07
石と苔に埋もれた廃墟の片隅で、アリエルは霧に紛れ、わずかな呼吸音すら抑えながら身を隠していた。〈隠密〉の呪術によって超自然的に発生した霧は、彼の姿を風景に溶け込ませ、視覚だけでなく気配までも欺いていた。
それでも追跡者たちは諦めることなく、冷えきった夜気の中を歩き回り、白く濁った吐息を荒原の闇に散らしていた。
彼らの執着は常軌を逸していた。人の命をつなぎとめる粗紙――異界の護符は、理を超えた力とともに、〝欲望〟という名の炎を燃え上がらせたのだろう。
アリエルは一歩も動かず、霧の中で彼らの足音が遠ざかるのをじっと待ち続けていた。疲労は全身に染み込み、鈍い重みとなっていた。この廃墟へと至るまで、彼は休むことなく歩き続けていた。生来の体力に加え、守人としての絶え間ない鍛錬が肉体を支えていたが、それでも疲労は確実に積み重なっていた。
一方、追跡者たちも見るからに消耗していた。それでも、彼らの目に諦めの色は見られない。それは獲物を逃すまいとする狩人の執念と、もっと原始的で、狂気に近い執着――奪うことでしか満たされない飢えが、彼らを突き動かしているように見えた。もともと獣のような臭いを撒き散らしていたこともあり、その姿には嫌悪感しか抱けなかった。
しばらくして、遠くの岩影から夜空を裂くように複数の狼の遠吠えが響き渡ると、状況は一変した。低く、冷たく、警戒を促すような遠吠え――それが〈神々の森〉で見慣れた狼と同じ種の獣なのかは判断できなかった。それでも、追跡者たちは次第に集落から距離を取るようになった。彼らもまた、狩人としての生存本能を失ってはいなかったのだろう。
アリエルも彼らの後を追い、崩れた廃墟の屋根へと軽やかに飛び移る。そして、目に呪力を集め〈生命探知〉を発動し、彼らの動向を探る。
集落を離れていく過程で何人かは振り返ったものの、暗闇の中で深紅に明滅する得体のしれない双眸を目にすると、背筋の凍るような恐怖に駆られ、逃げるようにして去っていった。そうして、二度と戻ることはなかった。
追跡者がいなくなったことを確認すると、アリエルは静かに呪力の供給を絶った。すると、霧がすっと退き、湿気を含んだ冷気が肌を刺すようになった。呪術そのものの維持は大きな負荷にはならなかったが、この世界では呪力の補充がままならないので、無駄に消耗するわけにはいかなかった。使うべき場面を慎重に選ばなければならない。
周囲の監視を続け、狼の群れが集落から遠ざかっていくのを確認すると、アリエルは荒原に吹きつける風を遮る静かな廃墟のそばに腰を下ろした。すでに夜は更け、地面から這い寄る冷気がじわじわと体温を奪っていく。身体を冷やしすぎないように毛皮に包まりながら、乾いた携行食を少しだけ口にした。
空腹ではあったが、どうにも食が進まなかった。思考の隅にこびりついた不安が、じわじわと精神を蝕んでいた。果たして、自分は〈神々の森〉へ帰れるのだろうか。あの地は今も、自分の居場所であり続けているのだろうか――あの苛烈な戦いのあとでは、もはや確信を持てなかった。
それでも、無理にでも食べて体力を維持しなければいけない。いつ、どのような形で戦いに巻き込まれるか分からない。守人にとって体力は命綱だ――それは訓練で幾度となく叩き込まれた、生き延びるための鉄則でもあった。
水筒の水は川で汲んでいたものだったが、すでに煮沸済みのため、安心して飲むことができた。冷たい液体が喉を通り、身体の内側から緊張をほぐしながら、同時に頭が冴えていく感覚がした。ふと星空を見上げると、名も知らない世界の星々が、規則も形も異なる配列で瞬いていた。違和感は拭えなかったが、その美しさだけは変わらなかった。
そして風の音が徐々に遠ざかり、世界が再び静けさを取り戻すと、アリエルは硬い地面に身を横たえ、そっと瞼を閉じた。明日もまた、独りで歩かなければならない。そのために、今は眠る。感情ではなく、生きるための必要性に従って――守人とは、そういう存在だった。
朝霧が地表を這うように漂う中、空はまだ完全に青へと染まりきらず、峰々がわずかに白み始めていた。肺を刺すような凍てつく冷気の中で目を覚ましたアリエルは、すぐに身を起こし、眠りの残滓を振り払うように冷たい水で顔をぬぐった。眠りは浅く、身体は重かったが、再び目を閉じることはなかった。
日が昇る前に移動を開始するのは、守人として厳しい環境で任務に臨んできた習慣でもあり、生存のための本能でもあったのかもしれない。
