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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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 石垣に囲まれた工房の敷地に足を踏み入れると、濃密な臭気が一層強く感じられるようになった。刺激臭を含む薬品と血液、泥水に獣脂の臭いが混ざり合い、乾いた風に乗って鋭く鼻を刺す。その強烈な臭いは、空気の淀んだ工房の内部から滲み出ているようだった。


 テリー・オールズが母屋の入り口で工房の責任者と思しき人物と話し込んでいる間、アリエルはわずかに距離を取り、半ば無意識に建物の内部を覗き込んだ。


 窓と呼ぶにはあまりにも粗末な開口部から、中の様子が垣間見えた。荒々しい梁に支えられた屋根の下、いくつもの作業場が連なっていた。乾燥処理を終えた毛皮の束が縄で縛られたまま、天井近くまで幾重にも積み上げられ、薄暗い空間に重苦しい影を落としていた。その重苦しさは、空間全体に染み込んだ獣臭さのせいでもあるのだろう。


 その一角では、大きな水槽に浸された毛皮がドロリと水を含み、重たげに揺れているのが見えた。濁った水面には血と脂の薄膜が広がり、灰白色(かいはくしょく)の泡が弾けては、ゆっくりと消えていく。


 それは汚れを落とし、硬くなった組織に柔軟性を取り戻させるための処理工程なのだと、アリエルにも察しがついた。そこからは、酸味の混ざった濃厚な臭いが漂い、喉の奥に粘つく膜を張り付かせるようだった。


 別の窓からは、脱毛処理が進められている工程が確認できた。大きな作業台の上に、平たく広げられた皮が整然と並べられていた。奴隷と思しき職人が、銓刀(せんとう)を両手で握り、体重をかけながら刃を押し滑らせていく。その刃が皮に食い込むたび、ザクザクとざらついた音が室内に響いた。


 皮の表面から削ぎ落された毛束が絡み合い、吐き出された獣の内臓のように床へ積み重なっていく。


 ふと、川辺からさらに強い臭気が漂ってきて鼻を突いた。アリエルが視線を向けると、川沿いにいくつもの槽が並び、その中で奴隷たちが皮を引き上げて水洗いを繰り返している様子が見えた。


 槽は粘土と漆喰で形作られ、縁からこぼれ落ちる灰色の汚水が細い溝を伝い、川へと流れ込んでいた。血や石灰、ヌメリのある脂の混ざった汚水は淀み、川底に沈殿しながら岸辺を汚染していく。


 作業に没頭する奴隷たちの手足は白く染まり、乾いた汚水や石灰が髪や肌に貼りついているのが見えた。疲労の色こそ見えなかったが、沈黙の中に漂う絶望感が、場の空気をさらに陰鬱なものに変えていた。


 母屋の奥からは時折、木槌で皮を叩く鈍い音や、桶の中で皮を踏みしめる湿った音が断続的に聞こえてきていた。それは、生きた素材に向き合い続ける職人たちの鼓動を思わせた。


 想像していた以上に手間のかかる工程の数々に、アリエルは思わず息を詰めた。これほどまでに人の手と時間を費やすことで、あの柔らかな毛皮が形作られていたのかと、今さらながら実感する。砦で〈世話人〉たちが丁寧に仕立ててくれた衣や外套のことが脳裏に浮かび、その労に思い至ると自然と頭が下がる思いがした。


 しばらくして、テリーが工房の関係者とともに戻ってきた。その表情から察するに、一定の理解と協力が得られたのだろう。作業中の奴隷たちに話を聞くことも、邪魔にならない範囲であれば許されるようだった。アリエルは静かに一礼し、テリーにも感謝の意を伝える。それから工房の中で最も年かさの者を選び、慎重に言葉を選びながら問いかけた。


 しかし、男性の顔には困惑の色が浮かぶばかりだった。やはり言葉が通じず、意思疎通が困難なのは明らかだった。荒原の辺境から連れてこられたのだろうか。彼が発する言葉の響きは、この地の言語よりも遥かに複雑で、重なり合う音がまるで旋律のように感じられた。やはり異なる民族のように感じられる。


