表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
425/499

19〈概念の欠落〉


 どんよりとした灰色の雲が空を覆い尽くし、頭上で低く垂れ込めている。その空の下、アリエルはテリーに案内されながら、港町の石畳を静かに踏みしめていた。


 つめたい風が容赦なく吹きつけ、毛皮の裾を揺らしながら冷たく頬を撫でていく。それでも、この町に根付いた人々は寒さに怯むことなく、変わらぬ日常を繰り返していた。


 周囲に見える建物は、どれも厚みのある石と木材を用いた堅牢な構造で、外壁に施された飾りは最小限に留められていた。実用性が美を凌駕するこの地では、装飾は豊かさを証明するものではなく、無駄なものとして認識されているのだろう。


 木製の扉は厚く、できるだけ隙間がないように密閉され、窓は風の侵入を防ぐために小さく、分厚い革張りの覆いで閉ざされていた。それらの家々の佇まいが無言で語るのは、この地に生きる者たちがどれほど長く、厳しい環境と共に歩んできたかという歴史だったのかもしれない。


 複雑に入り組んだ通りは人気(ひとけ)がなく、働く人の姿も見られない。けれど家々の煙突から微かに煙が立ち昇っているのが見えた。それは、確かにこの土地に人々の営みがあることを示していた。静寂の中でも、生活は途切れることなく続いている――そんな気配が、遠く霞む煙の揺らめきに感じられた。


 周囲を観察しながら歩いていると、テリーがふと立ち止まり、振り返るようにして問いかける。『他に見ておきたい場所はありますか?』その声音には、どこか気遣うような響きがあった。


 酒場が賑わう時間にはまだ早く、奴隷たちに会ったあと、時間を持て余すのではないか――そんな心配が彼の胸にあったのだろう。


 アリエルは言葉を慎重に選びながら、静かに問い返す。

「この町で、おすすめの場所はあるか?」と。


 テリーは小さくうなずいて、しばし考え込んだあと、『葡萄酒が美味い店があります』と口にした。けれどすぐに少し照れたように苦笑し、『いえ、あれは夜向けですね』と訂正する。そして表情を引き締めながら真面目な口調に戻すと、〝湾内〟に船員たちのための娯楽の場があると教えてくれた。


 蒸し風呂に、地熱を利用した温泉、賭場、さらには娼館まで――この町には、疲れを癒すだけでなく、船乗りの求めるものがすべて揃っているのだという。


 アリエルは、断片的な感情の波の中で認識できた〝温泉〟という言葉に、わずかに興味を引かれた。けれど、それ以上に驚かされたのは、過酷な環境にも(かか)わらず、ここまで娯楽が充実していることだった。


 気候や地理が人々の生活を制限するはずの土地で、それでも彼らは娯楽を求め、生活の質を維持し続けている。そこには、この土地を特別なものにしている何かがあるはずだった。それは単なる生存のためではなく、この場所に生きる者たちに利益を与える〝何か〟があることを示していた。アリエルは、その答えを探すように思考を巡らせた。


 テリーは、アリエルの疑問を含んだ感情を受け取ったのか、嫌味のない微笑を浮かべながら語り始めた。この町は交易の要として極めて重要な位置にあるため、領主であるルゥスガンドは、船員たちの英気を養う場に力を注いでいるのだという。


 娯楽は奢侈(しゃし)ではなく、過酷な労働に耐える者たちにとって必要不可欠なものあり、それこそがこの土地に活気をもたらす要素だと考えているのだという。陰鬱で過酷な風土の中にありながら、この町の評判が悪くないのは、その徹底した配慮の賜物だと。テリーはどこか誇らしげに、その事実を語った。


 そこでアリエルは足を止め、微かに眉をひそめた。ずっと気にかかっていたことがあった。テリーとの会話の中で断片的に理解した〝湾内〟という言葉――それが、どこか馴染みのある響きを持っていることに、奇妙な違和感を覚えたのだ。


 意味までは理解できていなかったが、言葉そのものを認識することができた。おそらく、〈神々の森〉で使われる〈共通語〉に元々から存在する単語だったからなのだろう。


 けれど理解できるのは、音の響きや単語だけであり、その背後にある概念は完全に欠落していた。理解できるのに、理解できない。その奇妙で曖昧な感覚のずれが、頭の奥に棘のように引っかかっていた。


 だからこそ、確かめなければならなかった。アリエルは真正面からテリーを見据えて、理解できるようにゆっくり問いかける。〝湾〟とは何なのか、と。


 テリーも足を止めて振り返った。そしてしばし沈黙しながら、じっとアリエルの顔を見つめる。(いぶか)しむような表情――けれど、それは露骨な疑念ではなく、慎重な思考の色を帯びていた。


 それから彼は丁寧に説明してくれた。湾内は、海が陸地に深く入り込んだ入り江のことだと。そして、安全な港がある場所でもあると。


 その返事を聞いた瞬間、アリエルの中にさらなる混乱が生じる。〝入り江〟という言葉は、かろうじて文脈から理解できた。けれど、その先にある〝海〟という単語だけが、霧のように掴みどころなく漂っていた。〈共感の護符〉の効果で、テリーの語気や感情の揺れは確かに感じ取れる。


