04
老婆はアリエルの真正面に立つと、見上げるようにして、静かに彼の姿を観察していく。長い年月をともに過ごしてきた厚手の毛皮は色褪せていて、その隙間から覗く継ぎ接ぎだらけの粗末な衣には、生活の苦労がにじんでいた。それでも、背筋を伸ばしたその立ち姿からは、奇妙な威厳が漂っていた。
男性たちの反応を見るに、それなりの立場にある人物なのだろう。日焼けして浅黒くなった皮膚は、深く刻まれた皺によって乾いた樹皮のように見え、白髪は不器用に束ねられ、首の後ろで重たげに揺れていた。鼻筋が高く、ぎゅっと閉じられた唇は乾燥し、ひび割れていた。
それから老婆は祈るように小声で何かを口にしたあと、ゆっくりと両手を差し出す。彼女の手のひらには、木製の鞘に納められた短刀がのせられていた。鞘には赤と青の染料が塗られていて、この荒れ地のどこにも存在しない鮮やかさを帯びていた。
老婆は何も語らなかった。ただ短刀を持ったまま動かず、険しい表情でアリエルの反応を待っているようだった。
アリエルは、ほんのわずか眉をひそめる。相手の意図が理解できなかった。他者に武器を預けるという行為が、この土地ではどういう意味を持つのか。そもそも、これは贈与なのだろうか、それとも警告か。言葉が通じない以上、安易な解釈は危険だった。彼は慎重に、平静を装いながら応じる。
「必要ない。武器は、いらない。それは、自分に、必要のないものだ」
意味もなく言葉を区切りながら話したが、相手に通じていないことも理解していた。
しばらくの間、彼女の白く濁った片目と、澄んだもう片方の目を見つめる。その視線に敵意はなく、ただ何かを見定めようとする意志があるように感じられた。
「やれやれ……」
何もせずに立っていても仕方がない。アリエルは短刀を受け取ることにした。
〈神々の森〉にも似たような風習があることを思い出していた。来訪者に武器を模した棒を持たせることで、敵意のないことを示す部族が存在するという話を、書物を通じて知っていた。あるいは、この老婆の行動もそれに近い意味を持っているのかもしれない、彼はそう考えることにした。
やがてアリエルは、ゆっくりと頭を下げ、両手を差し出して短刀を受け取った。その瞬間、老婆がわずかに口元を緩め、凍えた空気の中に白い息を吐き出すのが見えた。声にならない安心の吐息、それが彼女の返答だったのかもしれない。
それから老婆は踵を返し、ゆっくりと杖を突きながら歩き出した。ところどころに敷かれた石畳を踏むその足取りは、年齢を感じさせるほど重かったが、迷いはまったく見られなかった。
数歩進んだところで彼女は立ち止まり、肩越しに振り返る。何も言葉を発さなかったが、その仕草からは、ついてきてほしいという明確な意図が伝わってくる。
そこでアリエルは、粗末な武器を構えたまま立ち尽くしている男たちに視線を向けた。彼らはまだ警戒している様子だったが、攻撃の意思は感じられなかった。やはり老婆は、この集落でそれなりの立場の人間なのだろう。
彼女に睨まれると、髭面の男たちはしぶしぶ武器を下ろした。それを確認すると、アリエルは短刀を腰に挿し、老婆のあとに従った。
彼女が家屋に入っていくと、アリエルも屈めるようにして、獣皮が垂れ下がる入り口をくぐった。外壁の重厚な印象とは裏腹に、家屋の内部は驚くほど静かで、湿り気のある土の匂いと、煙に燻されたような異臭が充満していた。視界が慣れてくると、薄暗い室内の構造が少しずつ見えてきた。
一間続きの広い空間になっていて、支柱や屋根の部分に木材が使われていることが分かる。釘などを使わず、木材を巧妙に組み合わせたもので、天井を支えるだけのしっかりとした強度があることが分かる。
木材の多くは、遠く離れた場所から調達してきたのだろう。この荒原ではほとんど見かけないものだった。太さもまばらな歪んだ木材だったが、丁寧に縄で結び付けられ、しっかりと固定されているため、崩れる気配はなかった。
それに厚い壁で遮られていることもあり、荒原に吹き荒ぶ風が室内に入り込んでくることはなく、薄暗さと引き換えに穏やかな静寂が広がっていた。
足元は土間で固められ、その中央には焚き火用の炉が設置されているのが見えた。平たい石を円形に並べた炉だ。煤で黒くなった石が幾重にも重なり、その中心で炎が揺れている。家畜の姿は見ていないが、おそらく草食動物の糞を乾燥させたものを燃料として使っているのだろう。煙が少ないので、この家屋に適しているのかもしれない。
炉の周囲には毛皮が敷かれ、使い込まれた生活の痕跡が確認できる。壁際には、束ねられた毛皮の山がいくつも積まれていた。獣の種類も大きさもさまざまで、それぞれに粗い縫い目や干された痕がある。
先ほどから感じていた異臭は、それら大量の毛皮が放つ獣の体臭や脂の臭いだった。しかし彼らにとって、それは日常そのものなのだろう。狩猟を生業として、皮を扱う人々の暮らしが、この空間に凝縮されているかのようだ。
暗がりに獣皮と板で粗く仕切られた空間があり、その開口部に老婆が立っているのが見えた。彼女は言葉の代わりに、手招きするような仕草でアリエルを招いた。光源らしきものは見当たらなかったが、天井の明り取りから差し込む外光が、静かにその空間を照らしていた。
