26〈風砂の民〉
厩舎で駄獣を預けたあと、テリーの案内で酒場へと向かうことになった。茜色に染まる港町の通りは人々の雑踏に包まれていて、多くの買い物客や労働者であふれていた。通りを吹き抜ける冷たく湿った風には、魚や肉の生臭さが混じり、人々の汗の臭いと絡み合うようにして空気を重くしていた。
露店が軒を連ね、樽を並べた魚屋では新鮮な魚の銀鱗が光り、吊るされた魚の血が滴り落ち、薄汚れた石畳に赤黒い染みを作っていた。荷車を引く労働者は、油で汚れた肩を怒らせながら道を塞ぎ、威勢のいい呼び声があちこちから響いてくる。アリエルたちは、その喧騒を押し分けるように進んでいった。
毛布に包まった女性を連れているせいなのか、それとも頭巾を目深にかぶったアリエルが目立っていたのかは分からないが、いくつもの視線にさらされていた。それは好奇の眼差しであり、疑念を孕んだ視線でもある。干物を扱う露店の前を通るたびに、塩気の強い臭いとともに篝火の灰が舞い上がるのが見えた。
人波をかき分けるようにして酒場に入ると、そこでも同じような視線を浴びることになった。けれどテリーは気にするそぶりも見せず、薄暗くて煙たい店内を一瞥したあと、出口に近い卓を選んで腰を下ろした。兵士としての習慣なのだろう。出入り口の確保を優先していることが見て取れた。
燭台の灯りが壁に揺らめく影を映し出し、炉のそばには楽師がいて、笛を吹きながら酒場の空気を賑わせているのが見えた。テリーはその様子を眺めたあと、すぐに三人分の温かい葡萄酒と軽食を注文した。ほどなくして運ばれてきた焼き魚は荒々しく捌かれ、皮目はところどころ焦げて香ばしく、脂が滲んでいた。
やがてテリーは店主に荒原の先住民ついて訊ねた。店主は目を細めるようにして店内を見回したあと、〝砂被り〟の連中はまだ見ていないが、浅黒い肌に彫りの深い顔立ちと赤い頬が特徴的だから、すぐに見つけられるだろうと言う。確かに、それならすぐに見分けがつくはずだと彼はうなずいた。
テリー自身、〝風砂の民〟と呼ばれる先住民については知っていたが、その存在を特別に気に留めたことはなかった。彼らは真面目な労働者としての評判があるものの、人々との接触を避けていて、傲慢な奴隷商人や漁師たちのように騒ぎを起こすこともない。ちらりと店内を見回すと、炉の周りで談笑する人々の声が絶え間なく聞こえてきていた。
今後のことを相談していると、ひんやりとした空気を身にまとった数人の先住民が酒場に入ってくるのが見えた。粗い布地の衣服に、薄汚れた毛皮を羽織り、腰の革帯には手斧や小刀を下げている。それらの刃物の柄には動物の骨を削って加工した装飾が見えるが、それ以外に特別変わったところはない。
彼らは店内を見回したあと、薄暗い隅の席に腰を落ち着け、警戒するように視線を走らせた。とくに変わった様子はなかったが、それでも、たしかに彼らは目立っていた。
アリエルは迷わず席を立ち、彼らのもとへ向かった。獣の臭いが染みついた毛皮の下からは、荒原の砂と風を含んだような息遣いが感じられる。焼け焦げた魚の香りと炉の煙が混じる空間のなか、数人の先住民が静かに立ち上がるのが見えた。彼らが身にまとっていたのは、鋭く研ぎ澄まされたような戦士の気配だった。
燭台の灯りに浮かび上がる顔立ちは険しく、腰に吊るした手斧の柄にそっと手を添えるのが見えた。しかし、その中のひとり――頭巾を目深にかぶった女性だけは、こちらに背を向けたまま葡萄酒の瓶を傾けていた。瓶の口から器にこぼれ落ちたのは、わずか数滴。その赤い滴を見つめながら、彼女は乾いた笑みを浮かべた。
『酒が足りないな』
低く、けれどどこか艶やかな声が響く。それから彼女は仲間の動きを手のひらで制し、ゆっくり振り返ってアリエルの顔をまっすぐに見据えた。
『私たちに何か用があるのかい、外人さん』
この土地でも聞き慣れない種類の言語だったが、〈共感の護符〉を介して、その意味を把握することができた。
アリエルは周囲に立つ者たちを刺激しないように、ゆっくりと日記帳を取り出し、古びた革表紙を開いて中の頁を見せた。そこには森に呑み込まれ、朽ち果てようとしている遺跡が幻想的に描かれていた。
「〝時の眠る園〟と呼ばれる遺跡について知る者を捜している」
ゆっくりと、感情を伝えるように言葉を口にする。
彼女は言葉が理解できることに戸惑っていたが、それでも手帳を手に取り、紙の質感を確かめるように長い指で頁をめくっていく。
それから彼女はそっと頭巾を外し、乱れた髪を指先でゆっくり梳いた。そこでアリエルが目にしたのは、息を呑むほどの美貌を持つ女性だった。蝋燭の灯りが揺らめく中、日に焼けた浅黒い肌は金の粉をまとったように煌めき、長い睫毛が頬に柔らかな影を落とす。黒曜石のような眸は深く、冷たい静けさと燃えるような熱を同時に宿していた。