 アリエルは溜息をついたあと、わずかな逡巡(しゅんじゅん)のあと、テリーに聞き込みを頼むことにした。彼は嫌な顔ひとつせず、穏やかにうなずいて快諾してくれる。


 さっそく遺跡の構造が描かれた手帳を差し出した。滑らかな紙の質に、テリーは驚いたように指先で触れたが、すぐに真顔に戻り、奴隷たちに視線を向ける。そして落ち着いた声で質問を始める。手帳に描かれた構造物を見せながら、慎重に言葉を選ぶようにして確認していく。けれど、返ってくるのは首を振る仕草や曖昧な言葉ばかりだった。


 この工房で働く者たちは、事実上、外界と隔絶された軟禁状態にあった。川と石垣に囲まれた作業場に閉じ込められ、腐臭と冷気に包まれながら、長い時間を過ごす。夜になれば、薄い毛布に身を縮めるだけの生活が続いていた。そんな彼らに、広大な荒原に点在する遺跡の情報を求めるのは、あまりにも酷な話だったのかもしれない。


 テリーは工房の関係者に歩み寄り、荒原について何か知っている者がいないか(たず)ねた。禿げた男性はしばらく黙り込んだまま、顎髭を撫でるようにして考えていた。その沈黙には、慎重さとも警戒とも取れる間があった。やがて男性は小さくうなずくと、低い声で語り始める。


 どうやら、毛皮猟師と直接取引をしている奴隷がいるようだ。彼らは毛皮の買い付けのために、荒原の内陸や港町へ赴くことがあり、外の情報にも通じている可能性がある――男性の言葉は断定的ではなく、何か含みを持たせたものだった。


 港町へ向かう途中で出会った奴隷の一団が、まさにその者たちだったのかもしれない。アリエルは彼らに会うことができないか(たず)ねたが、今はちょうど関係者と一緒に買い付けのために外へ出ているらしい。しかし、そこで男性はふと何かを思い出したように視線をずらし、口を開いた。


『そういえば、ひとりだけ残っていたな』

 男性の声音には、明らかな躊躇(ためら)いの感情が混じっていた。


 その奴隷と話ができないかと確認するが、男性はすぐには答えず、視線を落としたまま言葉を(にご)した。やがて、低く絞り出すように言う。


『そいつは懲罰を受けている』と。

 理由を問うと、男性はしばらく沈黙し、重たげな息をひとつ吐く。そして、ようやく口を開いた。


『俺は直接見ちゃいねぇが――その奴隷のせいで、仲間のひとりが腕を斬り落とされたんだ。刃物で、スパッとね』


 男性の口調は平坦だったが、その背後には拭いきれない不快感が滲んでいた。幸い、斬られたのは職人ではなかったため、大きな損失には至らなかったらしい。むしろ、それだけで済んだのは運が良かったのだと――男性の表情が物語っていた


 もちろん、その人間のことは憶えていた。腕を斬ったのは、他ならぬアリエル自身だったからだ。しかし――あの騒動に奴隷はまったく関係がなかった。むしろ、あの騒動に巻き込まれただけの存在に過ぎない。それでも、罰を受けているのだという。理由もなく、ただその場にいたというだけの理由で。


 伝えるべきではなかったが、テリーがその騒動について知っていることを話すと、男性の表情が一変した。それは憎悪ではなかった。むしろ、汚いものでも見るような、侮蔑と警戒の入り混じった視線だった。それから男性は口を閉ざし、テリーの問いに応じることなく背を向けた。そして、迷いのない足取りで母屋の奥へと消えていった。


 テリーは肩をすくめると、手にしていた手帳を無言で閉じた。アリエルが騒動の中心にいたことは、工房の用心棒たちにすでに知られていたが、ここで真実を告げることに意味はなかったのかもしれない。いずれにせよ、懲罰房に入れられている奴隷に合わせてもらえないか交渉することにした。


