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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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 意思疎通が一定の水準に達していると感じたのだろう、ルゥスガンド・イルムは沈黙を破り、アリエルに対して最も根源的な問いを投げかけることにした。〈共感の護符〉を介して彼から伝わる感情に、強要したり問い詰めたりするような感情は含まれず、純粋な興味から生じた質問だと感じられた。


 それは、ある種の疑念ではなく、異人を前にすれば誰もが抱く当然の疑問だった。アリエルが何者なのか、そしてどこから来たのか。それが彼の問いの核心であり、そこに含まれるのは異質な存在に対する警戒ではなく、知ろうとする意志――目の前の人間の本質を見極めようとする、支配者としての視点だった。


 もちろん、アリエルは真実を語るわけにはいかなかった。異界から来たと明かしたところで、呪術の存在すら疑わしいこの世界では、理解される可能性は限りなく低い。それどころか、不信と警戒を煽るだけになるかもしれない。


 だからこそ、この地の論理と常識内に収まる説明が必要だった。余計な疑念を抱かせず、違和感なく受け入れられる物語。それは事実とは異なるが、目的を果たすためには、最善の選択だった。言葉ひとつ、表情ひとつが、交渉の行方を左右する。ここで失敗は許されないのだ。


 アリエルはわずかに間を置き、慎重に言葉を選びながら、山岳地帯――白く連なる峰々の向こうから来たのだと語った。それは男性が求める完璧な説明ではなかったのかもしれない。あるいは、どこか無理のある言い訳のようにも聞こえたかもしれない。


 けれど感情を伝える護符の効果と相まって、それは、ある種の真実味を帯びることになった。ルゥスガンドの表情に疑念の色は浮かばず、どこか納得しているようにさえ見えた。


 この地に伝わる伝承――まことしやかに語られる噂と重なる部分があったからなのだろう。未開の山々の果てから見知らぬ異人がやってくるという話は、昔から何度も語り継がれてきたことだった。


 それは根拠のない噂話でありながら、この地に生きる人々の間に静かに根付いていた。ルゥスガンドもまた、知らず知らずのうちにそれを受け入れていたのかもしれない。


 どうやら、高山地帯に孤立した少数民族が存在すると信じられているようだ。彼らは文明との接触を避け、狩猟と採集に頼る原始的な暮らしを続けているという。黒い毛皮をまとい、雪原の霧の中に紛れる姿は滅多に目にすることはなく、それゆえ真偽不明の存在――あるいは伝説として語り継がれてきた。


 アリエルが身にまとう毛皮や見慣れない装束、雪原を思わせる白い肌や異質な佇まい――それらは、この地に根付く伝承に登場する少数民族と重なり合っていた。あまりにも自然に符合するため、疑念ではなく納得が生じる。未知の旅人ではなく、霧の向こうからあらわれた部族民として認識されていく。


 この港町にも数年に一度、荒原から見慣れない人間が流れ着いては、単純労働に従事する――そのことは、報告書を通じてルゥスガンドも認識していた。


 それは過酷な荒原で生活する毛皮猟師のことだったのかもしれないが、アリエルの説明は荒唐無稽なものではなく、この地の伝承や実際の記録と重なり合うことで、納得のいくものとして受け止められたのだろう。


 ルゥスガンドは特に疑念を示すことなく、また視線を外すこともなく、ただ静かにうなずいた。その仕草には、単なる同意以上のものがあった。アリエルが語った内容と、自身が知る情報の断片とが結びつくことで――そう信じるに足る兆候が、確かにそこにあるのだと理解したのかもしれない。


 続けて、ルゥスガンドはもうひとつの問いを発した。なぜ山を下りてきたのか。何の目的で、この荒涼とした寒冷荒原を訪れているのか。その問いは、単なる興味ではない。彼にとって、より本質的な疑問だった。この場にいる異人の存在理由――それを明らかにするための問いだった。


 人里に下りてくることのない部族の人間が、目の前にいる。その異常さを考えれば、理由もなく突然あらわれたとは思えなかった。何か重要な目的があるはずだ――この地を統べる領主として、それを確かめる必要があった。


 アリエルは周囲の人間を驚かさないように、ゆっくりとした動作で日記帳を取り出した。厚い革表紙の間に挟まれた紙はすでに何度も開かれ、冷気で乾いた指の跡が残っていた。(ぺーじ)をめくり、そこに描かれた遺跡と〈転移門〉の写生を見せる。


 線は丁寧に引かれ、構造の歪みや古びた石材の質感までもが精緻に描写されていた。アリエルが時間をかけて記してきた記録だ。それから視線と――鉄紺色に染まった指先で石造りの門を示して、遺跡について何か知らないか質問した。


 ルゥスガンドの表情が、ほんのわずか変化した。明確な言葉こそ発されなかったが、〈共感の護符〉を通じて伝わってきたのは、記憶の底を手繰ろうとする感覚だった。


 この荒原には、忘れられた都と太古の遺跡が数多く眠っている。しかし――アリエルが指し示す門について、彼は知らないようだった。確たる答えは得られなかったが、そのわずかな引っ掛かりこそが重要な手掛かりになるかもしれない。


 それは曖昧でありながらも、記憶のどこかに〈転移門〉の情報が刻まれている反応だった。しかし、それが土地の伝承に基づく知識なのか、それとも遠い昔に見た記憶に残るものなのか――彼自身にも定かではないようだった。


