09
崖沿いに散らばる大小不揃いの岩を慎重に避けながら、一歩一歩ゆっくりと進んでいく。断崖には重く冷たい風が絶え間なく吹き付けていて、身体が煽られるたびに、毛皮の裾が音を立てて揺れた。
その強風の中、足元の岩陰に根を張る低木や地衣類が目に留まる。厳しい環境に耐えながらも、ひっそりと命を繋いでいる。
干からびた葉は風に晒されながら岩肌にしがみつき、地衣類は一見すると乾燥しているようで、その繊細な織り目が微かな緑を宿していた。荒涼とした風景の中にも、生命の執念が確かに感じられる。
足元に注意を払いながら歩みを進めると、自然が削り出した岩の柱が連なる急な下り坂へとたどり着いた。無数の柱は風と砂に削られ続けた末に、侵食の痕跡がハッキリと刻み込まれていて、不規則に欠けた鋭い稜線をまとっていた。触れればたちまち皮膚が裂かれそうなほど粗い質感が、岩肌全体に広がっていた。
その中には奇妙な形をした奇岩も混ざり込んでいた。頭上で弧を描くように、弓なりに曲がっている岩は、まるで小妖精たちの彫刻を見ているようでもあった。その場には自然の力強さと冷徹な美しさが混在し、その下をくぐるたびに、言語化できない奇妙な感覚が胸のなかに広がる。
どうやらこの道は、確かに断崖の底へと続いているようだった。足元には微かに踏み固められた跡が残っているものの、最近ここを人が通った形跡は見受けられない。あちこちで地衣類が繁茂し、風がすべてを消し去ろうとしているかのようだった。
慎重に進んでいくと、岩肌に深く打ち込まれた太い杭が目に留まった。誰かが整備したものなのだろう。赤茶色の錆に覆われた鎖は強度を失っているようにも見えたが、断崖にへばりつくように伸びる細道を、辛うじて繋ぎ留めていた。
アリエルは錆びた鎖に手を添えながら、ひとり通れるかどうかの狭い道を慎重に進んだ。途中、足元の岩が崩れ落ちている箇所に差しかかる。そこには何本もの細い鉄の棒が岩肌に打ち込まれていた。鉄棒が即席の足場になっていたが、風が吹き荒れるなか、一歩でも踏み外せば命を落としかねないような危うさがあった。
それらの鉄の棒に体重を乗せながら進むアリエルの頭には、疑念が渦巻いていた。本当にこの道を利用する者がいるのだろうか。風にさらされたこの危険な場所は、それを疑うには充分すぎるほど過酷だった。それでも、背後から吹きつける風に追い立てられるように、覚悟を決めて進み続けるしかなかった。
岩肌にしがみつきながら慎重に歩みを進めていくと、崖の中腹に不自然な暗がりが目に留まった。それは、自然の力で形成された窪みをさらに削り広げたような、小さな洞窟だった。冷たい風が直接吹き込まないその場所は、過酷な道の途中に設けられた避難所のように感じられた。
アリエルは身体を滑り込ませ、岩壁に背を預けた。硬い岩の感触が背中越しに冷たさを伝えてくるが、静寂の中、風が遮られる安堵感が全身を包み込んでいく。緊張の連続で乱れていた精神を落ち着かせながら、ふと眼下の景色に視線を移した。
遥か遠くでは、青黒い水面が微かに光を反射していて、そのさらに向こうに小さな集落が見えていた。
広大な水域に心を奪われていたからなのか、あの時は気づかなかったものの、断崖を下り距離を縮めるにつれて、眼下に広がる集落の周囲に数えきれないほどの鳥が群れを成して飛んでいることに気がついた。
白い鳥が灰色の空を無秩序に飛び回り、その下では荒れ狂う波が絶え間なく岩に打ち付けては、砕け散る音が微かに聞こえてきていた。冷たく湿った風が容赦なく肌を刺し、打ち寄せる波は荒々しく、ただ近づくだけでも身の危険を感じさせるほどだった。
そのような過酷な環境にもかかわらず、集落の人々は漁を行っているのだろうか。疑問を抱いたが、集落の上空を舞う鳥たちは、魚を求めて集まってきているのかもしれない。
風の音に耳を澄ませながら、そっと瞼を閉じると、鳥に向かって意識を伸ばしていく。呪術の力を使い、鳥の目を借りることで遠くの景色を捉えようと試みた。
けれど距離がありすぎるうえに、灰色の空を無秩序に乱れ飛ぶ群れの混沌とした動きが、それを困難なものしていた。やはり、自ら集落に近づくほかない。確かな情報を得るには、それしか手段はなかった。
本来なら、どこかで身を清めて、泥にまみれた情けない格好を整えたかった。毛皮の裾には砂粒がこびりつき、足元は重く湿った土で薄汚れていた。しかし今回はむしろ、この薄汚れた姿の方が自分を守る盾になるかもしれない。
アリエルの脳裏には、あの集落で見かけた男たちの姿が浮かんでいた。粗末な毛皮に包まり、擦り切れた布をまとった彼らは、この過酷な環境の中に溶け込んでいた。整然とした旅装であれば、却って人々の視線を引き、不審の対象となりかねない。自らの身なりに目を落としながら、失敗を繰り返さないために慎重な判断を下す。
ただでさえ、紅い瞳と月白の髪は目立ちすぎる。隠しようもない特徴をさらに引き立たせるような汚れのない衣服をまとっていたら、どれほど周囲に溶け込むことを試みたとしても、それが無駄に終わることは明白だった。
