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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編

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15〈共感の護符〉


 葡萄酒の渋みが舌に残るのを感じながら、アリエルはゆっくりと視線を伏せ、静かに呼吸を整えた。会談の場が整ったのを肌で感じていた。もはや男性の表情からは笑顔が消え、その余韻だけが口の端に薄く残っていた。歓待の軽やかさの裏で、重みのある沈黙が応接室に横たわっていた。


 その静寂の中で、アリエルは慎重に次の行動を選ばなければいけなかった。ここから先の会話は、ただの雑談ではない――場を支配する空気が、それを明確に示していた。


 男性との会談を意味のあるものにするため、アリエルは〈共感の護符〉を使用することにした。貴重なモノだったが、今この場で出し惜しみすべきではない。


 護符に込められた呪術は、感情を読み取ることで、互いに共感する力を高める。それは言葉では越えられない壁を、感情という、より原初的な手段で繋ぐための護符だ。この札は希少で、数えるほどしか残されていない。それでも――男性との会談が無駄に終わる方が、はるかに損失になると判断した。


 しかし、護符の発動は決して気取られてはならなかった。数日前、寂れた集落で不用意に護符を使用した際に生じた厄介事が脳裏をかすめる。呪術の存在すら疑わしい世界で、これはあまりにも非現実的な力だった。認識されれば無駄に警戒され、会談は厄介な方向に転ぶかもしれない。


 目の前の男性を刺激しないためにも、慎重を期すに越したことはない。護符に込められた力は有効な手段たり得るが、使い方を誤れば、交渉の場が崩れる可能性もある。


 アリエルはゆっくりと身体を動かして、何気ない動作のように見せながら長椅子の柔らかな毛布に背中を預けた。その動きのなかで、左手を毛皮の下、太腿の上に滑り込ませる。動きは慎重に、ただ気を休めているだけのように見せることを意識する。


 腰に吊るしていた手斧は、座るときに邪魔にならないよう、すでに〈収納空間〉に放り込んでいたので動作の妨げにはならなかった。


 必要な護符を意識しながら、〈収納空間〉から一枚の札を取り出す。指先にあらわれたのは、上質な紙に精緻な呪文が刻まれた護符だった。それは微かな呪素(じゅそ)にも反応して、表面に刻まれた〈神々の言葉〉がゆっくりと目覚めるかのように燐光を帯びていく。


 アリエルは護符に意識を集中させながら、体内に循環する呪素を微かに流し込む。途端に、札の表面に目に見えないほどの微細な呪素の波紋が広がり、内側から燃え上がるように青い炎が灯る。その光は毛皮の内側に閉じ込められ、外からは何ひとつ見えない。音もなく、気配すらなく――ただ静かに、護符は青年の手のなかで灰に変わり霧散していく。


 本来であれば、この護符は相手に直接握らせて使うべきものだった。それにより感情の繋がりは、より鮮明になり、意図の齟齬も減る。けれど、この場でそれを試す余地はないだろう。無理強いすれば、(かえ)って警戒心を煽り、交渉の道を断つことになる。遠回りでも、穏やかな方法を選ぶしかない。


 もちろん、護符だけでは効果に限界がある。だからこそ〈念話〉も併用しなければならない。しかし頭の中に直接声が響いてしまえば、必要以上に驚かせてしまうし、警戒を誘う可能性がある。だからこそ、発声と同時に〈念話〉を重ねることで、不自然な干渉と見せないように演出する必要があった。


 それでも――どれだけ手を尽くしても、言語による対話ほど明瞭な意思疎通はできない。怒り、喜び、悲しみ、恐れ――人間の本能に根ざした感情の波に、いくつかの単語や意識の断片を忍ばせる程度のことしかできない。


 それを受け取る側もまた、表面上の言葉ではなく、その中に含まれた感情の質を読み解かなければならなかった。これは言葉を紡ぐことではなく、心の揺れを探ること――より原始的な対話なのかもしれない。


 準備が整った直後、ちょうど男性が話しかけてきた。アリエルはその言葉に意識を集中させる。長年、命じることを当然としてきた者の声音――その響きには迷いがなく、場を支配しようとする確固たる力が宿っている。言葉の端々に隠された波を探ろうとすると、護符の効果がゆるやかに発現し始めた。


 心の奥底を揺らすような〝感情の情景〟が流れ込んでくる。どうやら、彼は自己紹介をしているようだ。しかし、それは単なる会話としてではなく――言葉を超えて、根底にある意識の深層として再構築されていく。


 まず、伝わってきたのは〝土地〟という感情だ。乾いた土の匂い、荒涼とした丘と地平線の果て、岩肌のひんやりとした質感までも伝わってくるようだった。それらが言葉の内側から滲み出し、アリエルの意識にぼんやりと浮かび上がっていく。


 続いて伝わってきたのは、〝所有〟あるいは〝領有〟という感情だ――それは曖昧なものではなかった。命令に従う無数の人影、整然と並ぶ旗印を掲げた軍列。その隊列の向こうに、金貨の山が崩れる光景が微かに滲む。統治の象徴なのか、それとも支配の痕跡なのか。いずれにせよ、その感情には強い確信があった。


