17
夕食のために案内された広間は、他の部屋とは明らかに空気の密度が異なっていた。天井は高く、重厚な梁が交差し、その間には精緻な金属細工を施した照明器具が吊るされ、部屋全体に暖かな光を投げかけている。設置された燭台の数も多く、小さな灯りが揺らめきながら、広間を柔らかく照らし出していた。
屋敷の中でも例外的なほど明るく保たれた空間になっていて、その光の濃度が、場の雰囲気を和らげているような気がした。
広間の中央には、長い木製の卓が据えられている。その上には、白い麻布が丁寧に敷かれていた。布の縁には金糸の刺繍が施され、宗教的――あるいは儀礼的な意味合いを帯びているようにも見えた。その模様は単なる装飾ではなく、ルゥスガンドが身に着けていた胴衣の家紋を模した意匠になっていた。
卓上にはすでに数多くの料理が並んでいた。魚介を中心とした品々だったが、どれもアリエルの知る料理とは異なっているように見えた。切り分けられた魚の身は香草や果実で彩られ、まるで芸術作品のように盛り付けられている。貝と海藻を使った前菜は、食すというよりも鑑賞することに重きを置いているようだった。
用意された椅子には、詰め物が施された柔らかな敷物が置かれていた。座る者の快適さを考慮し、細部にまで配慮が行き届いていることが分かる。食堂ではなく、格式のある広間に食事が用意されていることからも、客人として歓待してくれていることが感じられた。
その広間では、使用人たちが無言のまま職務をこなしていた。料理が盛り付けられた大皿を運び、陶器と金属の食器を並べるその動きは、訓練された舞踏のように滑らかで、一瞬の乱れもない。足音すら微かで、彼らはただ静かに、しかし確かな秩序の中で作業を進めていた。
さすがに、この格式ある場で旅装のまま席につくのは無礼だった。アリエルは羽織っていた厚手の毛皮を脱ぐ前に、まず頭巾に手をかける。ある程度の反応は覚悟していたが、頭巾を外した瞬間――室内の空気が張り詰め、使用人たちが息を呑むのが分かった。
月光を映したような白銀の髪がさらりと流れ落ちる。その瞬間、室内の動きが一瞬止まった。使用人たちの手元が固まり、誰もが無言のまま、深紅の瞳を持つ青年の顔に視線を向けていた。説明は不要だった。アリエルが身にまとう異質さは、ただそこに立っているだけで周囲を圧倒するものだった。
装束もまた、単なる旅人のものではない。戦いのための胸当てと特徴的な籠手――艶のある黒い毛皮で覆われていて、前腕部分には烏羽色の羽根が織り込まれていた。それらが、彼の存在を、より異質なものにしていた。
葡萄酒を運んでいた給仕の女性は、何気なく視線を上げ、アリエルの横顔を間近に捉えた。その瞬間、まるで電気に打たれたように緊張した。
荒くれ者が行き交う港町では、決して目にすることのない端正な顔立ち。整った輪郭、深紅の瞳――まるで〝童話〟から抜け出してきたかのような青年の姿に、彼女の意識は一瞬、現実から切り離された。
けれど、それと同時に言い知れない気配も感じた。見惚れるより先に、背筋を駆け上がる冷たい感覚に鳥肌が立つのが分かった。アリエルの周囲には――言葉では説明できない、鋭い死の気配が淀んでいた。美しさと異質さが混ざり合うその姿に、彼女は知らぬ間に息を詰め、視線を逸らすこともできずに立ち尽くしていた。
しかし、その緊張は長くは続かなかった。ルゥスガンドがひとつ、咳払いをする。その音が静かに響いた瞬間、使用人たちはハッと我に返る。意識を乱していた者も、瞬きとともに本来の仕事を思い出し、それぞれの役割へと戻っていった。場を支配する者の権威が、ただそれだけの動作で空気を制したのだ。
アリエルは、ルゥスガンドの気遣いに感謝しながら、そばにやってきた執事に〈ザザの毛皮〉を手渡す。彼は両手で丁寧にそれを受け取り――その質に気付いたのか、一瞬だけ目を見張った。感触を確かめるように、指先で自然と毛並みを撫でる。空気を含んだ羽根のような軽さにも驚いているようだった。
それは、単なる防寒具ではなかった。目には見えない繊細な力が宿っている。呪術器としての機能を持ち、〈神々の言葉〉が刻まれた特別な品でもあり、戦友の形見だった。その手触りは、言葉では説明できない不思議な質を帯びていた。
執事は毛皮に魅了されながらも、慣れた動作で毛皮を整え直す。その仕草には、ただの礼儀以上の慎重さが滲んでいた。やがて、使用人のひとりが椅子を引いたのを見て、アリエルは感謝の言葉を口にしながら席についた。
滑らかな陶器の皿には、白と藍を基調とした繊細な文様が描かれ、その中心には香草と柑橘で彩られた焼き魚が美しく盛り付けられていた。皮ごと炙られた魚の身は、表面に微かに油をにじませ、柔らかな光沢を帯びながら香ばしい香りを放っていた。
その皿の周囲には、磨き上げられた銀製の食具が整然と並んでいた。先の細い二股の食具、平たく湾曲した刃物、そして磨き上げられた匙――それぞれが、用途に合わせて洗練された形状を持ち、蝋燭の灯りを鈍く反射していた。
こうした食具の使い方について、アリエルは書物を通じて多少の知識は持っていた。しかし実際に目の前に整然と並べられた食具に向き合うと、戸惑いが先に立った。どの順序で、どの料理に、どれを使うべきか――その記憶は曖昧で、自信を持って手に取るには心許ない。わずかに緊張しているのを自覚しながら、視線をそっと上げる。
