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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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18〈テリー・オールズ〉


 夕食のあと、ルゥスガンドの厚意で屋敷内の一室がアリエルのために用意されることになった。彼の言葉や表情、そして部屋を手配した際の態度からは、打算や政治的な懐柔の意図は微塵も感じられず、ただ真っ直ぐな善意が伝わってくる。


 知らぬ土地に身を置く旅人が、安心して休める場を提供したいという純粋な思いやりが、その振る舞いの端々に滲んでいた。


 案内された客間は、空気にわずかな(よど)みがあり、普段あまり使われることのない部屋だと分かった。けれど使用人たちの手で丁寧に整えられ、細部まで気が配られていることが(うかが)えた。アリエルは彼らに礼を述べながら部屋に入る。


 ひとりになり装備を解くと、孤独な旅から解放されて、ようやく身体の力を抜くことができると感じた。室内には沈黙だけが漂っていたが、その沈黙は不吉なものではなく、むしろ温かく穏やかで、身の安全が感じられるようなものだった。


 黒衣を脱いで裸になると、真っ白な布が敷かれた清潔な寝台に横たわる。すると淡い眠気が、ゆっくりと意識を包み込んでいくのが分かった。


 その心地よい感覚の中で、〈共感の護符〉が周囲に及ぼしている呪素の性質を慎重に探っていく。独学で呪術を習得したときのように、細部まで注意深く観察し、そっくりの呪力を放出することで呪術そのものを模倣しようと試みる。


 護符の数が限られている以上、貴重な(ふだ)なしでも〈共感〉の呪術を自在に扱えるよう習得する必要があった。呪力の流れをなぞるように、意識を一点に向けていく。いつしかその集中は眠気と溶け合い、気づいたときには、岩のような重い眠りのなかに落ちていた。


 翌朝、扉を叩く音に目を覚ましたアリエルは、ぼんやりとした意識のまま身支度をすませ、案内されるまま食堂へ向かった。朝食の場は整然としていて、静けさの中で働く人々の気配が感じられる。豪奢な飾りはないものの、器のひとつ、布の一枚に至るまで、使う者への気遣いが細やかに行き届いていた。


 卓上には、焼き立ての香ばしいパンが並び、厚さの異なるチーズと熟れた果実が添えられている。その脇には湯気を立てる湯呑が置かれ、朝の冷気を和らげる温もりが感じられた。必要以上の言葉を交わすことはなかったが、〈共感の護符〉の効果は今も続いていて、使用人たちに感謝の気持ちを伝えることができた。


 至れり尽くせりのもてなしに、アリエルは戸惑いを覚えていた。しかし使用人たちによれば、この厚遇はすべてルゥスガンドの指示によるものであり、通常の来客にはここまでの待遇はなされないという。


 もてなしの意図を深く探るよりも、今は素直に受け入れるべきだと理解していたが、それでも食事を口に運びながら、彼のために何かできることはないかと思案する。温かな湯気を立てる湯呑を眺めながら静かに熟考するうちに、食堂の空気が穏やかに流れていった。


 ルゥスガンドから何か重要な話があるようだったが、朝の執務に追われているらしく、再会は後刻に持ち越されることとなった。部屋に戻ったアリエルは、改めて身支度を整え、集落の様子を見に出かけようとしていた。


 扉の向こうから突然、人の足音と小さなざわめきが聞こえてきたのは、ちょうどそのときだった。


 足音は扉の前でぴたりと止まり、不審に思ったアリエルが開けてみると、そこにはルゥスガンドの幼い娘が立っていた。まだ呼吸が整っていないのか、服の裾を急いで整えながら、わずかにうつむき、鮮やかな金髪を揺らすように肩をすぼめている。どうやら部屋まで走ってきたようだ。


 気まずげな沈黙が数瞬流れたあと、彼女は躊躇(ためら)いがちに顔を上げ、か細い声で『また会える?』と質問してきた。


〈共感の護符〉の効果を介して、感情が伝わってくる。どうやら彼女は、異人であるアリエルから、旅の話を聞きたいようだった。 世界の広さ、見たことのない空の色、遠い風景、そしてそこに生きる人々のことを――知らないままでいることに耐えられないのだと。


 彼女が必死な理由は語られなかった。それでも、この屋敷からほとんど出られないという現実が、彼女の言葉の裏から微かに感じ取ることができた。


 アリエルは片膝をついて彼女の視線の高さに合わせると、護符を介して『帰ってきたら、ゆっくり話を聞かせる』と約束した。少女はふと青い目を見開き、驚いたように一瞬息をのむ。そして次の瞬間、小さくうなずき、それから可愛らしく口元をほころばせた。


 上機嫌になった少女が使用人に連れられて去っていくのを見届けると、アリエルはゆっくりと立ち上がり、それから屋敷の玄関へと足を向けた。


 広い屋敷の中で迷わぬよう、壁の装飾や目印にしていた絵画を頼りに、慎重に歩を進める。そうしてようやく玄関がある広間にたどり着くことができた。そこは天井が高く、豪奢な調度品が整然と並んでいて、人気(ひとけ)がなくひっそりとしていた。しかし外へと続く重厚な扉の前に、ひとりの青年が静かに佇んでいるのが見えた。


