24〈白塔〉
つめたい風が吹き荒ぶ丘陵を越えると、目指す場所がひっそりと姿をあらわした。寂れた石積みの小屋と、それを囲むようにして築かれた石垣が見える。
風化の進んだ小屋の背後には、それとは対照的な白い石材で築かれ塔がそびえていた。その塔は半ば地中に埋もれながら、荒涼とした大地に佇んでいた。
風の合間に、微かに傾いた塔の影が揺らめく。白い石材は滑らかで、曇り空から差し込む日の光を淡く反射している。周囲を見回すと、崩れかけた石垣の内側、低木すら育たない囲いの向こうに、〈ヤァカ〉に似た生物が草を食んでいる光景が広がっていた。
何頭もの偶蹄類が鼻先を擦り合わせながら、群れの秩序を保ちつつ動いていた。彼らが荒原に生息する狼などの捕食者の標的になるのは容易に想像できる。石垣は単なる囲いではなく、おそらく家畜を守るための境界としても機能しているのだろう。
その石垣を越えて敷地内に入ると、テリーは目を覚ましていた女性の肩を支えながら、小屋の中へと入っていく。相変わらず隙のない動きで、軍人としての習性が抜けていないことが、その歩幅や視線の向け方から見て取れた。アリエルは彼の背中を目で追いながら、傾いた白い塔へと足を向けた。
塔の壁面は長年の風雨に晒されてきたにも拘わらず、水垢や苔すら付着していない。風化による亀裂もなく、装飾らしきものも見当たらない。人の出入りのための開口部すらない。足元に埋まっている塔の基部へと視線を向けると、黒い土の中に沈み込むようにして石像が埋もれているのが見えた。
それは人間の姿を模した像で、露出していたのは頭部と肩口だけだった。土に埋もれていたためか、劣化はほとんど見られず、表情や髪の束ね方まで鮮明に確認できる。像の目は何かを凝視するように固まっていたが、その視線の先には、ただ荒れ果てた大地が広がるばかりだった。
この塔は、地中に埋もれる構造物の一部なのかもしれない。もし露出しているのが頂上部分だとすれば、入り口はさらに深く、地中のどこかに隠されていることになる。地形の起伏や地面の様子を丹念に観察したが、手がかりらしきものは見つからない。
建設隊がいてくれたら、呪術を使って強引に掘り返すこともできたが、今は遺跡についての情報を集めるのが先決だった。
アリエルは腰の革帯に吊るしていた日記帳を手に取ると、白い塔と周囲の地形を写生していく。石材の質感や石像の位置、塔の表面に見られる筋状の模様――後で情報を整理するための簡単な記録にすぎなかったが、荒原に突き出た異質な構造物を前にして、手の動きは自然と慎重になっていた。
しばらくして、小屋の扉が軋む音とともにテリーが姿をあらわした。室内では、毛皮の買い付けに訪れた奴隷たちの責任者と、猟師たちの間で交渉が続いているようだった。
我々に構っている時間はないようだったが、手の空いている奴隷ならば話をしても良いとのことだった。アリエルは話を取り次いでくれたテリーに感謝し、軽く頭を下げると、奴隷たちの話を聞きに向かった。ちなみに、テリーは襲撃の件で話があるのか、その場に残ることになった。
石垣に囲まれた敷地の内側では、薄汚れた毛皮をまとった数人の奴隷が黙々と家畜の世話をしていた。植物の根を掘り返すようにして草を食む動物たちのそばで、彼らは水桶を運ぶ。その動作は淡々としいて、倦怠の影が色濃く滲んでいる。けれど、長い年月のうちに染みついた習慣のように、それぞれが自らの役目をこなしていた。
アリエルはひとりの若い男性に声をかけ、まずは塔について何か知らないかと質問した。青年は最初、聞きなれない言葉に警戒の眼差しを向けていたが、その口調に敵意がないと悟ると、しばらくの沈黙のあと小声で返事をした。
何度かのやり取りを経て、この地に生きる者にとってもあの塔が単なる建造物ではないことが分かった。人々は極力近づくことを避けながらも、その存在を常に意識の片隅に置いているのだという。
この荒原で生きる者たちでさえ、その白い塔がいつからそこにあるのかを知らない。誰もが〝昔から存在していた〟と言う。しかし、それがどれほど昔なのか、明確な答えを持つ者はいなかった。
曇り空の向こう側では日が傾き、荒原に漂う光は冷たさを増していた。アリエルに関心を持ったのか、奴隷たちが静かに集まってくる。彼は手帳を開き、そこに描かれた〈転移門〉や半壊した建造物の写生を順々に見せていった。
石墨を使い描かれた簡素な図ではあったが、いくつもの線を重ねた絵が人々の記憶と結びつくことを期待していた。しかし集まってきた奴隷たちの反応はどれも薄く、誰ひとりとして確信を持って答えられる者はいなかった。
