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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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20


 もう一度、あの得体の知れない水棲生物の解体作業の様子が見られるかもしれない――そう期待していた。しかしその思惑は外れ、周囲の景色が徐々に変化していることに気づいた。


 テリー・オールズに先導されながら歩いていると、石畳の幅が狭まり、建物の密度が減り、足元には霜の溶けかけた泥が広がっていくのを感じた。冷たい風が頬を打ちつけ、港の喧騒は遠のき、代わりに吹きさらしの風が耳元をかすめるようになった。


 それが気になり、どこへ向かっているのかと問いかけると、テリーは振り返らずに答えた。奴隷たちは町の外れにある毛皮工房で働いているのだと。そこでは、毛皮猟師たちが持ち込んだ獲物の皮を選別し、下処理を施し、整理し、加工する一連の作業が行われているという。


 テリーの話によれば、この町で加工される毛皮の量は決して多くない。それでも、町の中心部でその作業を行うのは難しいようだ。毛皮を扱うには大量の水が必要であり、さらに加工の過程で用いる単寧(タンニン)、石灰液、動物性油脂などの鞣質(じゅうしつ)が、強烈な臭気を周囲に放つ。そのため工房は川沿いに建てられ、町の外縁へと追いやられているという。


 アリエルはうなずきながらも、奇妙な感覚に囚われていた。毛皮は常に身近にあった。辺境の砦で戦う守人として、普段の生活の中でも、寒冷地を生き抜くための防寒着として――あまりに身近な存在だった。けれど、それを加工するという行為について、一度も意識を向けたことはなかった。


 たしかに、一人前の守人として認められた際には、特別に仕立てられた黒狼の毛皮が贈られた。それは名誉なことであり、守護者としての象徴でもあった。しかし、その裏側にある手間と技術について、これまで考えたことはなかった。その事実に、ほんのわずかな戸惑いを覚えたのかもしれない。


 砦では〈世話人〉たちが皮を選び、縫い合わせ、着る者に合わせて毛皮を仕立てていた。彼らの指先から生まれるものに疑問を抱くこともなければ、そこにある労苦を想像することもなかった。思い返せば、自分はあまりにも無知で無関心だったのかもしれない。今になってようやく、あの手仕事の背後にあった苦労と努力に思い至る。


 やがて道は町の境界を越え、石造りの建物が完全に途切れる。吹き曝しの風のなか、沿岸に打ち寄せる波の音が聞こえてくる。足元には細かな砂ではなく、無造作に敷き詰められたような砂利が広がっていた。空は変わらず灰色に沈み、太陽の輪郭すら霞んでいる。濡れた黒い土が不規則に露出し、荒涼とした景色を際立たせていた。


 この場所は町外れなどではなく、すでに町の外と呼ぶべき場所だった。しかしテリーは何の躊躇(ためら)いもなく、力強い足取りで進んでいく。


 切り立った崖を眺めながら歩いていると、ようやく川の流れが見えてきた。その傍らには、ひときわ大きな建物がそびえていた。石と木材で組まれた堅牢な造りで、地衣類が張り付き、湿気にさらされた板材は深く黒ずんでいる。屋根の上には無数の煙突が突き出し、そこから灰混じりの煙が絶え間なく立ち昇っていた。


 その煙は冷たい空気の中で素早く拡散し、灰色の空に重苦しい色合いを加えていた。川は工房のすぐ近くを流れ、岸辺には廃液が染み込んだような濁りが広がり、川石が白く染まっているのが見られた。


 アリエルは足を止め、無言でその光景を眺めた。風に乗って、酸味を含んだ異臭が鼻孔を刺す。それは、命の痕跡を剥ぎ取られ、別の形へと変えられていく毛皮が放つ臭いなのだろう。


 その工房は、切り立った崖の間を流れる川の近く、沿岸から離れた場所にひっそりと佇んでいた。川辺に沿って設けられた敷地は、雑然とした岩と粘土の地盤の上に築かれ、周囲は町と同様の低い石垣で取り囲まれていた。


 建物は粗い石材と煤けた木材で組まれ、腐食した鉄の留め具が剥き出しのまま錆びついていた。風にさらされ、湿気を含んだ空気の中で――活気のある工房であるにもかかわらず、どこか今にも朽ち果てそうな陰鬱な気配が漂っていた。


 工房の周囲では、十数名の奴隷たちが沈黙のうちに働いていた。擦り切れた毛皮を身にまとい、粗末な革手袋と布切れを巻きつけた手で、皮革を水槽に沈め、重い獣皮を引きずりながら仕分けていた。彼らの動きは滞ることなく続き、その目に生気は感じられなかった。ただ目の前の作業に没頭し、空気のように無心で動いていた。


 川辺には、大きな槽がいくつも並んでいた。毛皮の染色や処理に使われるそれらの槽には、褐色、灰緑色、あるいは赤黒く濁った液体で満たされていた。表面には泡と油膜が浮かび、風にわずかに揺らめくたび、腐臭と刺激臭が漂ってくる。その臭いは工房だけでなく、周囲の環境にも影響を与えているようだった。