 そして、最後に伝わってきたのは〝権力〟という強い感情だった。誰かを裁き、命じ、奪う力。声ひとつで民を動かす――それが当然であるかのような感覚。抵抗の余地のない確固たる意思が、その感情の奥底に沈んでいる。それは畏怖ではなく、絶対的な支配の感情だった。


 アリエルは、その断片的な感情を慎重に繋ぎ合わせていく。それは単なる情報の羅列としてではなく、男性の生き方そのもの――意識に深く染み込んだものが、いまこの瞬間、感情の波となって静かに伝わってきていた。


 男性は、自らがこの広大な荒原――灰色の岩稜と乾いた風が吹くこの地の支配者であると、そう語っているのだ。単なる村落の長ではない。この土地に根ざす、ひとつの〝核〟なのだと。そこで彼が、この荒涼とした広大な土地の領主なのだとハッキリと理解できた。


 さすが豹人の姉妹、ノノとリリが作成した護符だ。その効果は絶大だった。護符を通じて流れ込んでくる感情の輪郭が、驚くほど鮮明だ。


 以前、異界を旅した際にも〈共感の護符〉を使用したことがある。しかしそのときに感じ取れたのは、漠然とした印象の断片に過ぎなかった。今回のように、感情の温度だけでなく情景までもが伝わることはなかった。


 ノノとリリが護符に込めた呪力の流れが洗練されているのか、それとも呪素がほとんど存在しない特異な土地が影響を与えているのか――どちらにせよ、この護符がもたらす共鳴の強さは、交渉の場において決定的な意味を持つことになる。


 言葉が伝わったと感じたのだろう。男性の感情にわずかな揺らぎが感じられ、その波の中に〝名前〟あるいは〝呼称〟を意味する強い感情が流れ込んでくる。アリエルは、彼が自らの名を伝えようとしていることを察すると、その発音に意識を集中させた。


「ルゥスガンド・イルム」

 その響きには、どこか重みのある感情が込められていた。


 アリエルは片眉を上げながら、その名前を舌の上で何度か転がす。馴染みのない響きを確かめるように、彼の発声の仕方を真似るように声に出す。


 一音一音を確かめるように、ややゆっくりと、発声と〈念話〉の両方を重ねて伝える。名とは、ただの言葉ではない。それは感情に紐づく記号であり、呼びかけることで敬意と親しみを示す行為でもあると読んだことがある。だから正しく発音できているか確かめるように、慎重に言葉を繰り返す。


「ルゥス……ガンド……イルム」

 その瞬間、男性の眼差しがわずかに変化したように見えた。その表情に柔らかな微笑みが浮かび、満足そうにうなずいた。どうやら正しく伝わったようだ。


 それから、アリエルも自己紹介を行う。その言葉が名前だと伝わるように、感情の波を意識しながら、ゆっくりと発声する。


「アリエル」と。


 何度か言葉を区切りながら、〈念話〉の感覚を細く保ちつつ、丁寧に響きを伝える。単なる音ではなく、そこに宿る意味を慎重に届けるように。


 しかし、それがいけなかったのかもしれない。名前に含まれる〈輝ける神々の子〉という本来の意味が、より鮮明な輪郭を(もっ)て伝わってしまう。それは護符の効果と相まって、ある種の情景として垣間見えてしまったのかもしれない。


 男性はアリエルに対して、人間離れした印象を――どこか崇高で、超自然的な感覚を受けとることになる。


 もちろん、目の前に神の使徒があらわれたなどとは考えていないのだろう。男性はそこまで信心深いわけではなかった。けれど、それでもアリエルを見る目つきには確かな変化があった。


 先ほどまでの彼にとって、アリエルは異質な存在だった。言葉も振る舞いも、この地の人間とは異なりすぎる。狂気を孕んだ異人――そんな印象が拭えなかった。しかし今、その見方がわずかに揺らいでいる。


 言葉を交わし、思考の奥底に触れることで、アリエルはただの異人――あるいは蛮族ではなく、より崇高な意識を持つ文明的な人物として認識され始めていた。


 ルゥスガンドはわずかに身を乗り出し、大きな手を差し出した。握手――部族には馴染みのない習慣だった。しかしそれが一般的な挨拶であり、手を交わすことで互いの敬意と親睦を示す行為だと知っていた。エルは迷うことなく、その手を取った。


 すると、彼の手の甲に古い傷跡が刻まれているのが見えた。指は長く太く、領主というよりも武人のそれに近い。粗く硬い皮膚の下には、戦場で培われた経験と力が滲み出ている。領地を統べる者としての重みと責任が感じられるようだった。


 領主という立場でありながら、彼が最小限の従者だけを連れて歩き回っていたのは、武人としての自信と余裕の表れなのかもしれない。あるいは、彼に仕える使用人たちの敬意や親しみのこもった態度からも分かるように、彼は民から深く慕われているのかもしれない。


 すると、ルゥスガンドはもう片方の手を伸ばし、力強く包み込むようにしてアリエルの手を握り返してきた。手のひらから伝わる熱は、ただの温もりではなく、確かな意志の表れだった。そこには、鉄紺色に染まる手に対する忌避も軽蔑もなかった。ただ、互いの存在を認めるという、感情が込められていた。


 この会談は、まだ始まったばかりだった。それでも――少なくとも今、目の前の男性は対話の扉を開いている。その確信が、彼の手のひらを通じて伝わってくる。それを感じ取れたことが、何よりの収穫だったのかもしれない。

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