地図を広げ、昨日までの行程と今日の移動経路を確認する。黒く褪せた点線は消えかけの傷跡のように、微かな道を示していた。冷たい水で携行食を喉の奥へと流し込みながら、無言のまま準備を整える。温かさの欠片もない食事ではあったが、空腹はある程度満たされた。食が進まないのは、やはり身体ではなく、心の疲労のせいなのかもしれない。
移動を開始する前に、アリエルは再び周囲の気配を探ることにした。昨夜まで執拗に追ってきていた者たちの痕跡は、集落のあちこちに残されていたが、新たな足跡は見当たらない。霧や風に紛れ、生命の痕跡もすっかり消えていた。彼らがこの地から去ったと確信するには、充分なほど情報が揃っていたし、もはや疑う余地はなかった。
ようやく警戒を解くと、アリエルは廃墟に埋もれた集落に背を向け、つぎの目的地に向かって歩みを進めた。
吹き荒ぶ風の音に荒原は支配されていた。その冷たく乾いた空気の中に、命の気配はほとんど感じられない。空はようやく青みを帯び始め、陽の光が白く凍りついた地表に淡い陰影を落としている。遠く連なる峰々は雪と氷をまとい、天空へ鋭く突き立つように聳えていた。
どこまでも続く稜線は、風景に壮麗な静謐さをもたらすと同時に、自然の過酷さを余すところなく浮かび上がらせていた。昨日出会った鹿の群れの姿もなく、風に舞うのは乾いた砂だけだった。
集落で手に入れていた地図は、これまで確かな道標として機能していた。しかし、その印が示す構造物は次第にその姿を失っていた。たとえば、そこに記されていた石積みの塔――本来なら見晴らしの利く場所に立っているはずのそれは、もはや見つけることができなかった。
時間をかけて探索し、ようやく見つけ出したときには、その塔はすでに倒壊し、神像は瓦礫の下に半ば埋もれていた。風の浸食によって倒れたのかもしれない。あるいは、それを管理していた人々が集落からいなくなったことで、祠を守る者がいなくなったのかもしれない。
アリエルはその場にしゃがみ込むと、木像の一部が顔を覗かせていた場所を掘り返し、折れた腕や欠けた顔の輪郭をそっと取り出した。それから荒原の石を集め、簡素ながらも昨日目にしていた塔に似せて即席の祠を築くと、静かに手のひらを合わせ、瞼を閉じる。そして名も知らない神に祈りを捧げ、旅の安全を願った。
日が昇り、空が青さを増すにつれ、身体の節々に疲労が染み込んでいくのを感じた。それでも、歩みを止める理由にはならない。
頭上に広がる空は、どこまでも澄み渡っていた。しかし、その清廉な青の下には、凍てつく大地と風化した岩が連なるばかりで、生命の気配はほとんど感じられなかった。もし空を行く鳥がいれば、呪術によってその視界を借り、遥か遠くまで見渡せただろう。
高所から俯瞰できれば、目印となる構造物の位置も容易に把握できたはずだった。しかし、空はあまりにも静かだった。雲ひとつない青天に影を落とすものはなく、風に乗って舞う灰色の塵だけが、唯一の動きだった。
この荒原には、生命が根づく余地などないのだろう。乾いた大地は裂け、岩肌には苔や地衣類だけがしがみつくように繁茂し、風は飢えた獣のように吹き荒れていた。呪術の視界を通して探るにも、そこに生命がなければ意味はなかった。どこまでも空は高く、広大だったが、何の返答も寄越さなかった。
しかし環境に不満を抱いても意味はない。この場所は生き抜くことさえ困難な土地であり、誰にとっても安息の地にはなり得ない。アリエルは毛皮の頭巾を深く被り、正面から吹きつける冷気に顔を晒しながらも、ただ黙々と歩を進めていった。
地図に記された黒い点線の先に集落があるのなら、この地に眠る遺跡や〈転移門〉に関する手掛かりを得られるかもしれない。もし門が存在すれば、〈神々の森〉へ帰還する道が開かれる可能性がある。その一縷の望みが、寒風の中で彼の歩を止めさせなかった。
とはいえ、住人とは慎重な接触が求められる。あの小さな集落での出来事が、まだ脳裏を離れない。たった一度の失敗が、人々の猜疑を取り返しのつかない感情に変貌させることを知った。
言葉も通じず、文化も異なるこの地において、自分の存在は常に不安定なものであり、恐怖の対象となる可能性があった。その事実を、決して忘れてはならなかった。
いずれにしろ、今日は昨日ほど進めなかった。目印が失われたことで、その探索に多くの時間を費やさざるを得なかったからだ。それでも、日が傾く頃には想定していた行程のおよそ半分を踏破できていた。進んだ距離以上に、正確な方向を保てたという確信が、わずかに心を軽くする。荒原の風は冷たく、容赦なかったが、まだ心は折れていなかった。




