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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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 背後で重厚な門扉が静かに閉じられ、敷地内に足を踏み入れた瞬間、外界の喧噪から切り離されたような奇妙な感覚に襲われた。けれど、それはただの錯覚なのだろう。密集した家屋が複雑に入り組む集落の通りを抜け、広く整然とした空間に出たから、そう感じたのかもしれない。


 玄関先には数名の人影が立っていた。身なりは控えめながら清潔で、皆が一様に背筋を伸ばし、何かを待ち構えるように整列していた。彼らは客人を出迎えるというより、主人の帰還を待っていたのだろう。その視線は男性にまっすぐ向けられていて、アリエルに視線を向ける者はひとりもいなかった。


 男性が短く何かを告げると、使用人たちは無言のまま軽く頭を下げ、それぞれの持ち場へと静かに散っていった。口数は少なく、動作に無駄がない。その様子だけで、この屋敷が長い年月、確かな秩序のもとに運営されてきたことが伝わってくる。アリエルは彼らの動きを観察したあと、男性の背中を追い、ゆっくりと屋敷の中に歩みを進めた。


 玄関から続く廊下は広く、床には艶やかな木板が隙間なく敷き詰められていて、踏みしめるたびに微かな反響が聞こえた。明り取りの窓が少ないからなのか、屋敷内は全体的に薄暗く、あちこちに壁掛け燭台が設置されていて、蝋燭(ろうそく)の小さな灯りが揺れているのが見えた。


 やがて屋敷の中心と思われる広間に出る。天井は高く、漆喰で塗られた壁には額装された絵画がいくつも掛けられている。どれも人物や風景を写実的に描いたもので、粗雑さはなく、丁寧な筆致が見て取れた。室内の片隅には使い込まれた木製の戸棚が置かれ、銀製の燭台や陶器の置物が、無造作に見えながらも計算された配置で飾られていた。


 石材で組まれた暖炉があり、揺らめく炎の灯りが部屋に微かな温もりと陰影を与えている。家具はどれも上等なモノだった。とくに目を引いたのは、獣皮が張られた椅子と、彫刻が施された円卓で、滑らかさの中に微細な凹凸が感じられた。


 空間全体に漂う微かな香木の匂いが、ただの豪華さだけでなく、生活に根付いた美意識までも垣間見せているようだった。


 従者に案内されるようにして通された部屋は、応接室と思われる落ち着いた空間になっていた。壁には暗紅色(あんこうしょく)の布地が張られ、装飾のない白い壁面とは対照的な温かみを醸し出している。


 明かり取りのための小さな窓が設けられていたが、室内は全体的に薄暗かった。壁には鉄製の燭台が設けられていて、蝋燭の灯が細く揺れている。弱々しい灯りが落とす影は、壁を滑るように揺らめき、照らされたものすべてに重みと深い陰影を与えていた。


 小窓のひとつに視線を向けると、厚手の硝子(がらす)が嵌め込まれているのが見えた。やや緑がかったその表面は微細な歪みを含んでいて、外光を柔らかく屈折させて室内に取り込んでいた。〈神々の森〉では、硝子窓は贅沢品の部類だった。


 各部族の集落では、なめした薄い皮に油を染み込ませたものを窓に張って使うのが普通だった。砦以外で窓硝子を見たのは、首長の城郭都市を訪れたときだけだった。


 アリエルは硝子越しの曖昧な光を見つめながら、改めてこの屋敷の主が、ただの辺境の村長(むらおさ)ではないことを実感していた。彼の立場や地位は、村の枠を超えて、もっと大きな秩序の一端に属するものなのだろう――この空間のひとつひとつが、その事実を否応なく語っていた。


 応接室の扉が静かに閉ざされ、蝋燭の灯りだけがゆるやかに壁面を照らしていた。アリエルは案内されるまま、部屋の中央に据えられた長椅子(セティ)の近くに立つ。


 木製の骨格は複雑な意匠が施されていて、背もたれから肘掛けにかけて蔦や花を模した彫刻が絡みついていた。表面は厚手の布で丁寧に覆われていて、その下には柔らかい詰め物が仕込まれているのか、指先で軽く押すだけで沈み込んだ。座面には獣毛で織られた毛布が敷かれていて、その肌触りは指先を滑らせただけでも分かるほど滑らかだった。


 あまりにも整いすぎていて、そこに腰を下ろすこと躊躇(ためら)ってしまうほどだった。〈ザザの毛皮〉が清潔だったことに、どこか安堵しながら、そっと腰を下ろす。


 その長椅子の前には、同じ木材で作られた低い卓が置かれていた。卓の縁にもやはり彫刻が施され、脚部には金属の装飾が巻かれている。その卓を挟むようにして、反対側の長椅子に座った男性は無言のまま、じっとアリエルの様子を観察していた。その視線には鋭さこそないが、油断は見られず、単なる好奇心とも言えない。


 視線をそらし、室内に置かれた他の調度品に目をやる。壁際には背の高い戸棚が置かれていて、磨かれた木面には光沢があり、把手(とって)は真鍮に見えた。暖炉の上には彩色された陶器や、古びた装飾品が飾られ、どれも高価な品に見えた。


 足元には厚手の絨毯が敷かれていて、編み込まれた模様は見慣れないもので、流麗な曲線と幾何学模様が不思議な調和を成していた。荒原の只中にいるとは信じがたい、洗練と贅沢に満ちた空間だった。