すると、向かいに座るルゥスガンドが穏やかな表情でこちらを見ているのが分かった。〈共感の護符〉を介して伝わる感情には、配慮と寛容が感じ取れた。優越でも苛立ちでもなく、単純な気遣いがあった。
作法など気にすることはない、と彼は伝えていた。我々とて、数十年前までは皆、手づかみで食べていたのだから、と微かに自嘲の混じる感情さえ感じ取れた。古き習慣への懐古と、形式を重んじる現在の感情――それが、彼の内に小さな矛盾を生じさせていた。その意図を受け取りながら、緊張が和らぐのが分かった。
ほどなくして、使用人が水差しと洗面器を携えて広間へと入ってきた。装飾を抑えた陶器には、微かに香料を含んだ湯が張られていく。静かに手を清めたあと、白い布で水滴を拭い取る。こうして食事の準備は整った。
しかし、ルゥスガンドはすぐには食事に手をつけなかった。彼の視線が扉の方に向けられていることに気づいて、誰かを待っているのだと理解する。
ふと扉が静かに開き、間を置かずに使用人に導かれるようにして、ひとりの少女が足を踏み入れた。柔らかな金髪が肩に流れ、湖のように澄んだ青い瞳が広間を見つめる。その表情は、どことなくルゥスガンドに似ている──彼の娘なのだろうか。
彼女は迷いなく部屋の中央へ進み、わずかに膝を折るような動作で礼を示し、静かに席についた。無駄のない所作からは、幼いながらも品格が感じられ、確かな教育を受けてきたことが窺える。
ルゥスガンドは少女を紹介し、彼女が自身の娘であることを告げた。少女は入室した瞬間から、じっとアリエルを見つめていた。その視線には怯えも猜疑もなく、ただ純粋な好奇心が含まれていた。
未知の世界の生き物を観察するような、無垢で真剣な眼差し――それは鋭くも穏やかで、嫌悪感は見られない。その視線から悪意が感じられなかったこともあり、アリエルは気にせずに受け入れた。
やがて父と娘は揃って手を合わせ、静かに瞼を閉じた。食事の前に神へ祈りを捧げているのだろう。アリエルにとっても、神々へ祈ることは決して珍しい習慣ではなかった。彼が知る多くの部族もまた、神々や精霊へ祈りを捧げていたのだから。わずかな沈黙の時間だったが、その間、食卓には静謐な空気が満ちていた。
ふたりが料理に手を伸ばすのを確認すると、アリエルも皿に視線を移した。湯気を立てる魚料理からは、香草と果実の香りが漂い、異界の食材にもかかわらず、どこか懐かしさを感じさせる。
食具を手に取り、慎重に身を切り分けながら、そのひとかけらを口に運ぶ。白身は驚くほど柔らかく、脂と香草の豊かな風味が口いっぱいに広がった。川魚から感じられる独特な臭みは一切なく、純粋な旨味が舌の上でゆっくりとほどけていく。
香草とともに添えられた鮮やかな果実の汁が、その風味を一層引き立てている。口に含めば、思いがけず淡く、そして深みのある旨味が広がる。その繊細な味は、アリエルがこれまでに体験したことのないものだった。
そっと顔を上げると、ルゥスガンドの視線がこちらに注がれていることに気づいた。彼の眼差しは柔らかく、どこか探るような静けさを帯びていた。アリエルは、そっとうなずいてから、食事が口に合うことを伝えた。護符を介して届いたのは、淡い安堵の気持ちと、抑えた喜びだった。ルゥスガンドの表情からは、人間的な温もりが感じられた。
そのやり取りを、向かいの少女はじっと見つめていた。共通の言語を交わすでもなく、互いの感情を理解し合う様子が、彼女には不思議でならなかったのだろう。首をわずかに傾げながら、食具を手にしたまま視線を移さず、眉をひそめることもせずに静かに考える。やがて、その疑問が抑えきれなくなったのか、彼女は思わず口を開いた。
『あなたは、どこから来たの?』
それは素朴な問いだった。その声音には、疑念や不躾な好奇はなく、純粋な疑問だけが込められていた。
アリエルは少しだけ考え、それから――彼女には到底馴染みのない異界の言葉で、高山地帯から来たということを簡潔に伝えた。少女は目を丸くし、ある種の感情の波として言葉の一部を理解できたことに心底驚いている様子だった。
子ども特有の感受性が、護符の効果を高めていたのかもしれないし、彼女自身の中に、感覚的に言葉を理解する素質があるのかもしれない。いずれにせよ、彼女は身を乗り出すようにして、次々と問いかけてきた。
『山の向こう側には、何があるの?』
『あなたは、部族の戦士なの?』
『その羽根は、山に生息する鳥のモノなの?』
彼女の問いは無邪気で、途切れることなく続いた。アリエルは、そのひとつひとつに言葉を選びながら答えていった。彼女が何かを理解するたび、目が輝き、その反応はどこまでも率直だった。
不思議とそのやり取りは疲れず、それどころか、心を和らげるものだった。重く緊張に満ちた旅路のなかで、はじめて訪れた穏やかな対話の時間だったのかもしれない。相変わらず意思疎通は難しい。それでも、互いの意志や感情が交錯し、目の前の食卓には、利害も警戒もなく、ただ他者との穏やかで安心できる時間が流れていた。
そのなかで、アリエルは料理を味わいながら、ひさしぶりに柔らかな空気に包まれながら食事を楽しむことができた。