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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
411/501

05


 護符は淡い光を放ちながら灰に変わり、霧散するように跡形もなく消失していく。その瞬間、青年の胸が大きく上下し、それまで息を止めていたかのように深く息を吸い込んだ。閉じられた瞼の奥で微かに動く瞳が、彼の意識が戻りつつあることを示す。顔には徐々に血の気が戻り、死人のように青白かった頬には微かな赤みが差し始めた。


 この世界で生きる人々は、呪力に対する耐性が驚くほど低いようだ。粗紙で大量に作成された護符だったが、それでも充分な効果を発揮し、死の淵にあった青年を現世に引き戻すことができた。もしこれがより精緻なものだったならば、どれほどの奇跡をもたらしたのだろうか――そんな考えが頭をよぎる。


 目に見える変化は、あるいは些細なモノだったのかもしれない。けれど母親らしき女性はその変化に気づくと、言葉にならない嗚咽を漏らしながら息子の手を握り、その胸元に額を押しつけた。泣き崩れたその姿に偽りはなかった。彼女はただ、息子の命が救われたことに安堵し、そのことに誰よりも感謝していた。


 しかし、部屋の空気は別の意味で張り詰めていた。アリエルのそばに立つ老婆の目は、灰に変わった護符の残滓を探し求めるように鋭く動いていた。その瞳には、喜びも感謝もなく、もっと深く暗い感情が渦巻いているように見えた。それは疑念なのか、それとも別の感情なのか。


 護符の紙束に視線が移った瞬間、老婆の表情が微かに揺らぐ。その変化はほんの僅かだったが、それでも確かに、彼女の内側にある何かが変化したことを示していた。


 目の奥に宿ったのは、執着の色――飢えた者が久方ぶりに糧を見つけた瞬間のような、ぎらついて血走った瞳だった。その眼差しは鋭く、貪るように護符の紙束を見つめていた。彼女が護符の効果を理解しているのかは分からない。けれど、その現象を奇跡として捉えるには充分な効果があったのだろう。


 まるで長い間待ち続けた答えがようやく目の前にあらわれたかのように、彼女の視線は護符の紙束に釘付けになっていた。


 たった一枚の護符がもたらした生と死の境界を覆す作用は、この地に生きる人々にとって、祈りよりも意味のあるモノだったのかもしれない。


 呪素の存在しない世界では、奇跡のような呪術は、神話や物語の中でしか語られていなかった現象なのかもしれない。けれど得体のしれない異人がそれを行使し、死の淵から若者の命を救い出した。


 その事実は、乾いた大地に根を張るようにして形作られてきた彼女の信念を――この過酷な地で抱き続けていた〝信仰〟そのものを揺るがすほどの衝撃だったのかもしれない。それが奇跡なのか、それとも異端の兆しなのか――答えを出すにはあまりにも唐突で、あまりにも鮮烈な光景だった。


 ただひとつ確かなことは、護符の効果を目の当たりにした瞬間、彼女の中で何かが静かに崩れ始めたということだった。そして、その感情は周囲の人々にも伝染していく。


 背後から微かな物音が聞こえて振り返ると、家屋の入り口に数人の男性が立っているのが目に入った。先ほど、粗末な武器を手にしていた連中の一部だ。彼らは目を細めるようにして、仕切りの奥にいるアリエルのことをじっと見つめていた。その視線には、何か不穏な気配が含まれていた。視線が合った瞬間、彼らは無言のまま外へと姿を消した。


 その奇妙な行動には、護符に対する〝驚き〟というよりも、何か探るような感情が込められているように感じられた。視線や仕草のなかに、恐れの影がちらつき、疑念が静かに渦巻き、その奥底には抑えきれない〝欲望〟が潜んでいるように思えた。


 アリエルは、そこでようやく己の過ちに気づく。死を待つだけだった青年が、息を吹き返してしまうほどの効果を持つ護符だ。


 この辺境で暮らす者たちにとって、死は日常の一部であり、避けられない現実でもある。それを覆す力が存在するとしたら、それは喉から手が出るほど欲しいものに違いない。彼らは護符を求めるだろう。しかし、それは礼を尽くして請い願うようなものではない。


 欲望に駆られた者たちが増え、やがて無理矢理でも奪おうとする者があらわれるだろう。その欲望は、静かに広がる波紋のように周囲を巻き込み、やがて争いの火種になるかもしれない。


 以前、戦狼(いくさおおかみ)のラライアと一緒に異世界を旅した際の――ある種の成功体験が、アリエルの警戒心を鈍らせたのかもしれない。旅先で出会う人々が、必ずしも善意を持っているとは限らない。そのことを失念していた。


 老婆の視線は、依然として紙束に釘付けだったが、母親らしき女性は涙を拭いながら同じ言葉を繰り返す。感謝と恐れ、そして欲望。そのすべてが混在する空間の中で、アリエルは静かに息を吐いた。ここに長くとどまるべきではない。早急に、けれど事を荒立てないように、この集落を離れなければいけない。


 薄暗い室内に、微かに揺れる炉の炎が影を投げていた。ふと祭壇の奥に視線を向けると、石壁に沿って置かれた作業机の存在に気がつく。


 毛皮や獣骨の残骸が床に散乱し、粗雑な鉄製の工具がその間に無造作に転がっていた。その隙間に、古びた羊皮紙が何枚か重ねられているのが目に入る。長い間放置されていたのか、薄く埃を被り、端は丸まっていた。指先でそっとめくると、かすれた線と印が描かれているのが目に留まる。荒々しい筆致に不規則な形状の線――どうやら地図らしい。


