13
男性は静かに口を開いた。決して目を逸らすことなく、アリエルを見据えながら、現地の言葉でゆっくりと語り始める。その語り口は穏やかで、言葉の端々に尖ったものはなく、静かな抑揚を持って紡がれていた。落ち着いた響きが、ふたりの間の空気をわずかに和ませるが、それでも周囲の緊張は完全にほどけなかった。
言葉の意味はまったく理解できなかったが、敵意が含まれていないことだけは確かだった。それにも拘わらず、武装した者たちは距離を保ったまま、依然として警戒を解かない。槍や斧の柄に添えた手は、指先に震えや緊張を残したまま下ろされることはなかった。
沈黙の底では、不安と恐怖が静かに渦を巻いていた。息を詰めるような空気が場に漂い、その隙間を風が通り抜けていく。
男性が話をする間、アリエルは黙って彼の容姿を観察していた。身にまとう衣服の質、整えられた髪、澄んだ瞳――それらすべてが、この荒涼とした土地の人間とは明らかに一線を画していると感じさせた。くすんだ金髪は丁寧に後ろで束ねられ、その青い瞳には空気を見極める冷静さと、底知れぬ用心深さが潜んでいるように見えた。
身に着けた白い胴衣は、胸元に精緻な刺繍が施されている。おそらくは家紋だろう。布地はただの麻ではなく、密に織られた質の良い生地が使われていて身体に馴染んでいる。その上に重ねられた黒い羊毛の外套は、丈が膝まで伸び、裾が風にわずかに揺れていた。
外套の留め具として使われる釦には金の縁取りが施されていて、無駄のない装飾の中に、支配階級としての自負が確かに刻み込まれているように見えた。ちらりと足元に視線を向ける。磨かれた黒革の履物には――集落の外まで歩いてきたにも拘わらず、泥跳ねすら見当たらなかった。
やがて男性の語りが途切れた。どこか緊張感のある静寂が広がるなか、アリエルはわずかに息を整え、敵意がないこと、遺跡に関する情報を求めていること、さらに食料と飲料水を補給したい旨を〈神々の森〉で用いられる〈共通語〉で丁寧に伝えた。できるだけ落ち着いた調子で話しながら、相手の反応を窺う。
しかし男性の顔に影が差すのが見えた。興味と困惑が入り混じったような表情を浮かべ、数瞬の沈黙のあと、残念そうに首を横に振った。やはり言葉が理解できないのだろう。その現実が、言葉の壁が、ここでも確かな障害となって立ち塞がっていた。
アリエルは躊躇いながらも、〈共感の護符〉に手を伸ばす。意思疎通の手段として、それは最後に残された方法だった。しかし男性は身をひるがえすようにして、踵を返して集落に向かって歩き出した。拒絶とも、警戒とも取れる態度に一瞬身構えたが、振り返った男性が軽く顎を動かして見せたことで、その意味を理解する。
それは〝ついてこい〟という仕草なのだろう。あくまで冷静で、無用な刺激を避けるような態度は、時間をかけても武力ではなく交渉による解決を望んでいることを示していた。
アリエルは男性に向かってうなずいてみせると、腰の手斧に手のひらを添えたまま、武装した男たちの間を慎重に通り抜けて、ゆっくりとその後を追い始めた。背後からは、怯えと警戒の視線がなおも突き刺さっていたが、気にしている余裕はなかった。
荒原の石を積み上げて築かれた石垣を越えると、足元に硬質な感触が伝わる。地面に敷き詰められた灰色の石畳が、湿った土と冷たい風にさらされながら、集落の通りまで延びているのが見えた。その表面には凹凸やひび割れが走り、風雨に浸食された痕跡が刻まれていた。
その通りの両脇には、石造りの家屋が密集して並んでいた。基礎と壁には風化の進んだ石が用いられ、角は丸みを帯び、細かな亀裂が確認できた。しかし、これまで見てきた寂れた集落と異なり、屋根や柱に厚みのある木材が使われていた。その質感はしっかりとしていて、この集落では木材の確保が比較的容易だと分かった。
それでも、壁面には土と石が幾層にも塗り重ねられ、隙間を塞ぐように乾燥した草が塗り込められているのが見えた。その粗雑な補修の跡が、この土地の厳しさと、人々が長年この地に根付いてきた歴史を語っているようでもあった。
通りを進むごとに、人の姿が増えていくことに気がついた。ざっと見渡しただけでも、百を超える住人がこの集落で暮らしていることが分かった。荷車を引く壮年の男性は、警戒したような視線でアリエルを見つめ、石炭らしきものが入った籠を抱えた少年は、慎重に足元を確かめながら歩いている。
石造りの焚火炉の前では、女性たちが思い思いに言葉を交わし、炎が風に揺れているのが見えた。そして鋭利な鉈を腰に下げた屈強な男たちが、薄暗い路地の向こうから睨みつけているのが見えた。
思いのほか、この地には人々の生活が息づいている。風の冷たさの中に煙と油の焦げた臭いが漂い、その合間を縫って人々の熱気が流れていた。空気の中に、日々の営みの重みが凝縮されているようでもあった。独り荒原を歩き続けたせいなのか、その変化に意識が追いつかず、思わず眩暈がするほどだった。