集落に近づくときは、できるだけ現地の人々に馴染む姿でなければいけないだろう。慎重さを欠いた振る舞いは、失敗を繰り返すことに繋がる。
そのわずかな休息の間に水筒を取り出し、唇を湿らせる程度に水分を補給した。喉を通り過ぎるひんやりとした水の感覚が、疲れた身体をわずかに癒す。荒原を越え、断崖を降りる過程で消耗した体力を少しでも補うため、携行食も口に含む。
塩漬け肉と、乾燥した果物を少し。味気はないが、胃に何かを入れるだけでも頭は冴えて、身体はわずかに持ち直す。食事を終えると、アリエルは重い腰を上げ、再び慎重に崖を下り始めた。
断崖は、進むごとに険しさを増していった。自然が削り出した歪な岩肌を手で探りながら、足元を確かめ、崩れかけた細い道を進む。岩壁に打ち込まれた鎖の梯子が垂れ下がっている場所では、頼りない鎖に身体を預け、これまで以上に慎重に進まなければいけなかった。
腐食した鉄の鎖は沿岸から吹き込む風の所為で湿っていて、手のひらに冷たくざらついた感触を残した。それでも、徐々に底へと近づいているのは確かだった。風が大きく耳に迫り、湿った空気が肺に満ちていく。
あと少しで沿岸にたどり着けるという時、不意に動物の低いうなり声と、それに混じる人々の話し声が風に乗って聞こえてきた。
アリエルは警戒を強めつつ、岩陰に身を隠しながら眼下に視線を向ける。沿岸に広がる平坦な地に、水牛を思わせる動物たちが列をなし、静かに歩を進めているのが見えた。長いツノを持ち、黒く長い毛に全身を覆われた身体は、荒々しさと力強さを兼ね備えていた。その姿は、どこか〈ヤァカ〉に似ているものの、より荒々しい印象を与えた。
大きな背には毛皮の束や重厚な木箱がいくつも積まれ、歩くたびに左右に揺れ動いていた。その負荷に耐えるかのように、獣はゆったりとした足取りで着実に進んでいく。
それらの家畜を引き連れるのは、厚手の毛皮に身を包んだ人々だった。風に煽られた毛皮の端が乱れ、その下からは険しい表情と日に焼けた肌が見え隠れしている。彼らも粗雑な革紐でしっかりと縛られた大きな荷物を背負っていた。
家畜を世話しながら進む足取りは重く、それでも迷いのない動きが荒野で鍛え上げられた逞しさと、過酷な環境を生き抜く者の経験がにじみ出ているように見えた。集落に毛皮を売りに来た狩人たちだろうか――確信には至らないが、間違っていないように思えた。
アリエルは荷物の中から蝋引き紐を取り出すと、風になびく月白の髪を手際よくまとめ上げた。流れるような髪をひとつに束ねて背中へ垂らすと、その上から毛皮を羽織り、光を受けて輝く髪をしっかりと覆い隠した。さらに頭巾を深く被り、紅い瞳を少しでも目立たせないよう顔を陰らせた。これで、遠目には彼らと大差ない姿に見えるはずだった。
狩人たちが足音を響かせながら通り過ぎるのを待ってから、アリエルは慎重に沿岸に降り立った。湿った砂利を踏みしめる感触を確かめながら、静かに彼らの後を追うように歩いた。どう接触すればいいのか、まだ決めかねていた。
崖沿いに続く道は、最初こそ湿った砂利に覆われていたが、水辺に近づくにつれて徐々に粒が細かくなり、次第にきめ細やかな砂浜へと変わっていった。靴底にまとわりつく湿った砂が、歩みのたびに微かに音を立てる。
空は重たく曇り、遠くの水面では黒ずんだ波が乱れ、風が容赦なく砂を巻き上げる。鼻を突く臭いが濃くなり、風が肌にまとわりつく。
沿岸の様子を観察しながら歩いていると、前方から微かな声が聞こえてきた。耳をそばだてる間もなく、家畜を連れていた男性のひとりが腕を大きく振っているのが目に入った。距離があるうえに風が強く、彼の声はほとんど掻き消されてしまっていたが、必死に何かを伝えようとしているのは明らかだった。
アリエルは警戒を解かずに相手の様子を窺う。けれど男性の仕草や遠目に見える表情からは、敵意らしいものは感じられなかった。
やがて集団の他の者たちも立ち止まり、互いに顔を見合わせながら、口々に何かを訊ねてきた。風に乗って断片的に届く言葉は、アリエルには一切理解できないものだった。ある程度の距離まで近づくと、彼らの言葉が理解できないことを説明したが、もちろん、部族の間で使われる〈共通語〉は通じなかった。
彼らも顔をしかめ、不安そうに眉を寄せる。しかし諦めることなく、身振り手振りを交えて、どうにか意思を伝えようと試みる様子が見て取れた。
改めて集団をよく観察すると、その異様さが際立って感じられた。〈黒い人々〉を思わせる褐色の肌に黒髪の男性もいれば、透き通るような白い肌に金髪を持つ者、青い瞳をした女性も混ざっていた。統一感もなく、互いに深い信頼があるようにも見えない。彼らはひとつの目的――あるいは、仕事のために一時的に集められた集団なのかもしれない。
アリエルは無言のまま彼らの動きを注視し、慎重につぎの行動を考えていた。