 アリエルが沿岸で目にした異形――水棲生物について質問しようとして口を開きかけた時だった。ルゥスガンドは、やや遠慮がちに、日記帳を見せてもらえないかと問いかけてきた。彼から伝わる感情には純粋な興味が宿っていた。それは外交的な関心ではなく、未知の世界に触れようとする人間的な衝動だった。


 知ることへの衝動――本能的なものであり、ルゥスガンド自身が意識するより先に言葉として発せられているようだった。アリエルは無言でうなずき、彼に革表紙の帳面を手渡した。


 彼は慎重な手つきで頁をめくっていく。紙の滑らかさを確かめるように、指先で表面をなぞっていく。やはり紙の質にも驚いているようだったが、それ以上に――彼の視線は森の風景に吸い寄せられているようだった。


 そこに描かれていたのは、〈神々の森〉で発見していた古代の遺跡や苔に覆われた祭壇、そして枝のような装飾を身につけた森の部族たちの姿だった。風に揺れる葉の密度まで細密に描かれた森の風景と、多種多様な姿を見せる部族に彼は言葉を失っているようだった。


〈共感の護符〉を通して伝わる感情には、驚きと敬意が入り混じり、それはやがて、未知なるものに対する憧れにも似た感情に変わっていくのが感じられた。彼の思考は、この大地の果て――山脈のさらに向こうに広がる別世界へと向けられていた。そこには、彼の知らない文明が、信仰が、そして人々の営みが息づいていると感じているようだった。


 けれど、彼の指が亜人たちを描いた頁で止まった瞬間、場の空気が微かに変わるのが分かった。全身が鱗に覆われた者、獣の耳と尾を持つ者。夜目を光らせる亜人の姿。これらの種族は、この世界の常識の枠を逸脱したものだったのだろう。


 ルゥスガンドの青い目が鋭く細められ、眉間には深い皺が刻まれた。その目には、驚きよりも、理解を拒むような硬さが見て取れた。〈共感の護符〉を通して伝わる感情には、困惑と混乱、そして驚きと猜疑心が含まれていた。


 呪素だけでなく、蜥蜴人や豹人といった亜人が存在しない世界なのかもしれない。彼の視線には、信じられないものを目の当たりにした者の深い疑念が浮かんでいた。


 日記帳を見せたのは、迂闊だったのかもしれない。この世界には、亜人が存在しないのかもしれない――その可能性に、今の今まで思い至らなかった。


 自分自身を含め、亜人という存在がごく当たり前の世界に生きてきたからこそ、疑問を抱くことすらなかった。そういうものなのだと、自然と受け入れていた。


 しかし目の前の男性の反応が、その前提をゆっくりと崩していく。視線の揺らぎ、護符を通じて伝わる困惑。紙の上の亜人の姿が、まるで異物のように扱われている――それは、ただの違和感ではなく、明確な境界線として表れていた。この世界に亜人は存在しないのだと。


 照月(てるつき)來凪(らな)の横顔を描いた頁で、ルゥスガンドの指が止まった。彼の目には美に対する畏敬に似た感情が浮かんだ。彼女の整った顔立ち、静謐な眼差し――それは、異界の人間にも訴えかける普遍的な美を宿していた。しかし額に覗く小さなツノに目を止めると、その表情が変わるのが分かった。


 美と異形の狭間で思考が揺れる。彼は何かを問おうとするようにその頁を見つめ続けた。そうしてしばらくの間、彼は日記帳に描かれていた世界に魅了されることになる。


 時間の感覚が薄れていくほど夢中になっていたが、ふと現実に戻ったかのように彼は顔を上げ、はにかむような表情を浮かべながら日記帳を返してきた。その仕草には、無遠慮に他人の世界に――内面に触れてしまったことへの後悔と、後ろめたさが滲んでいた。


 アリエルは、それを察して軽く首を横に振った。気にしなくていい――その意図が静かに伝わる。それから、この世界について質問しようとした。しかし言葉を発する前に、部屋の奥の扉が静かに開かれる音が響いた。


 応接室に入ってきたのは、先ほど使用人たちとともに葡萄酒を運んできた執事らしき男性だった。彼は背筋を伸ばしながらルゥスガンドに歩み寄り、口元に手を添えて短く囁いた。護符の効果を通じて伝わる感情の波を読み解くと、どうやら食事に関する話のようだった。


 ふと、明り取りの小窓に視線を向ける。歪んだ硝子が茜色に染まっているのが見えた。光は柔らかく滲み、揺らぎながら室内へと流れ込む。話し合いに没頭していたせいで、思いのほか時間が過ぎていたことに、今になってようやく気がついた。


 それでも、会談の場に疲労の気配はなかった。むしろ、言葉を交わすたびに、ある種の親しみが芽生えていた。ルゥスガンドはわずかに間を置いて、何かを思案する素振りを見せた。そして迷うことなく、アリエルを夕食へと誘った。まだ語られていない言葉があり、確かめたいこと山のようにあることが分かった。


 アリエルは、その視線を受け止めるようにうなずいた。彼にも、まだ問うべきことは数え切れないほどあった。そして何より――この世界について、もっと深く知る必要があった。

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