は荒れ果て、唾を飛ばしながら喚き散らしていた。


『あの札を奪え! 異人を殺すんだ!』

 しゃがれた声が乾いた風に乗り、石造りの家並みの隙間へ響き渡る。空気は鈍く淀み、集落の奥に潜む悪意の気配がひたひたと近づいてくるような気がした。


 先住民たちの間に、微かな温度差が生じているのをテリーは感じ取っていた。欲望に駆られ、奇跡の護符を何としても奪おうとする者たちと、道中でアリエルの実力を目の当たりにし、その力に恐れを抱き、むやみに刃を交えようとしない者たち。対照的なふたつの空気が、乾いた風の中で入り混じっていた。


 アリエルは老女から視線を逸らし、これまで隊を率いてきた女性に目を向けた。すでに、あの時の焦燥は感じられず、護符を通して彼女の落ち着いた感情が伝わる。もはや、ここで無益な血を流す意味はないだろう。


 穏やかに、しかし揺るがぬ声で告げる。

「争うつもりはない。ただ遺跡に案内してほしいだけだ」


 彼女の望みが青年の治療なら、その目的はすでに果たされたはずだ。だからこそ、約束どおり遺跡へと導いてほしい。もちろん、望めば別の報酬も用意する。アリエルの声には、一切の妥協も動揺も見られなかった。


 彼女の視線が揺らぎ、複雑な感情が交錯した。しかし、その僅かな逡巡を老女の怒声が切り裂く。白く濁った目を見開いた老女は、周囲の人間に向かって言葉を叩きつけた。すると集落の男たちは一斉に武器を手に取る。鈍色の刃が乾いた空気を裂き、静かに威圧する。


 アリエルは彼らの動きをゆっくりと見据えながら、長い毛皮の裾を片手で払い肩の後ろに投げやり、腰に吊るした手斧の柄に――あえて手を伸ばす仕草を見せた。戦う意志を示すためだ。しかし、その仕草が集落の狩人たちの決意を揺るがすことはなかった。むしろ、刃先がほんのわずかにこちらへ傾いた気がした。


 不穏な気配があたりを満たし、男たちの首筋を冷たい汗が這う。アリエルはゆっくりと呼吸を整え、一瞬たりとも視線を逸らさず、彼らの動きを注視する。


 集落の男たちは荒い息を漏らしながら、一歩、また一歩と間合いを詰めてきた。石垣の向こうで何かが軋む音がする――新手だろうか。


 すると、彼女の制止の声を振り切るように、薄汚れた毛皮をまとった男が武器を握りしめ、地を蹴って迫ってきた。老女に何を吹き込まれたのかは分からないが、浅黒い豚のような顔は欲望に歪み、緊張と興奮が絡みついた唇の端が不気味に吊り上がっていた。


 男が地を蹴るたびに砂利が舞い上がり、乾いた音が荒原に響く。その顔には、殺気と恐怖が入り混じった光が宿っていた。斧の刃を振りかざすその姿を見て、アリエルは瞬時に攻撃を見極める。手斧で頭部を叩き割るのは容易だった。しかし、できれば血の雨は避けたい。


 アリエルは、周囲の視線が自分に向けられていないことを確認すると、男の足元にそっと意識を向けた。呼吸をひそめ、冷気を一点に集めるように呪力を練り上げる。


 呪術が付与された護符や矢のように、この世界では、わずかな呪力で大きな効果を生み出せる。そのため、周囲の人間に気取られぬよう、繊細な操作で呪力を放つ必要があった。 それはまるで夜気のように滲み出し、男の足の裏に張りつくと同時に、ひび割れた地面の上に透明な薄氷を形成していく。


 彼が踏み込んだ瞬間、足首を支えるはずの大地に裏切られる。叫ぶ間もなく、勢いのまま滑ると、前のめりに倒れて岩に額を叩きつける。鈍い音が聞こえ、男の身体は痙攣を起こし、ぴんと伸ばした手足が不自然に震えた。やがて、欲望という衝動に駆られた男は動かなくなった。


 男の呻き声の代わりに、数人の先住民の口から〝祟り〟という言葉が漏れた。あれは悪鬼の仕業、呪われしものに手を出すべきではなかったのだと。目を見開き、血の気を失った顔で後退る者もいる。これで彼らの戦意を削ぐことができたように見えたが、思い通りにはいかなかった。


 倒れた男の頭蓋から流れ出る血の臭いは、集落の者たちの怒りに火をつけた。武器を握ったまま、我を忘れたように叫び声を上げ、駆けてくる者がいる。怒号が渦巻き、複数の足音が乾いた地を叩いた。


 アリエルは静かに溜息をつき、腰の斧を引き抜く。刃が冷気を裂き、重みのある殺気を帯びていく。これ以上の対話は、もはや不可能だった。

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