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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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27〈シビラ〉


 人波をかき分けるようにして酒場を出て、濡れた石畳の上に立つころには、夜気が冷たく肌を刺していた。先住民たちに遺跡までの案内を依頼し、酒を酌み交わしたあと、ようやく席を立つことになった。そのさい、彼女の視線は油断なく、荒野を渡る風のように冷ややかだった。


 明朝、港町の外で落ち合う約束を交わしたが、背後に漂う緊張感は最後まで消えることがなかった。


 人々で賑わう通りを歩いている間、テリーは考えに耽るように黙り込んでしまっていた。その横顔は張りつめ、硬い沈黙が漂っていた。港町に暮らす先住民たちは、普段は真面目な労働者として知られている。しかし一歩荒野へ踏み出せば、話は変わってくる。採掘場を荒らす盗賊紛いの連中や、行商人を襲う先住民たちの報告は後を絶たない。


 それでも、彼らを盗賊だと断じるには、あまりにも情報が足りなかった。決断を急ぐべきではない――そう自分に言い聞かせているようでもあった。


 とにかく、必要な情報を手に入れたアリエルたちは領主の館へと戻ることにした。もちろん、奴隷の身分から解放されたばかりの女性も一緒だ。彼女は不安と安堵がないまぜになった複雑な表情で、石畳で揺れる影の様子を眺めていた。


 毛皮工房で死ぬまで酷使される日々からは解放されたのだから、彼女は今の境遇を歓迎していた。しかしそれと同時に、たった一日で絶望から幸福へと移り変わった己の運命に、戸惑いと感謝が入り混じる複雑な気持ちを抱いていた。懲罰を言い渡されたとき、誰がこんな展開を予想していただろうか、彼女は涙をこらえるようにうつむいた。


 館の門をくぐると、壁掛け燭台の淡い灯りに照らされた石造りの壁が彼らを迎えた。屋敷の中は、外の喧騒とは別世界のように静かで、足音さえも絨毯に吸い込まれていくようだった。


 一行はそのまま執事に案内され、厳かな雰囲気に満ちた応接室へと通された。そこで彼らを待っていたのは、館の主でもあるルゥスガンドだった。彼は柔らかな笑みを浮かべていたが、その瞳には仕事の疲れと微かな安堵が垣間見える。


 アリエルは、案内人としてテリーをつけてくれたことに感謝を述べたあと、今日の出来事を報告しておこうと考えた。〈共感の護符〉だけでは伝えきれない細かな情報や、先住民たちとの約束はテリーが補足してくれた。もちろん、予期せぬ襲撃についても報告せざるを得なかった。


 その間、奴隷から解放された女性は応接室の片隅で終始緊張を隠せずにいた。しかし、ルゥスガンドの柔らかな視線で見つめられると、こわばっていた肩の力が抜けていくのを感じた。


 すでに毛皮工房で働いていて、これまでの経歴や背景について確認されていたからなのか、彼女はテリーの保護のもと屋敷で働くことが決まった。まったく予期していなかったことだったが、少なくとも、もう奴隷として過ごすことはなかった。


 報告を終えたあと、テリーと女性はその場に残り、エルだけが応接室をあとにする。そこで、ふとルゥスガンドの娘と会う約束をしていたことを思い出し、アリエルは面会の許可を求める。ルゥスガンドは娘が旅の話を好むことを知っていたのか、微笑みを浮かべるようにして快諾してくれた。


『彼女のもとに案内させよう』

 ルゥスガンドの声は穏やかだった。アリエルは使用人に導かれ、夜気に沈む館の廊下を歩く。蝋燭の灯りが揺れるたび、壁に映る影もまた揺らめき、今朝とは異なる印象が感じられた。


 案内された広間には、年代物の梁がむき出しになった天井と、艶やかな木製の長卓が据えられていた。卓の上には薄紅色の布がかかり、真鍮の燭台があちこちに置かれて、柔らかな揺らめきで部屋を照らしていた。向かい合うようにして置かれた椅子には、柔らかな詰め物が施され、背もたれには繊細な刺繍がほどこされていた。


 アリエルが椅子に腰を落ち着け、ぼんやりと周囲の様子を眺めていると、やがて扉が静かに開いた。使用人に手を引かれるようにして、ルゥスガンドの娘が入ってくる。彼女は扉の前で一瞬立ち止まり、椅子に座るアリエルの姿を認めると、パっと花が咲くような笑みを浮かべた。


 しかしすぐに気を取り直し、小さな足音を響かせながら部屋の中央へ進み出る。ほんのわずかに膝を折り、儀礼的な礼を示してから静かに席についた。


 透き通るような金髪は燭台の灯りを受けて淡く輝き、額のあたりで緩やかに波を描いている。その奥では、湖面のように澄んだ青い瞳が真っ直ぐアリエルを見つめていた。あどけなさの残る純真無垢な顔立ちと、首元の小さな銀の飾りが、無邪気さと気品を同時に感じさせる。


『約束を憶えていてくれて、ありがとう』

 そう口にした彼女の声は鈴のように澄み渡り、まるで朝露に濡れた静かな森で、小鳥がそっと(さえず)るかのようだった。


 アリエルはうなずいて見せたものの、何を話せばいいのか分からず、言葉を探すように視線を彷徨わせた。これまで子どもと接する機会がほとんどなく、砦での生活しか知らなかった。そのため、普通の人々の暮らしや子どものことについて知識がなかった。