 アリエルは静かに工房の様子を観察していた。加工に使用される薬品の臭いだろうか、鼻を突く刺激臭は、工房に近づくごとに濃度を増し、空気そのものを重く変質させていた。 獣の脂肪、石灰、単寧、血――それらが混じり合った酸味のある空気が、呼吸を奪い、肺の奥を焼いてくような感覚を残した。


 すぐに首巻を引き上げ、口と鼻を覆う。それでも布の隙間からは刺激臭が忍び込み、思わず目を細める。〈ダレンゴズの面頬〉を装着すれば、より快適に呼吸できたのかもしれないが、さすがに周囲の人間を威嚇するような装備は身につけられなかった。


 川辺に並ぶ染色槽を眺めながら工房に近づくと、視界の隅で人影が動いた。ふと視線を向けると、無言のまま近づいてくる男性たちの姿が見えた。


 四人、いや五人。いずれも粗野な外套を羽織り、腰に小さな革袋をぶら下げている。手にしているのは、太い柄のついた木槌。そして毛皮の処理に使われる銓刀(せんとう)だろうか――鋭利な刃が露出し、使い慣れた様子で手の中に収まっていた。


 彼らの目は、まったく笑っていなかった。額に刻まれた深い皺、噛みしめた唇――そのどれもが、必要以上の緊張と警戒を含んでいる。その中には、殺気と呼ぶにはあまりに荒々しい、剥き出しの感情そのものを向ける者もいた。昨日、集落の入り口で絡んできた連中の仲間だとしても、なんら不思議ではなかった。


 アリエルが警戒しながら一歩後退ると、すかさずテリーが前に出た。彼の声は低く抑えられていたが、その言葉はハッキリとしていた。威圧的ではなく、交渉と沈静を目的とした慎重な対話の姿勢だ。


 集団のうちの何人かは、それでも納得していない様子だった。ひとりはアリエルを睨みつけたまま地面に唾を吐き、荒々しい声で何かをわめき散らした。その言葉の意味は、護符の効果を通じても断片的にしか理解できなかった。しかし、それだけでも彼が何を言いたいのかは分かる――軽蔑と敵意が入り混じった鋭く荒々しい罵声だった。


 その張り詰めた空気の中、腐臭と薬品の入り混じった重い臭いが漂い、銓刀の刃先をかすめるように乾いた風が通り過ぎていった。男たちの足元の砂利が微かに擦れ合う。誰もが次の行動のキッカケを待っているように見えた。この場を支配するのは、危うい均衡――それは、ほんの些細な変化で崩れ去る、研ぎ澄まされた沈黙でもあった。


 アリエルは彼らから視線を逸らさずに、ゆっくりと片手を外套の内側へ滑り込ませた。そして〈収納空間〉に意識を向けると、いくつかの武器が頭の奥に浮かび上がる。その中から選び取ったのは――鎚矛(つちほこ)だった。加減すれば、殺さずに相手を制圧できる武器だ。


 けれど、相手に武器を見せることはしない。毛皮の裏に慎重に隠し、柄をしっかりと握りしめる。それは威嚇のためではなく、万が一に備えた準備だった。その間、空気はさらに張り詰めていく。集団の中で最も若く、獣じみた細い目をした男性が、わずかに腰を沈め、手にした木槌を握り直すのが見えた。


 テリー・オールズは、その空気のなかに漂う些細な変化を見逃さなかった。戦場の空気は目に見えずとも、肌で覚えているものだ。


 アリエルの姿勢、微かな動き、息遣い――どれもが確かに変化しているように感じられた。それは、本物の戦場を経験した者でなければ感じ取ることのできない、微妙な変化だったのかもしれない。しかし、それは間違いなく、暴力へと踏み込む直前の冷徹な気配を帯びていた。


 テリーは声を張り上げることなく、しかし明瞭に言葉を発した。『この場で事を荒立てれば、領主ルゥスガンドの名に泥を塗ることになる』と。その一言が、男たちの表情と態度に影を落とした。


 彼らは無学な労働者であり、暴力を生業とする用心棒ではあるが、貴族の名が持つ意味は理解していた。とくに、この港町のような交易の要所では、領主の機嫌を損ねることが、それまで築いてきた立場と収入の両方を失うことに繋がることも分かっていた。


 一瞬の間があった。その後、唾を吐くようにして、男たちは捨て台詞を残して背を向ける。肩越しにふたりを一瞥し、視線で挑発しながらも、それ以上の行動には出なかった。濁った川辺の空気が、ゆるやかにその場の緊張を解いていく。工房の母屋に入っていく彼らの背中を見送りながら、アリエルは手の中の鎚矛をそっと収納した。


 それから、テリーは軽く頭を下げて謝罪を口にした。客人に対して失礼なことをしてしまったと感じているのだろう。けれど、アリエルは気にしていなかった。そもそも、彼らの仲間の腕を斬り落としたのは自分であり、憎まれても当然だったからだ。


 しかし、これで問題が解決したとは思えなかった。厄介事を抱えてしまったと感じながらも、今は奴隷たちとの対話に集中することにした。

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