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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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10


 駄獣の低い鳴き声に反応して顔を上げると、日焼けで白い肌を赤く染めた男性が、重たい足取りでアリエルに近寄ってきた。小石が散らばる地面を踏みしめるたびに、わずかに沈み込み、足を動かすたびに毛皮の端が乱れる。


 乾いた風に晒された肌はひび割れ、身にまとっている薄汚れた毛皮からは、汗と獣臭とが混じった臭いが漂ってくる。風に流されては消え、またふとした瞬間に鼻を突くその臭いは、この土地の厳しさを象徴するかのようだった。


 男性は困ったような表情を浮かべ、何事か話しかけてきた。その声は意外にも柔らかく、問いかけるような調子だったが、アリエルにはその言葉の意味がまったく分からなかった。ただ、その響きには彼の焦燥や困惑が滲んでいるように感じられた。


 やがて、褐色の肌を持つ男性がこちらの様子を気にかけ、慎重な足取りで近づいてきた。アリエルは咄嗟に腰に吊るしていた斧に手を添え、警戒心を研ぎ澄ませる。けれど、その必要はなかった。男性は敵意を示すわけでもなく、〈ヤァカ〉にも似た黒毛の駄獣の背に積まれた荷物に片手を置き、何かを問いかけるような口調で話し始める。


 言葉は理解できなかったが、態度から察するに、荷物について確認しているようだった。アリエルは〈収納空間〉に意識を向け、古びた背嚢を取り出した。そして毛皮の隙間から腕を伸ばし、それを相手に見せた。


 その布袋は、かつて砦を襲撃した者たちから手に入れていたモノで、長年の粗雑な扱いによって端々が擦り切れ、縫い目の間からわずかに中身が覗いていた。


 これまで雑に扱われてきたからなのか、破れた布の隙間から携行食がこぼれ落ちてしまう。乾燥した果実が地面に転がり、つめたく湿った風の中で微かな音を立てる。その瞬間、青い瞳を持つ女性が素早く身をかがめ、慌てた様子で食料を拾い上げていく。彼女の指先は迷いなく動き、それを無駄にすまいとする意志が感じられた。


 周囲にいた人々も驚きながらも食料を拾い集めてくれる。荒々しく見えた彼らの姿とは対照的に、基本的に善意をもって行動している人々のようだった。粗野な毛皮をまとい、厳しい環境に疲れた表情を見せる彼らは、厳しさの中で支え合うことを当然のように心得ているのかもしれない。


 アリエルは受け取った果実を胸元に抱えながら、軽く頭を下げて感謝を示した。そこで、すぐに場の空気が微妙に変わったことを感じ取った。周囲にいる者たちは、一様に動きを止め、ぽかんとした顔で彼を見つめている。その視線はただ驚いているというよりも、どこかぎこちなく、理解しきれない何かに直面しているようだった。


 互いに視線を交わしながら、彼らは何かを探るような素振りを見せる。言葉を交わす者はいないが、微かに眉を寄せたり、顎を引いたりする仕草が、戸惑いの色を浮かび上がらせていた。アリエルは礼儀正しく振る舞いすぎたのかもしれないと気付く。


 彼らの文化では、こうした仕草は馴染みのないものなのかもしれない。ほんの些細な振る舞いが、アリエルを異質な存在として際立たせてしまったのだろう。


 とはいえ、彼らはそれ以上深く追及する様子もなく、すぐに遠く霞んで見える集落を指さしながら、再び何事かを口にした。すると白い肌を赤く染めた男性が、穏やかな動作で手招きする。その仕草には強制的なものはなく、ただ同行を促す意図があるように見えた。


 アリエルは迷わずうなずき、その厚意を受け入れることにした。この集団の中に紛れて移動すれば、集落に入り込む際も目立たずに済むだろう。風が湿った砂を巻き上げるなか、駄獣の歩調に合わせ、無言で沿岸を進み始めた。


 水辺に打ち上げられた奇妙な水草を観察していると、彼らの視線が自分に集まっていることに気づいた。


 誰もがアリエルに興味を抱いているようだったが、それ以上踏み込んで話しかけてくる者はいない。やはり言葉の壁が大きいのだろう。黙して歩く彼らの目には、好奇心と、それに混じるわずかな警戒心が滲んでいた。異質なものを前にしたときの防衛反応のようだった。


 そんな中、褐色の肌を持つ男性が遠慮がちに近づいてきた。その肌は乾燥した風に晒され続けた所為か、荒れた質感を帯びていた。〈黒い人々〉を思わせるそのがっしりとした風貌には、過酷な環境を生き抜いてきた者の強さが宿っているように見えた。


 彼は間合いを保ちつつ、手ぶり身ぶりを交えて何かを伝えようとしていたが、アリエルにはまったく理解できなかった。


 ふと彼の手元に視線を向けた瞬間、アリエルは違和感を覚えた。男の手首には粗末な鉄の手枷がはめられていた。錆びた鉄が擦れた跡なのか、手首の皮膚が裂け、赤黒く変色している。驚きに似た感情が胸をよぎり、アリエルは改めて周囲を見渡した。