アリエルは周囲を確認し、武器を手にしていた男たちが追ってこないことを確認した上で、その仕切りの奥へと歩みを進めた。
仕切りの奥は、先ほどまでの粗野な空間とは明らかに異なる雰囲気を帯びていた。暗がりのなかに浮かび上がる場所には、色彩豊かな装飾品と布片で飾られた祭壇のようなものが据えられていた。
赤、青、黄――この荒原には不釣り合いなほど鮮やかな染料で塗られた小さな彫像や羽根、獣骨、乾いた花弁が並べられ、中央には黒ずんだ木板が立てかけられ、見慣れない模様が刻まれていた。その装飾のすべてが、それがただの装飾品というより、土地に根差した信仰を象徴しているように思えた。
その祭壇のすぐそばに、盛り土を平らに固めただけの粗末な寝台があった。そこには毛皮が何枚も敷かれていた。寝台に横たわっているのは、この集落で初めて見る若者だった。体格はしっかりしていたが、血の気を失った顔は異様に青白く、目は閉じられ、口元では乾いた唇が微かに震えていた。額には汗が浮かび、呼吸は浅く、不規則だった。
彼のそばにはひとりの女性がいた。肩をすぼめ、両手で若者の手を握り締めたまま、祈るように動かない。ごつごつとした硬い手が、生の痕跡を探すように青年の指を撫でていた。母親なのだろう。くすんだ布地の衣をまとい、編み込まれた髪は灰色に近く、過酷な環境に晒された肌は荒れ放題でひび割れていた。
アリエルの気配に気づくと、彼女はゆっくりと顔を上げた。つぎの瞬間、その表情が恐怖に歪み、凍りついたように止まり、喉の奥から声が漏れた。叫ぶというよりかは、息が漏れるような音だった。
彼女は立ち上がろうとして姿勢を崩し、寝台に倒れかけながら老婆に向かって激しく何かを訴え始めた。言葉は理解できなかったが、怒りと悲しみが綯い交ぜになった叫びだと、痛いほどに伝わってくる。
驚きや憎しみではなく、死を連想するような怯えがそこにはあった。それでも老婆は微動だにせず、沈黙を保ったままアリエルのとなりに立っていた。
その光景に困惑してしまうが、自身に向けられる恐れを含んだ視線は、不思議と気にならなかった。月白の髪は自然の色には見えず、深紅の瞳もまた、不吉な前兆を思わせる異様さを帯びていた。白磁のような肌はこの寒冷な地には似つかわしくなく、目の前の人々にとって、彼の存在そのものが異形に映っているのは明白だった。
アリエルは〝異界の来訪者〟としての自分の姿を眺めながら、吐息を洩らすように微笑んだ。その感情は憐憫でも優越でもなく、自嘲に近いものだった。
なるほど、彼らがアリエルのことを死神か悪霊の類だと錯覚するのも無理はない。亜人のことを見慣れていない部族の人間も、彼の姿に驚き、嫌悪感を抱くほどだったので、異世界の人間が彼の外見に恐れを抱くのは普通のことだったのかもしれない。
アリエルは視線を落とし、腰の帯に挟んでいた短刀を静かに抜き取った。赤と青の染料が褪せかけた木製の鞘が、炉の灯りを鈍く反射していた。彼の動きは緩慢で威圧的なものではなかったが、つぎの瞬間、寝台の脇にいた女性が絶叫に似た声をあげた。
膝をついたまま身体を揺らし、泣き喚くようにして老婆に向かって何かを訴えかける。その声は悲鳴と祈りが混ざったように掠れていて、もはや理性の通じるものではなかった。
その反応に、彼は確信を得る。老婆は、アリエルのことを若者の死を告げる〝超常的な存在〟として受け止めていたのかもしれない。異形の来訪者が若者の最期を看取る。彼らの信仰や伝承の中でも得体のしれない異人は〝死〟を象徴するものと結びついていたのだろう。
しかしアリエルにとって、青年の命はさほど重要ではなかった。これまで幾度となく、理不尽に失われる命を見てきたし、それを背負うつもりもなかった。
けれども自分が何者かを問われたとき、ただの不吉な存在として見なされるのは不本意だった。だからアリエルは、手にした短剣をそっと老婆の手に返した。老婆は一瞬、目を細めて彼の顔を見つめたが、何も言わず、それを受け取った。困惑と戸惑いが混じるその表情を他所に、青年の寝台に近づく。
心臓は弱々しく鼓動し、呼吸は浅く乱れている。致命的な毒や呪術の痕跡もなく、単なる風邪や感染症といった類のものだろう。けれど、この乾燥しきった環境と栄養に乏しい生活では、些細な病が命取りになる。
アリエルは毛皮の内側から、革紐で結んだ紙の束を取り出した。数枚の〈治療の護符〉が丁寧に折り重ねられている。どれも質の悪いモノだったが、それでも一定の効果は期待できるはずだった。彼はそのうちの一枚を選び、指先で護符の符面をなぞる。淡い光が指先に滲み、札が脈動するように震えた。
それを青年の胸元、心臓の上に置く。すると護符は青白い炎に包まれながら灰に変わっていく。息を呑むような沈黙が空間を支配し、誰も声を発しなかった。
それはアリエルにとって、〝恩を売る〟という行為に過ぎなかったが、この行為が、彼らにどう受け止められるのかを考えもしなかった。神の業と崇められるか、呪いの儀式と恐れられるか、どちらもあり得る。いずれにしろ、もう後戻りはできなかった。