 銀と真鍮の装飾が施された燭台を眺めている時だった。再び扉が開いて、複数の使用人が入ってくるのが見えた。ひとりは陶器の水差しを、もうひとりは浅く広い洗面器を両手で支えていた。足音は控えめで、蝋燭の火がその動きに合わせてわずかに揺れていた。


 一方の使用人たちは男性のもとに向かい、水差しの口から静かに水を流しはじめた。透明な水が洗面器の底に広がり、微かに陶器を打つ音が響いてくる。男性は慣れた手つきで袖をたくし上げ、片手を水に浸し、もう片方の手で軽く撫でるようにして洗い清めていく。その一連の動作からは、慣れによる洗練さが垣間見えた。


 ふたりの女性がアリエルのもとに歩み寄ってくる。ひとりが洗面器を差し出し、もうひとりが水差しを傾けた。


 アリエルは水浴びを好み、常に身を清潔に保ってきた。しかし部族の多くは、食後や神々に祈る場でしか手を洗わないため、その異なる習慣に戸惑いを覚える。それでも、失礼にならないように彼は両手を差し出した。淡く光を透かす水がまっすぐ手に注がれていく。冷たい雫が手のひらを打ち、皮膚を滑り落ち、指先から洗面器へと静かに滴る。


 水に濡れた手のひらを擦り合わせる瞬間、鉄紺色に染まる皮膚と、微かに鱗に覆われていた手の甲が蝋燭の灯りを受けて鈍く光った。男性はそれを見逃さなかったが、忌避感を抱くこともなければ、嫌悪の眼差しで見ることもなかった。ただ沈黙のまま、観察を続けていた。


 手を洗い終えると、すぐに布を持った使用人が近づいてきた。やわらかく、やや温かな布が、指の隙間や手首のあたりまで丁寧に拭き取っていく。使用人は怯えたような目をしてはいたが、彼女の手つきは丁寧だった。目の奥にあるのは恐怖だけではなく、主人の命に応えようとする真剣さ――そして信頼を裏切るまいとする、忠誠の色だった。


 そこで、水に対するふとした違和感を覚えた。冷たさの中に、どこか甘い香りが紛れ込んでいる。アリエルはその正体を確かめるように鼻を近づけた――花の香りだ。微かに、しかし確かな輪郭を持って広がる、鮮やかな花弁の香り。荒涼とした土地を見てきた者なら、それがどれほど贅沢なものか、すぐに気づくだろう。


 この地では草すら満足に育たない。それをわざわざ水に移し、洗浄のために用いる。意味は明白だ――これは、優雅さと余裕を誇示するための行為でもあるのだろう。ただ清らかな水だけでなく、そこに香りまでも添える。何気ない水にさえ、彼の身分の高さをあらわしていた。


 手を拭う布が下げられて間もなく、複数の足音とともに、壮年の男性が部屋に入ってきた。背筋の伸びたその姿に、控えめながらも従者を指揮する威厳が感じられた。無言で頭を下げた彼に対し、主人は一言二言、手短に指示を与えた。言葉の意味までは拾えなかったが、その仕草には、慣れた日常の一環としての落ち着きがあった。


 そのやりとりの直後、先ほど手洗いを手伝ってくれた女性たちが、今度は別の器を運び入れてきた。ひとりは盆の上に乗せた複数の硝子の器を、もうひとりは黒に近い赤紫色の葡萄酒の瓶を抱えていた。滑らかな陶器すら珍しいなか、これほど精緻な硝子細工が揃っていることに、アリエルは思わず目を見張る。


 慎重な手つきで女性が瓶を傾けると、透明度のあるグラスの中に濃い葡萄酒が静かに注がれていく。液面は鏡のように揺れ、蝋燭の灯りを反射して、深い色彩を浮かび上がらせた。使用人は言葉もなく一歩下がり、身を引くようにして壁際に控えた。


 彼らの主人はそのグラスを手に取ると、薄く笑みを浮かべ、すっと腕を持ち上げた。その動作は自然なものでありながら、どこか誇らしげでもあった。彼にとって、このグラスこそが見せ場なのだろう――それは口に出さずとも明らかだった。


 銀の器具を使用しないことを意外に思った。城郭都市を拠点とする歴史ある名家では、毒素や腐敗を見分けるため、銀の盃や皿を好むのだと聞いたことがある。〈黒い人々〉であり、裕福な一族の出でもある親友、ウアセル・フォレリも、いつも自前の銀の盃を持ち歩いていた。


 けれど目の前の男性は、そんなことには頓着しないらしい。毒を恐れるより、見事な硝子細工を客人に見せることの方が重要なのだろう。それが、彼の力と影響力を示す方法でもあるのかもしれない。


 アリエルは促されるまま、出された葡萄酒に口をつけた。液体が舌の上に広がり、微かな酸味と強い渋みが一気に喉を駆け抜ける。好みの味ではなかった。青年には、この苦味は強すぎたのかもしれない。甘味や香りよりも、喉を刺すような余韻が残る。けれど、その感想を表情には出さなかった。


 目の前の男性が求めているのは味の共有ではなく、場の演出に付き合うことなのだと分かっていたからだ。そして、彼の顔つきが変わっていくのが見えた。さきほどまでの穏やかな笑みは口元から消えていた。場の空気が、ゆっくりと〝話し合い〟の段階に移り変わるのを感じた。準備はすべて整ったのだろう。

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