 工房の責任者は露骨に渋い顔を見せた。口元を歪め、言葉を濁し、断りの理由をあれこれ探している様子だった。しかしテリーが誰に仕えているのかは、わざわざ言葉にせずとも理解していた。しばらくの沈黙ののち、男性は諦めたように肩を落とし、案内すると言って歩き出した。


 懲罰房と呼ばれるその建物は、母屋から離れた川沿いの一角にあった。冷たい水が緩やかに流れる岸辺に、半ば川に浸るように設けられた石造りの小さな囲いは、身動きすらままならず、座ることもできないほど狭いモノだった。


 懲罰の間、奴隷たちはただ立ち続けるしかない。足元を流れる川の水は肌を刺すほど冷たく、その外観からして、ただ懲罰のためだけに用意されたことが一目で分かる異質な造りだった。


 入口は鉄枠の扉で固く閉ざされ、小さな小窓がひとつだけ取り付けられている。開け放たれたその小窓から覗き込むと、薄暗い空間に立ち尽くす人影があった。天井が低く、身を屈めることさえ困難なその空間で、裸にされた女性が足元の冷たい水に耐えながら、身を小さく縮めるようにして立っているのが見えた。


 足首まで川の水に浸かり、長時間にわたってその中で立ち続ける苦痛が、じわじわと身体から体温を奪っていくことは想像に難くなかった。それは懲罰というより、ほとんど死刑のための場所に思えた。ある意味では、貴重な資産でもある奴隷への扱いとしては不自然に思えた。


 それに、彼女のことはハッキリと憶えていた。奴隷の一団の中で、アリエルと言葉を交わした青い目を持つ女性だった。静かな声と穏やかな視線を伴うその対話は、一瞬のことだったが、今も鮮明に記憶していた。


 それが問題にされたのかもしれない。工房内の規律を乱す行為と見なされ、懲罰を受けることになったのだろう。アリエルは沈黙したまま彼女の姿を見つめ、目を離さずに扉のそばから離れると、責任者に視線を向け、静かに口を開いた。


「すぐに出してやってくれ」と。


 その声音に怒りは感じられなかったが、背筋を這い上がるような静かな恐怖が感じられた。それでも、男性はゆっくりと首を横に振る。他の奴隷たちへの示しがつかない。規則を曲げることはできないのだと。それは形式的な理由にすぎない。けれど、その言葉の裏にあるのは、支配の構造が揺らぐことへの根深い恐れだった。


 そこでテリーが前に出た。扉の前で立ち止まり、責任者に目を向けると、低い声でふたつの選択肢を提示した。


『彼女を、毛皮の買い付けに出た奴隷たちのもとへ案内役として我々に同行させるか。あるいは――今ここで、力ずくで彼女を連れ出すか』


 どちらにせよ、逃げ場のない問いだった。責任者の表情が一瞬、歪むのが見えた。怒りと恐れ、利害と判断が、その目の奥で錯綜する。だが、考える時間は不要だった。男性は舌打ちをし、視線を逸らした。そしてしぶしぶと口を開く。


『……案内役としてなら、認めよう。どのみち、その状態じゃ、そう長くはもたないだろうからな』


 その声には明らかな苛立ちが滲んでいたが、同時に、面倒事を回避したいという本音も垣間見えた。結局のところ、彼も雇われの身であることに変わりない。規律と圧力のうえに成り立つ支配の場で、わずかな綻びが、どれほどの波紋を生むかを、彼は誰よりも理解していた。


 そうして重々しい懲罰房の扉が、軋むように開かれた。冷気が流れ込むなか、彼女は震える身体を引きずりながら、ゆっくりと外へ踏み出す。アリエルの姿に気づくと、その青い瞳に、一瞬の驚きと羞恥、そして戸惑いが揺らめいた。彼女はそっと白い息を吐き、冷え切った足元を確かめるように、慎重に一歩を踏み出した。

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