 腰には細身の剣を下げ、その隙のない立ち姿から一目で兵士と分かる。身に着けているのは、深い紺に銀の縁取りを施した軍服。上質な仕立てと、手入れの行き届いた布地の質感が遠目にも分かる。


 真っ直ぐに背筋を伸ばし、両足を揃えて立つ姿には、日々の訓練の積み重ねが垣間見える。空気は張りつめ、青年の存在がこの場に厳かな雰囲気を与えているのが感じられた。


 アリエルの姿に気づいた青年は、きびすを返して正面に向き直ると、無言のまま、形式に則った丁寧な礼をとった。片腕を胸の前で折り、わずかに上体を傾けるその動作には、厳格な規律と確かな礼節が感じられた。


 アリエルも応じるように、右手の握り拳を胸に当て、静かに頭を下げた。その仕草を見た青年が、一瞬驚いたように目を見開くのが見えた。想定外の反応だったのだろう。しかしその動揺を長く顔に留めることはせず、すぐに表情を引き締めると、任務を思い出したかのような落ち着いた声音で語りかけてくる。


 ルゥスガンドから、港町の案内を任されているのだと静かに告げた。確かに昨日、遠目に大きな船と多くの積み荷らしきものが目に入った。けれど、それがこの集落の本質を示しているとは考えもしなかった。でも、あらためて〝港町〟と言われてしまえば、そうとしか思えなくなる。


 土地に不慣れな者が独力で探し物をするのは非効率だったし、案内を断る理由もなかったので、アリエルは迷うことなく申し出を受け入れることにした。


 屋敷を出る前、青年は静かに自身の名と素性を告げた。言葉のすべてを完全に理解できたわけではなかったが、ルゥスガンドが指揮する直属の兵士であること、そして〝テリー・オールズ〟と名乗ったことは理解できた。無駄のない口調と、抑揚の少ない感情の揺らぎが、彼の軍人としての気質を物語っているようだった。


 アリエルもまた、自身の名を伝え、簡単な自己紹介を交わしてから散策の目的を告げた。 人が多く集まる場所がないか――遺跡についての手掛かりを得るには、やはり情報が集まりやすい場所での聞き込みが最も効果的だと考えていた。


 テリーは一拍置いて慎重に考えたうえで、町の中心にある酒場を勧めてきた。確かにそこは人の出入りが多い場所ではあるが、この時間帯は閉まっていて、人々の賑わいは期待できないという。


 商人や労働者たちは、すでに仕事へと向かい、話を聞ける相手は限られていると彼は説明してくれた。それでも、昼が近づけば状況は変わる。情報を得るには、最適な場所になり得るだろうと。


「それなら――」と、アリエルは考えを切り替えて、別の提案を口にした。この町に彼とともに到着した奴隷たちは、今どうしているのだろうか、と。


 仕事のために町の外へ出ている奴隷なら、何か遺跡の手掛かりを持っているかもしれない。突飛な考えかもしれないが、その可能性は無視できなかった。そこで、アリエルは率直に(たず)ねた。


「彼らに会うことはできないか?」

 特殊な方法で意思疎通を図っていたこともあり、質問の内容にテリーはやや眉を寄せた。しかし、それは拒絶の意志ではなく、むしろ特定の存在を思い起こさせたようだった。


 そして毛皮を扱う集団のことだと、すぐに理解を示してくれた。どうやら奴隷たちは、この町においても特別な存在のようだ。彼らの役割は、単なる労働者以上の意味を持っているのかもしれない。アリエルは、この頼みが難しいことだと考えていたが、意外にもテリーはあっさりと了承し、彼らが働く施設まで案内すると申し出てくれた。


 テリーとともに屋敷の門を出ると、肌を刺すような冷気が全身を包んだ。空は昨日と変わらず、一面の灰色に覆われ、低く垂れ込めた雲が重苦しく立ち込めている。冷たく湿った風は途切れることなく吹きすさび、毛皮の裾を揺らした。この土地の過酷さを否応なく感じさせる天候だ。


 それでも――この厳しさの中に、多くの人々を引き寄せる何かがあるはずだ。ルゥスガンドの屋敷を見れば、それがただの直感ではないことが分かる。石造りの壁は厚く、その内側には余裕のある空間が広がっていた。使用人の数、調度品の質、そして何よりも食卓に並ぶ贅沢な料理と器の数々。そのどれもが、尋常ならざる富の存在を物語っている。


 毛皮の交易だけでは、この規模の生活を維持できるとは思えない。ならば――この地には、さらに巨大な利益を生み出す何かがあるはずだ。沿岸に停泊していたあの大型の船。それも、その一端なのかもしれない。


 思考を巡らせていると、テリーが無言のまま一歩を踏み出した。軍靴が石畳を打つ音が、冷えた空気の中に微かに響く。アリエルもその背に遅れないよう静かに歩を進めた。沈黙の中で、足音だけが規則正しく響き、ふたりの影が灰色の街に溶け込んでいく。

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