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水薬の効果は絶大だった。彼女の顔色はみるみるうちに血色を取り戻し、苦しげだった呼吸も次第に穏やかになっていった。ひび割れていた唇が潤み、熱でぼやけていた瞳に、わずかに焦点が戻る。
「……大丈夫か?」
問いかけに返事はなかったが、彼女はうなずいて、微かに腕を動かしてみせた。アリエルは彼女の身体をそっと抱き上げ、慎重に駄獣の背へ乗せようとした――その瞬間だった。
何かが彼の視界をかすめ、背後の岩に直撃して硬質な音を響かせた。その直後、どこからともなく飛翔体が飛来し、空気を切り裂く鋭い風切り音を耳に残した。それは瞬く間にアリエルたちの横をかすめ、岩に激突――跳ね返り、砕けた破片が地面に散った。
小石と粉塵が舞い上がり、乾いた衝撃が空気を震わせた。彼が振り返るよりも早く、跳ね返った矢が地面に転がるのが見えた。鏃は黒曜石のように深い艶を持ち、恐ろしいほど鋭く尖っていた。アリエルは即座に反応し毛皮の内側に手を入れると、革紐で束ねられた紙の束を取り出した。
その中から手際よく一枚の札を選び出した。茶色がかった粗紙はざらついた質感を持ち、縁が微かに擦り切れている。その表面には、淡く金属的な光沢を帯びた墨で符文がびっしりと刻まれていた。
その符面を指先でなぞると、紙の繊維に沿うように青い炎が揺らめき、札全体を淡い光で包み込んでいく。そうして護符は熱を持たない炎に反応し、震えるように揺らめきながら、端から徐々に崩れ塵となり、光の残滓だけを残して消え去った。
その直後、鋭い風切り音とともに次々と矢が飛んでくるのが見えた。その狙いは正確ではなかったが、アリエルが標的になっていることは一目瞭然だった――しかし、それらの矢は彼の身体に届く前に、まるで見えない壁に弾かれたかのように空中で進路を変え、何もない地面に突き刺さっていく。
〈矢避けの護符〉が発動したのだ。護符の力は空気を揺らすような風を生み出し、飛来する矢を逸らしていく。風の干渉を受けた矢の軌道は不自然にねじれ、標的を避けるようにして飛んでいく。
そこでテリー・オールズも襲撃に気づいた。彼は駄獣の首元にそっと手を添え、慌てることなく静かに声を掛ける。賢い獣はその言葉に従うように耳を揺らし、背に乗せた女性を守るように岩場の陰へとゆっくりと移動する。分厚い毛皮に覆われた巨体が微かに揺れ、砂利がこすれ合う音とともに、岩陰へと身を沈めていった。
一方、アリエルは本能のままに地を蹴った。その動きには迷いがなく、飛来する矢のように、研ぎ澄まされた鋭さがあった。
湿った苔と地衣類に覆われた不安定な足場を、寸分の狂いもなく駆け抜ける。体勢を低く保ちつつ、全身の神経を張り巡らせ、目の前の地形を正確に見極めていく。その間も、数本の矢が飛んできていたが、彼に直撃することはなかった。
この世界に呪力がないことに慣れていないからなのか、つい呪素による感知に頼り過ぎてしまっていた。そのせいで、襲撃者の接近に気づくのが遅れた。すぐに意識を切り替えると、呪素を目に集中させ、〈生命探知〉を発動する。
視界が瞬時に暗転する――色彩は剥ぎ取られ、世界は淡い灰白と深い闇に覆われた幻視へと変貌した。これは、生物の持つ呪素や生命力の〝揺らぎ〟を可視化する術だ。岩陰や障害物の向こうに潜む者たちの輪郭が、白く揺らめきながら浮かび上がっていく。
相手は四人、工房から尾行してきた用心棒たちなのかもしれない。矢を使っている以上、ただの脅しではないことは明白だった。理由はどうあれ、問答は不要だった。アリエルは〈収納空間〉に意識を向け、虚空から手斧を取り出し、その重量を確かめながら敵に向かって駆ける。
ただの人間では追いつけない速度で、身を縮め、濡れた岩を蹴り、重力を味方に加速していく。そのまま敵の背後へと回り込む。白黒の幻視に包まれた視界の中、襲撃者たちの姿がハッキリと確認できるようになった。
全員が不意を突かれ、つめたい殺意に戸惑いながらも、まだ反応しきれずにいた。その中のひとりがようやく弓を引き、矢を解き放つ。鋭く放たれた矢は、一直線にアリエルの顔面へと向かう――しかし、見えざる障壁に阻まれた。突如、矢は空中で不自然に跳ねる。風に呑まれるように軌道をねじ曲げられ、斜面の石に挟まるようにして突き刺さる。
アリエルは迷うことなく、手にした斧を射手に向かって鋭く放った。斧は音もなく回転し、つぎの瞬間、射手の顔面に深々とめり込む。膝から力が抜け、崩れ落ちていく。完全に倒れる前に、アリエルは斧の柄をつかみ、乱暴に引き抜く。血飛沫が飛び散るが、刃にこびりついた血を振るうこともせず、つぎの標的に向かって駆ける。
残された三人は罵声を浴びせながら武器を構えるが、その動きは鈍く、緊張のあまり形ばかりの構えに過ぎなかった。片手剣を掲げた男の腕は、鋭い一閃で切断され、血を撒き散らしながら宙を舞う。苦痛の悲鳴を上げかけた口に容赦なく斧の刃が叩き込まれ、頬が裂けて顎が砕ける感触を残して沈黙した。
残るふたりのうち、ひとりは恐怖を押し殺しながら両刃の剣を構えて踏み込んでくるが、もうひとりは背を向けて、斜面を転がるようにして逃れようとする。