彼女は妖艶な笑みを浮かべたあと『どうして〝時の眠る園〟を知っているんだ?』と、深い夜の底を思わせる静かな声で問いかけた。アリエルは正直に答えた。軍の調査隊に所属していた兵士から話を聞いたこと。そのとき、案内役として先住民がいたことを。
『あんたの目的はなんだい?』
彼女はそう言いながら、ゆっくりと立ち上がった。炉の灯りが肢体を照らし出し、布地の隙間からしなやかな筋肉の起伏を浮かび上がらせる。背は高く、この世界の平均より一回りほど高く、アリエルとほとんど視線の高さが変わらない。
金属の装飾が豊満な胸元で微かに光を反射した。アリエルは目を細めたあと、彼女の漆黒の瞳の奥で揺らめく蝋燭の火を見つめながら、再び遺跡について話した。
「門を探している」と。
それは先ほどと変わらない説明ではあったが、より気持ちが伝わるように、〈転移門〉の姿を思い描きながら言葉を紡いでいく。
彼女は手帳に描かれた〈転移門〉をじっと見つめ、唇の端をわずかに吊り上げた。小さな灯りが揺らめく中、その笑みは甘く、そしてどこか暗い企みを孕んでいた。艶やかな光を帯びた瞳がアリエルを射抜くように見据え、沈黙が落ちた。
アリエルは彼女の視線を真っ向から受け止めるように、じっとその顔を見つめていた。そのさい、頬や唇に小さな傷痕があるのが目についた。つめたい風が吹き荒ぶ荒原に生きる民だからなのか、彼女の美しさには、ただ繊細なだけではない力強さが感じられた。やがて彼女は吐息とともに肩をすくめ、声を潜めて笑う。
『本気なのね。てっきり、遺跡を破壊しようとしている盗掘者なのかと思った』
その声は落ち着いていたが、どこか刺すような皮肉も含んでいた。
「盗掘者が、どうして遺跡を破壊するんだ」
アリエルが問い返すと、彼女は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに柔らかな表情を浮かべる。
〈共感の護符〉を介した対話は、言葉以上の感情を伝えることができたが、そのすべてを正確に読み取ることはできない。それでも、彼女の語り口に微かな怒りと不快感が含まれていることは分かった。
かつて、この地にやってきた者たちは荒原に点在する遺跡を〝異教徒の神殿〟と断じ、火を放ち、破壊を試みた。しかし途方もない年月を経ても、そこに在り続けた偉大な遺跡の数々は彼らの手では砕けなかった。やがてその憎悪は周辺の集落へと向けられることになった。人々は焼かれ、逃げ惑い、そして、遺跡から遠ざけられていったのだという。
いつから遺跡が存在するのか訊ねると、彼女は肩を揺らし、含み笑いを浮かべた。
『さぁね、それは誰にも分からない。でも、そうね……数千年前、青い目の人々が火を使えるようになって、ようやく暗い洞窟から這い出したころには、すでにそこにあった』その言葉の裏には、暗く冷たい悪意が滲んでいた。
それは港町で暮らす人々のことかと訊くと、彼女はまた肩をすくめ、そっと視線をそらす。その態度には、今もそこに生きる者たちへの複雑な思いが隠されているようだった。
しばし沈黙が流れた。アリエルは思案を巡らせたあと、彼女たちに遺跡までの案内を頼めないかと切り出した。もちろん、報酬も用意するつもりだと。
彼女は唇の端をわずかにつり上げ、男たちの顔を見回しながら笑った。
『聞いたかい、報酬だってさ』
そしてアリエルに向き直り、妖艶な微笑を浮かべる。
『それで――赤い目の外人さんは、私たちにどんな報酬を用意してくれるのかしら?』
アリエルは、それがどんな病や傷でも癒す薬だと説明した。その言葉を聞くと、彼女は突然、声高に笑ってみせた。黒い瞳の奥で蝋燭の火が揺れ、その光が不規則に踊る。
『そんなものがあるわけないじゃない。いいかい、外人さん――私たちを揶揄うのは止してくれ』
彼女が一瞬だけ見せた表情は、荒野を渡る風のように冷たく、鋭かった。
薬の効果を証明したいが、ここでは目立ちすぎる。アリエルがそう説明すると、彼女は笑みを引きながらも、ふっと瞳の奥に影を落とす。しかしその表情は一瞬で消え、次の瞬間には、何かを企むような、いたずらめいた笑みを浮かべた。
『それなら、こうしましょう』声色は甘く、けれどその奥底に挑発の色が垣間見える。彼女が少し身を乗り出すと、蝋燭の灯りが胸元に影を落とす。『私たちの集落に、ひどい怪我を負った仲間がいるの。もし仲間を癒せたら、あんたを遺跡へ案内してあげる』
アリエルは迷わず承諾した。その決断の早さに、彼女は驚いたように目を見開き、表情が揺らぐ。しかしすぐに気を取り直して、艶やかな笑みを唇に浮かべた。
『そう、それなら――』
彼女は葡萄酒を注文し、杯を高く掲げて豪快に笑った。
『この出会いを祝福しましょう』
その声には、どこか甘い毒が滲んでいた。