 しかし、その核心となる単語――〝海〟だけは、意味を結ぶことなく、空白のまま宙に漂っていた。


 アリエルは、再び慎重に言葉を選びながら問いかけた。その海とは、何なのか、と。さすがにテリーも驚いたのか、しばらく黙ったままアリエルの顔を見返していたが、やがて何かに納得したように小さくうなずき、真剣な声音で語り始めた。


 アリエルが山間部の少数民族の出身であり、遠く隔てられた文化の中で育った者だと聞いていたからなのだろう。だからこそ、彼は一切の揶揄や軽口を交えず、誠実に答えようとしてくれた。


『海は……地の果てに広がる果てしない水域のことです。雨を降らせる雲が生まれ、多種多様な生命が育まれる場所でもあります。湖とは比べものにならないほど広大で、あらゆる河川が最終的に流れ着く場所――それが海です。人々はそこで魚を獲り、船で交易を行い、ときには命を落とします。しかし海なしでは、この町が成り立たないように、世界にとっても重要な場所になっています』


 テリーの言葉が護符の効果を介してじわじわと頭に流れ込むと、アリエルはそこに含まれる感情を読み取っていく。 警戒、慎重さ――そして畏れ。彼は〝海〟という水域を、単なる地理的事象として語っているのではなかった。その語り口には、長い時間の中で人と海が築いてきた、複雑で切り離せない関係性が滲んでいるようだった。


 それは敬意であり、恐れであり、ある種の諦念(ていねん)でもあったのかもしれない。アリエルは、その深みを探るように、静かにテリーの言葉に耳を傾けた。


〈神々の森〉に生きる部族のなかには、川は神々の血脈とされ、山々は天界へ通じる背骨と信じられてきた。しかし――そういった部族の間にも〝海〟に関する情報は、何ひとつ存在しなかった。


 部族の伝承の中にその名が刻まれることもなく、その概念は想像の枠外に存在していた。なのに、なぜ〈共通語〉の中に〝海〟という単語が存在し、自分はそれを〝理解したように〟感じることができたのだろうか。


 言葉だけが存在していたのか。それとも――森のどこかに海が存在していたのだろうか。あるいは、この異世界の深層で、かつて〈神々の森〉と同じ文化が交差していたのか。


 そう考えれば考えるほど、アリエルは自分がまったく別の世界にいるという現実を、あらためて実感せざるを得なかった。見知らぬ単語、見知らぬ常識、そして見知らぬ風景――それらすべてがひとつに結びつき、確かな重みとなって感じることができた。


 自分がどれほど遠くまで来てしまったのか、そして世界のことを何も知らなかったのだと。その現実を、否応なく突きつけられているようでもあった。


 再び歩き始めると、テリーはわずかに口元を緩め、やや冗談めかしつつも穏やかな声で言った。『ここから先、通りは賑わってきます。ある程度ですが……注目されることは覚悟しておいてください。昨日から、町ではあなたの話題で持ちきりですから』


 アリエルは無意識に頭巾の位置を指先で確かめた。やがて道が開け、幅広い大通りへと足を踏み入れる。すると先ほどまでの静けさが嘘のように、人と物の流れが一気に増えたことが分かった。確かに賑わっている――それは人々の動きや喧噪からではなく、空気の密度として肌に伝わってくる。


 毛皮を幾重にも束ねた荷が、車輪の軋む音とともに通りを横切っていく。木製の車輪は凍えた石畳にしがみつくように進み、時折、下敷きになった霜が飛び散っていた。荷車を引いていたのは、無言のまま前を睨む壮年の男性で、肩には厚手の獣皮が掛けられていた。獣の臭いの染みた皮が、淡く白んだ空気のなかでくすんで見えた。


 その通りの一角では、つめたい風に晒されながら、破れた網を無言で修繕している男たちの姿も見えられた。手早く結び、ほどき、また結ぶ。指の感覚だけで作業を進めているように見えるのは、これまで培われた経験があるからなのだろう。


 露店の前では、厚い外套を羽織った女性たちが集まり、声を荒げることなく魚の値を交渉していた。言葉は短く、抑えた調子だった。並べられた魚はどれも冷気で硬直し、魚独特の臭いすらしなかった。


 幼子を抱えた母親が足元にまとわりついた野犬を払うと、犬は耳を伏せ、しっぽを巻いて後退るが、またすぐに食べ物を探して別の客に近寄っていく。


 通りを行き交う人々の顔には、笑顔は少なく、言葉は必要最低限だった。けれどその表情には、過酷な土地で生きる人々の(たくま)しさが見て取れた。凍てつく風に晒されながらも、しっかりと日常が根を張っていた。


 アリエルは歩みを進めながら、その様子を黙って観察していた。それは、これまで見てきた部族の姿にも似た緊張と、忍耐を必要とする生そのものの姿だったのかもしれない。


 そんな風に思いを巡らせていると、不意に周囲の視線が集まり始めていることに気づく。あからさまな視線はない。けれど彼らの目に映るのは、得体のしれない部外者だった。黒い毛皮をまとい、平然と人の腕を斬り落とし、青白い顔で通りを歩く異人――話題の中心にいる異様な存在として。


 つめたく湿った風が再び吹き抜け、灰色の空が重くのしかかるなか、アリエルは海へと視線を向けた。その先に広がるものは、まだ完全に理解できないものだったが、これから少しずつ知っていくことになるのだろう。あるいは、異世界に生きるということは、こうした戸惑いと受容を幾度となく積み重ねることなのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