 気づかなかっただけで、同行しているすべての者たち――肌の色も目の色も異なる者たち――全員が、同じように手枷をつけられていた。金属のこすれる音が、波音にかき消されるように微かに響いていた。彼らは、労働のために集められた奴隷なのかもしれない。


 そこに青い瞳の女性が近づいてくるのが見えた。彼女は若く、その表情に浮かぶ好奇心は隠しようがなかった。そこでアリエルは手にしていた乾燥果実を差し出す。地面に落ちた食料を拾ってくれたことへのささやかな感謝のつもりだった。


 けれど彼女は動きを止め、わずかに眉を寄せながら手を引っ込めて、そのまま背中に隠す。その躊躇(ためら)いには、単なる遠慮以上の何かが含まれているように見えた。


 アリエルは押しつけるつもりはなかったが、どこか無理にでも受け取ってほしい気持ちが心の隅にあった。彼女に再び果実を差し出す代わりに、先ほどの褐色の男性にそっと手渡した。彼は戸惑い、それから周囲を見回し、短く息を詰める仕草を見せる。警戒なのか、それとも迷いなのか――やがて、しぶしぶそれを受け取ってくれた。


 その様子を見た青い瞳の女性は、男性の動きを確認したのち、おずおずと手を伸ばし、躊躇いがちに果実を受け取った。その指先の動きはどこかぎこちなく、それでもゆっくりと食料を手のひらに収める。その瞬間、この場の空気が微妙に変わるのを感じ取った。彼らの間にある見えない壁が、ほんの少し和らいだような気がした。


 無言で果実を口に運ぶ様子から、彼らが空腹だったことが分かった。それまで慎重に行動し、警戒しているように見えたが、飢えの本能が勝っているように感じたのだ。目を細めて観察するまでもなく、彼らがどれほど劣悪な環境に身を置いてきたのか、その仕草のひとつひとつから感じ取ることができた。


 アリエルは背嚢を開くと、残っていた携行食を取り出した。ここで惜しむ理由はない。彼らの警戒心を解くことができるのなら、それこそ優先すべきことだった。


 他の人々にも食料を差し出すと、彼らは戸惑いながらも次第に表情を緩ませ、手を伸ばし始める。荒れて硬くなった指先が食料をそっと掴み取る様は、あまりに慎重で、あまりに静かだった。そのまま会話は交わされず、ただ少しずつ場の空気が柔らかくなる。


 湿った砂が足元で微かに沈み込み、水辺の臭いが肺へと染み込むなか、アリエルは彼らと歩調を合わせていく。


 そこでアリエルは思い立って、そっと日記を取り出した。滑らかな革表紙を撫でるようにして開く。その中の一頁には、以前訪れた遺跡の写生が描かれていた。崩れかけた石柱、風に削り取られた壁画、その奥に見える巨大な石造りの門の痕跡。それは長い時を経てなお、かつての威厳の影を宿していた。


 青い目の女性に視線を移すと、彼女の目に好奇心が見て取れた。アリエルは静かに日記の頁を示しながら、〈転移門〉について何か知っていることがないか質問する。


 彼女は興味を持った様子で紙面を覗き込んだが、その視線は遺跡の絵には向かわず、紙の質感や革表紙にばかり留まっていた。指先でそっと紙を撫でると、その滑らかな質感に驚いたのか、わずかに表情が緩むのが見えた。彼女にとって珍しいものだったのだろう。


 アリエルはゆっくりと門や構造物を指差し、視線で問いかける。しかし彼女が見せる反応は、困惑したような微笑みだけだった。口を開くことなく、ゆっくりと首を横に振る。その仕草は、何かを否定するというよりも、ただ伝える言葉を持たないことへの戸惑いのようだった。


 褐色の肌をした男性にも同じように遺跡の絵を示した。彼はじっと紙面を見つめ、指先で門の輪郭をなぞるようにしながら、その細部を丁寧に追っていく。彼の眼差しには、記憶の奥底を探るような色が見て取れた。


 やがて彼は顔を上げ、静かに首を横に振る。その眼差しには、どこか申し訳なさのような気持ちが含まれていた。門の存在を知らないのか、それとも遺跡について語ることを禁じられているのか、その判断はつかなかったが、いずれにせよ〈転移門〉の手がかりは得られなかった。


 そうこうしていると、視線の先に集落の影が見え始めた。高くはないが、しっかりとした石垣が幾重にも連なり、あちこちから白煙が立ち昇っているのが見えた。水辺から漂う異質な臭いに混じって、人の営みの気配が漂う。上空を旋回していた鳥の群れを眺めていると――槍と斧を手にした粗野な集団が集落からやってくるのが見えた。


 彼らは薄汚れた毛皮をまとい、泥にまみれた脚で無造作に地を踏みしめていた。眼光は鋭く、敵意を剥き出しになっている。緩やかに足を広げ、じりじりと間合いを詰めながら武器を握る指に力がこもっている。それは、旅人を迎え入れる者の態度というより、敵と味方を見極めようとする者のそれだった。

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