この場にいる奴隷の多くは、この土地の出身ではなく、遥か遠い交易路を経て船で連れてこられた者たちだった。彼らにとって、この荒原はただの労働の場に過ぎず、周囲の地形や歴史に関心を向ける余地などなかった。
申し訳なさそうに目を伏せる者、面倒くさそうに首を横に振る者、言葉を発することすら億劫に思える者――そこにいる誰もが、遺跡や〈転移門〉に関する手がかりを持っていないようだった。
どうするか考えている時だった。小屋の扉が軋む音とともに、ひとりの男性がアリエルに歩み寄ってきた。背の高い褐色の肌を持つ奴隷だ。昨日、港町の外で言葉を交わした男性のひとりだった。
彼はゆっくりと頭を下げたあと、青い目をした女性の治療に対する礼を述べるために訪れたと告げた。薬を飲ませてもらってから、身体の熱が引いたことを彼女から聞かされたようだ。
彼女がすでに瀕死だったことを知らなかったからなのか、水薬が常識の域を超えていたことに彼は気づいていないようだった。それ以上のことを詮索するような素振りもなく、ただ素直に、仲間が元気になったことを喜んでいるようだった。
何か力になれることはないか、と男性が申し出る。アリエルは手帳を差し出して、荒原の遺跡に詳しい者はいないかと訊ねた。
彼は以前にも目にした手帳をじっと見つめたあと、しばし沈黙し、考え込むような間を置いてから、ゆっくりと頭を縦に振った。それが答えのようだった。やがて微笑みを浮かべながら手招きし、小屋の裏手へと案内してくれた。
石積みの建物の背後に回ると、低い石垣の内側で、ひとりの男性が鹿の毛皮を剥いでいる姿が見えた。鋭く砥がれた小刀を手に、まだ温かさを残す獣の皮を滑らかに裂いていく。血液の臭いが濃く、空気の中に鈍い鉄の気配が漂っていた。皮の一部が垂れ下がり、つめたい風が毛を揺らす。
熟練の手際だったが、彼の身体にはひとつ、目を引く特徴があった。左足の膝から先がなく、代わりに無骨な棒状の義足が延びていた。それは支柱のように彼の身体を支えていた。
粗末で装飾もなく、金属でもなく木材で組まれたモノだった。足場に合わせて平たい板が括りつけられていたが、長い時間と摩耗で形は歪み、彼の動きにあわせて軋んでいた。
褐色の男性が声をかけると、義足の男は苛立ちを隠す様子もなく振り返った。血で濡れた手を汚れた衣服にこすりつけ、憮然とした表情でこちらに視線を向ける。壮年の男性だったが、深く刻まれた皺と日焼けによる肌荒れのせいで、実際の年齢よりもさらに年老いて見えた。
事故によるものか、それとも戦火の中で奪われたのかは分からない。しかし男性の顔には、片足を失うに至った過去の重みが、表情の端々に染みついていた。顔に刻まれた皺や、無言の眼差しに滲む諦念と苛立ちは、ただ肉体の一部を失っただけではない、もっと根深いものがあることを語っているようだった。
義足の軋む音が風の中に微かに混じる。男性は血に濡れた小刀を無造作に作業台へと放り投げると、濁った目でアリエルを見据えた。その眼差しには露骨な敵意が宿っていた。口を開くことはなかったが、得体の知れない異人に対する不信と警戒が、その表情にハッキリと滲んでいた。
すると、どこからともなくテリーが姿をあらわした。小屋の方から回り込んできたのだろう。彼はアリエルを一瞥し、続けて義足の男性に視線を送る。すると、つい先ほどまで怒りを滲ませていた男性が、急に背筋を伸ばし、右手を胸元に当てて簡潔に頭を下げるのが見えた。儀礼的でありながら、明確な上下関係を示す動きだった。
やはり軍人だったのだろう。テリーも同じ動作を繰り返したあと、一言二言、形式ばった挨拶を交わす。それからアリエルに向き直り、進展があったか問いかけた。これから話を聞くつもりだと答えると、テリーは〝僕に任せてください〟と自信満々に言い、アリエルから受け取っていた手帳を男性に見せながら質問を投げかけた。
先ほどの刺々しい態度が嘘のように、義足の男性は落ち着いた声で応じた。無駄話を挟まず、慎重に言葉を選ぶその様子は、長きにわたり兵として任務に就いてきた者の姿が垣間見えるようでもあった。
彼の口から出たのは、〝時の眠る園〟と呼ばれる遺跡の名だった。乾いた風が吹き抜けるなか、男性はその場所について断片的に語り始めた。岩肌の間から水が染み出す谷間に、石造りの円環に囲まれた平原があるのだという。そこは荒原の奥深く、今では人の寄りつかない場所にあるのだという。
そこで彼は、アリエルの手帳に描かれていたモノとよく似た構造物や門を見たという。男性の記憶は曖昧だったが、白い石を組み合わせて形作られた構造には見覚えがあるという。どうやら、ここまで来た甲斐はあったらしい。さっそく、その遺跡について詳しく聞くことにした。