 老婆の反応を(うかが)うように、アリエルは地図を手に取った。地図に記載された情報の多くは――たとえば敵対する相手に知られると、軍事作戦を有利に進めるための情報になり、自軍に不利な状況を作り出す可能性がある。


 そのため、重要な地域の地図は機密扱いとされ、漏洩を防ぐための対策が講じられていたが……そもそも、この辺境に戦略的価値はないのかもしれない。実際のところ、老婆が気にしている様子はなかった。


 古びた羊皮紙は手触りがざらつき、端は擦り切れていて欠けていた。目を凝らし、読み取れる範囲で線を追ってみたが、その意味を確信するには情報が足りない。道を示しているのかも分からないが――どこかにたどり着くための手がかりには違いない。


 この辺りの地図なのかを確かめようとしたが、当然、言葉は通じなかった。けれど青年の母親は何かを誤解したのだろう。よろよろとした足取りで近づくと、作業机の下に身をかがめ、別の地図を取り出した。それは先ほどのものよりも色鮮やかで、保存状態も良く、端の擦れもほとんどない。


 それを差し出してくる様子は、まるで治療の代価として提供しようとしているかのようだった。何かを要求したつもりはなかったが、言葉が通じない以上、誤解を解く術もない。


 あまりにも都合がよすぎる展開に、一瞬、欺かれているのではないかという疑念が頭をよぎった。けれど彼女の表情を見た瞬間、その考えは霧散する。無理に作られた笑顔――それは、恩人に警戒させまいとする彼女の必死の努力の証だった。


 感謝してから、受け取った地図を広げる。羊皮紙の表面は滑らかで、保存状態の良さが際立っている。視線を走らせると、中央の荒れ地に赤く滲んだ丸い印が確認できた。


 それが現在地を示しているのかは判断できないが、地図の北西には不規則な稜線を持つ山脈が描かれている。その形状からすると、この集落周辺の地形と一致するように思えたが……確証はなかった。


 北東に向かって黒い点線が引かれ、その終点には別の印が記されている。そこにも集落があるのかもしれない。それより先は、まるで世界が終わっているかのように空白だった。記述の省略か、それとも人の手が届かない領域なのか。いずれにせよ、つぎの目的地としては充分な情報だった。


 意思疎通に余計な時間を取られることなく、進むべき道を示す地図を手に入れた。それなら、もうここに長居する必要はないだろう。


 その場を離れ、外へ出ようとした瞬間――屋内に満ちていた静寂を破るように、背後から老婆のかすれた声が届く。その声には懇願の響きがあった。言葉の意味こそ分からないものの、その切実さだけは痛いほど伝わってくる。彼女はアリエルに残るよう願っていたのかもしれなかった。それでも彼は躊躇せずに、扉を開けて外へと歩を進める。


 風が吹き荒ぶ冷たい空気の中、集落の広場には人々が集まっていた。先ほどの男性たちに加え、新たな集団の姿も確認できる。弓を背負い、槍を手にした彼らの姿は、まさに狩人そのものだった。その中には――数は少ないものの、若者たちの姿も確認できる。どうやら、別の集団が狩りに出ていたようだ。


 鹿だろうか、小柄な動物を肩に担ぐ男性がふたり。泥と血で汚れた衣服には獣の毛が絡みついている。その血まみれの姿は異様で目を引いたが、それ以上に印象的だったのは彼らの鋭い目つきだった。


 集団の中央に立つ男性が、じっとアリエルを睨みつけている。その視線には、隠しようのない敵意が宿っていた。他の者たちも同じような目つきをしている。まるで縄張りに侵入した獲物を威嚇する獣の群れのようだ。


 空気が凍りつくような緊張の中、アリエルは立ち止まり、静かに地図を胸元へとしまい込んだ。久しぶりに感じる背筋を走る冷たい感覚は、単なる気候のせいではなかった。やはり、この場に長くとどまるのは危険だ。善意で行ったはずの行動が、結果として集落の平穏を乱してしまったのだと、ようやく理解する。


 病に伏していた青年の回復は、奇跡として受け入れられるのではなく、むしろ混乱を呼び起こしてしまった。彼らの目には、敵意と疑念、そして何よりも――欲望が宿っていた。


 護符を手に入れるためならば、彼らは手段を選ばないかもしれない。緊張の糸が切れてしまえば、静寂はたちまち暴力へと変わるだろう。アリエルはゆっくりと息を吐き、慎重に歩を進める。この集落から離れなければいけない。それも、できるだけ速やかに。


 アリエルの瞳が深紅に明滅するのを目にした瞬間、男たちは動きを止めた。得体の知れないものを目の当たりにした恐怖が、冷たい刃となって彼らの背筋を撫でていく。息を詰める者もいれば、無意識のうちに半歩後退る者もいた。そして次の瞬間、まるで道を開けるかのように、彼らは静かに身を引いた。


 背後からは、老婆の声が聞こえていた。そのかすれた言葉は懇願か、それとも警告か――どちらにせよ、アリエルには届かない。彼は静かに息を整え、一歩ずつ前へ進む。ゆっくりと、しかし確実に。


 その場に渦巻く殺気を孕んだ視線を一身に受けながらも、決して目を逸らさない。嵐の中心を突き抜けるように、冷静な足取りで集落の外へ向かう。

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