突進してきた男性の太腿を狙って斧を放つと、刃は筋肉と骨を砕き、悲鳴とともに男性は崩れ落ちる。前のめりに倒れ込んだ彼の額は、露出した岩角に激しく打ちつけられ、そのまま意識を失う。
それを確認すると、射手の亡骸の傍らに転がっていた弓と矢筒を拾い上げ、逃げていく男性に向かって矢を番える。最初の矢は大きく逸れ、雑草に突き刺さった。二本目は地面に叩きつけられ、男の足元で小さな土煙を上げた。三本目でようやく狙いが定まり、矢は頸椎の間に深く突き刺さる。
男性は数歩よろめいたのち、地面に倒れたまま動かなくなった。弓の精度も矢の重心も最悪だったが、追撃には充分だったようだ。
つめたい風が岩場を這うように吹き抜け、乾いた砂粒とともに血の臭いを運んでくる。鼻を突くような鉄錆の臭気が、まだ温もりの残る死体から漂い、死者の存在を否応なく際立たせていた。荒原は静まり返り、下品な罵声や悲鳴は過去のものとなっていた。
アリエルは無言のまま、岩陰に転がっていた男性に近づき、太腿に深く刺さった斧の柄を握る。引き抜いた刃には肉片が張りつき、粘度のある血液が糸を引く。それでも男性は反応を見せなかった。額にできた傷口から流れ出た血は、地面に小さな血溜まりを作っていた。呼吸も浅く、眼球は虚ろに開いたまま揺れている。
襲撃者は昏倒していたが、禍根を残さないため、アリエルは躊躇うことなく喉元に刃を落とした。傷口から血液が噴き出し、瞬く間にその命を終わらせた。
それから地面に横たわる襲撃者たちをひとりひとり確認していく。皮膚の浅黒さ、身に着けていた衣類、薄汚れた毛皮。見覚えのある顔だった。やはり工房で因縁をつけ、敵意を隠そうともしなかった用心棒たちだ。
権力者の客人を襲撃するなんて、ひどく愚かしい行為だったが、人目のない荒原なら殺しても構わないと考えたのだろう。彼らの背後に襲撃を命じた者がいるかどうかは分からないが、少なくとも彼ら自身の意思で弓を引いたことは明らかだった。
テリーの足音が近づく。あえて武器に手を掛けないまま近づいてくる。彼は散乱した死体に目をやると、一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに表情を戻した。死体を見慣れた軍人の顔だった。その場に膝をつき、襲撃者に手を伸ばしてひとりずつ顔を確認していく。無言のまま作業を終えると、彼は短く、吐息のような溜息を洩らした。
死体を処分していくのかと思ったが、どうやらそのまま放置していくようだった。放っておいても、すぐに狼や鷲が処理してくれるのだという。そこで、この土地が〈神々の森〉とは違い、燃料に乏しい場所だということを思いだした。
アリエルは血のついた斧を軽く払い、死の気配がまだ残る岩場を背にして黙って歩き出した。テリーもそれに続く。ふたりで駄獣のもとに戻ると、すぐに女性の状態を確認する。呼吸も脈は安定していた。身体には毛皮が何重にもかけられ、微かな吐息が胸を上下させていた。
これ以上、この場所で無駄な時間は費やせない。死の臭いを背後に残し、彼らは静かに荒原を進んでいった。空には、雨を降らせるような厚い雲が垂れ込めていた。
テリーはほとんど言葉を発さなかった。ただ、駄獣の様子や道の傾斜に気を配りながら、女性の状態を黙々と観察し続ける。その表情には、もはや困惑の色は見られない。彼の瞳には静かな冷静さと確固たる理性が戻っていた。彼女を治療した直後に見せた混乱した様子とは打って変わり、今はただ、目的地へ向けて慎重に歩を進めるだけだった。
思い返せば、水薬ならば目立たずに済むだろうと考えたのは甘かった。〈治療の護符〉ほどの派手さはないにしても、死の淵にあった女性の容態が急激に持ち直す様は、呪術の存在しないこの世界の人々には異様に見えてしまうのだろう。
実際、テリーが最初に見せた反応は驚愕と疑念が入り混じったものだった。無理もない。意識も朦朧としていた女性が、わずか数分で呼吸を整え、皮膚の血色を取り戻すなど、常識では説明できるはずもない。
けれど、テリーはその感情に溺れなかった。疑問や猜疑はあったはずだ。それでも、彼は軍人らしく、自らの任務を全うすることを優先した。冷静さを失わず、状況に順応し、なすべきことを見誤らなかった。生命を感じさせない荒原を歩きながら、アリエルはその態度に確かな信頼を抱きつつあった。
駄獣の背に横たわる女性が、ふいに身体を揺らした。はじめは無意識の反応に思えたが、やがて腕を震わせながらゆっくりと上体を起こす。目元にはまだ霞が残っていたが、視線は虚ろではなく、明確な意志が感じられた。肩から毛皮が滑り落ち、浅く息を吸い込むその仕草に、確かな生の気配が感じられた。
アリエルは彼女に近づくと、その首元に手を添えた。まだ熱があるようだったが、死者のように冷たくなるよりは、ずっとマシだろう。
ふと、彼女の唇が微かに動く。それは声にならなかったが、彼女の視線の先に乾いた丘陵の稜線が広がっているのが見えた。そこには、人の営みを感じさせる構造物の影が朧気に浮かんでいた。目的地は、もうすぐだ。