 けれど彼女は気にする様子もなく、少し背筋を伸ばして、まるで遊びの最初の挨拶のように、無邪気な笑顔で自己紹介をした。本来なら、それは男性であるアリエルの役目だったのかもしれない。しかし、そのような慣習を気にする者は、この場にはいなかった。


『わたし、シビラっていうの。可愛らしい名前でしょ? お父さまが選んでくださったのですよ』


 アリエルは、その名を舌の上でそっと転がし何度か発音してみた。その響きは、神々の言葉のように優雅で、妙に心地よかった。続けて彼が名乗ると、シビラはころころと嬉しそうに笑い、テーブルに肘をつく。そして両手で頬杖をつきながら、瞳を輝かせた。


『ねぇ、あなたは、どこから来たの?』

 その問いかけには、子どもの底知れない好奇心が滲んでいた。そして言葉の端々から、彼女の中で世界が広がり続けている最中だと伝わってくるようだった。


 アリエルは彼女の背後に控える使用人の姿をちらりと確認した。遠巻きに見守るその人影を意識しつつも、表情を崩すことなく、ごく自然に質問に答えた。


 山の向こう側に広がる古い森から来たと語った。そこは緑深く、風が木の葉を揺らし、その音が絶えず響く場所だと。夜になると霧が低く立ちこめ、まるで夢の中にいるかのように幻想的な光景が広がる。そこでは、人々が太古の神々とともに暮らしていたと。


 それから、アリエルは日記帳を取り出すと、森の風景を写生した(ぺーじ)を開いた。紙の上には、苔むした倒木や深い渓谷の影、小川のせせらぎ、そして霞がかった山々が白と黒の濃淡で緻密に描かれていた。シビラは瞳をきらきらと輝かせ、まるで宝箱の中身を覗き込むように、身を乗り出して見つめた。


『わぁ……とても綺麗。ほんとうに、こんな場所があるの?』

 その無垢な声には曇りも疑いもなく、ただ真っすぐな感動と好奇心に満ちていた。


 アリエルが頁をめくっていくと、白い紙の上に、小さな生き物が描かれているのが目に留まった。シビラはその絵をじっと見つめ、好奇心で青い瞳を煌めかせた。


『この可愛らしい生き物は?』

 小さな手を叩きながら声を上げた。


 そこに描かれていたのは、全身を純白の体毛で覆われた、ふわふわとした小動物だった。仔猫ほどの体長しかなく、長い耳がちょこんと立ち、背中の縞模様が印象的だった。その姿はどこか(いびつ)で、愛らしさとともに不思議な違和感を漂わせていた。


『この子、どんな生き物なの?』

 シビラは首をかしげ、両手を胸の前でぎゅっと握りしめるようにしてアリエルを見つめた。目の奥には、宝物を見つけた子どものような期待があった。


 アリエルは一瞬言葉を詰まらせる。その生物は〝飢えた仔猫(カチャ)〟と呼ばれ、死肉を(むさぼ)る悪食の捕食者であり、腐食性の唾液で獲物の肉を溶かして食らう獰猛な存在だった。しかし、そんなことをこの無垢な少女に伝えられるはずもない。


 だから残忍な姿を思い浮かべないように注意しながら、〝群れで生活する臆病な猫〟だと説明した。夜になると背中の赤い模様が淡い燐光を放ち、それで獣たちを脅かすのだと。


 けれどシビラは敏感にアリエルの気持ちを感じ取ったらしい。小さな口を尖らせて、ぷぅっと頬をふくらませ、息を吐くように溜息をついた。


『きっと、驚くような秘密があるのね』

 子どもらしい単純な問いかけなのに、どこか胸を突くほど真っ直ぐだった。


 アリエルは視線を落とし、思わず笑みをこぼした。

『ねぇ、アリエル。これは……なぁに?』


 彼女の小さな指先がそっと触れたのは、古の神々を象った木像の絵だった。ざらざらとした木肌の表面には細かい模様が彫りこまれていて、人でも獣でもない奇妙な姿をしていた。まるで自然そのものの荒々しさを封じ込めたような雰囲気があった。


 森の人々が旅の安全を祈るために作ったものだと説明した。古くから存在する部族の中には、こういった木像を木の根元に埋めて、森の精霊に捧げる習慣があると。アリエルが話をしている間、シビラは目を輝かせ、両手で頬を支えるようにして夢中で話を聞いていた。


『素敵ね……物語に登場するおまじないみたい』

 その無邪気な声は、燭台の光に照らされた金色の髪と溶け合うように柔らかく響いた。知らない世界の話を聞くのが、よほど楽しいのだろう。シビラの胸が小さく上下し、呼吸さえも弾んでいるのが伝わってくる。


 けれど楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていく。開いた扉の向こうに立つ控えの使用人がそっと視線を送ってきた。どうやら、彼女の就寝の時間が近づいているらしい。シビラは名残惜しそうに、手帳の絵をじっと見つめたまま小さく口を開いた。


『もっと、たくさんお話聞きたかったな……』

 子どもらしい素直さと、心からの興味があふれていた。


 アリエルは、また話を聞かせる約束をして立ち上がる。するとシビラも立ち上がり、小さくお辞儀をしてみせた。


『ぜったい、約束だよ』

 そうしてアリエルは彼女を見送った。扉が閉まる直前、振り返ったシビラが小さく手を振るのが見えた。その笑顔は燭台の灯りに照らされて、無垢な輝きを残して消えていった。

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