やがて水辺に近づくと、空が急に騒がしくなる。何十羽という鳥の群れが低空を旋回し、甲高い声を重ねている。その先には、風の音に混じるように波の砕ける音と、人々の騒めきが聞こえてきた。そこには絶え間なく打ち付ける波と、信じがたいほどの異様な光景が広がっていた。
水棲生物だろうか――そう形容する他ない生物が、浜に横たえられたまま解体されている。しかし、その姿はアリエルの知るどの魚類とも異なっていた。
艶めいた黒灰色の体表は岩のように硬く、部分的に甲殻類が付着し、裂けた箇所から骨と赤黒い肉がむき出しになっている。眼窩は潰れ、巨大な口腔は半ば開かれているものの、そこに歯はなく、代わりに体毛のようなものがびっしりと生えていた。
その異形の体躯は、まるで深淵から這い出した混沌の化け物のようにも見えた。尾の方から解体が進んでいるらしく、脂肪の塊が幾層にも剥がされ、籠や桶に詰められていく。
皮膚の下から厚い脂肪層が滑り落ち、斧と鉈を持った者たちがそれに群がっていた。肉の裂ける音が鈍く聞こえ、骨を割る衝撃が響いてくる。血の混ざった汚水が地面に溜まり、そこで働く者たちの足元から湿った音が響いてきていた。
つめたい風がその場を通り抜けるたびに、生臭さが濃くなり、上空を旋回していた鳥たちの声は、どこか焦燥の色を帯びていく。
解体場には多くの人々が集まり、作業に没頭していた。男たちは肉の塊を切り出し、女たちは脂肪を選り分けながら桶へと詰め込み、幼い子どもすらもその重たい桶を運ぶために駆け回っている。その喧噪は途切れることなく、死の気配と生活の熱気が入り混じっていた。
鼻腔を刺すような強烈な臭いが、血と油と臓腑の腐臭を絡めながら漂ってくる。空気の重さと臭いに、慣れない者は思わず顔を背けてしまうだろう。それでも、この場にいる者たちにとっては日常の営みなのだろう。肉の裂ける音が規則的に聞こえ、脂肪の塊が滑り落ちるたびに、桶の底に鈍い音が沈み込んでいった。
その光景に圧倒されていると、先ほどの金髪の男性が――数人の従者らしき者たちを伴いながら、こちらへ歩み寄ってきた。濡れた石畳を踏む足取りは軽く、呼吸ひとつ乱れていない。その姿は、この場の喧噪とは別の次元にあるかのような、落ち着きに満ちた態度だった。先ほどの騒ぎなど、まるで気にしていないようにも見えた。
そして彼はどこか誇らしげに腕を持ち上げると、解体されている巨大な水棲生物を指し示しながら、上機嫌な声で何かを語り始める。声には抑揚があり、言葉の端々には明確な自負が滲んでいた。まるでこの怪物の捕獲と解体が、自身の手柄であるかのように――あるいは、この地の豊かさと力を象徴する証として誇示しているように思えた。
アリエルは返す言葉も持たず、ただその異様な光景を見つめ続けていた。これほど巨大で、これほど異質な命が、水の底に潜んでいるという事実に驚愕とともに、微かな戦慄が背筋を這った。
南部遠征の際、魚人たちが神聖視する湖の底を泳ぐ異様な生物の影を目にしたが、まさか異界でも巨大な水棲生物を目にすることになるとは思わなかった。
脂と血の臭いがまとわりつくように鼻腔を侵し、喧騒が耳の奥を打つなか、アリエルはしばしその場に立ち尽くしていた。巨大な水棲生物の解体という非日常的な光景に、思考が追いつかず、視線は本能的に生物の裂けた胴体や、血液に濡れた臓器の一部に引き寄せられていたが、男性の声で意識を現実に引き戻す。
言葉の意味は理解できない。それでも無視することはできない。アリエルはゆっくりと解体場から視線を外し、男性の言葉に応えるように歩き出す。
風に混じる血や肉の臭いが遠ざかっていく。人々の喧噪も次第に聞こえなくなり、やがて通りは静けさに支配されていく。高い屋根の家屋がまばらに並ぶなか、一軒だけ、明らかに周囲とは趣の異なる建物が視界にあらわれる。
それは、三階建ての豪奢な屋敷だった。周囲の住居が実用本位の石と土で簡素に仕上げられているのに対し、その建物はひときわ異質だった。白く塗られた外壁には繊細な浮彫が施され、深緑に染められた屋根は鈍く光り、磨き上げられた金属の装飾が窓枠に埋め込まれていた。
入り口には鉄製の門扉があり、その先には手入れされた石畳の道が続いていた。土の匂いが濃厚な集落のなかで、この屋敷だけが別世界のように整っている。その場違いな清潔さと整然さは、むしろ威圧的にすら映った。
従者たちは足を止めることなく、慣れた様子で門を押し開け、男性のために道を開いていく。どうやら、この屋敷が彼の目的地だったようだ。
アリエルは屋敷の前で整列している人々の姿を眺めたあと、男性の背中に視線を向ける。彼に何を求められているのかを探ろうとしたが、その答えは見つけられそうになかった。




