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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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02


 つめたい風が吹いていたが、寒さは思ったほど気にならなかった。厚手の毛皮に加え、内側には戦闘装束を重ね着していた。体温が逃げないよう工夫された衣は、この長い旅路の中で幾度もアリエルを救ってきた。


 鴉羽色の羽根が特徴的な籠手と脛当は、今もなお健在だった。異界の魔物〈災いの獣〉の素材を用いて鍛えられた装備は、〈ザザの毛皮〉のように、獣の姿を取った際にも失われることがなかった。あの形態との親和性が高く、身体の一部として取り込まれていたのかもしれない。黒い光沢を帯びた装備は、その役割を確実に果たしてくれていた。


 夜空を仰ぎながら、ひとつ白い息を吐き出す。冴え冴えと輝く星々が広がり、かつて見た空と似ているようにも感じた。しかし、やはりそこに浮かぶ月はひとつだけだった。そして夜の彼方には、鋭い峰々の輪郭だけが黒々と浮かび上がっている。


 山に近づいているという実感はなかった。むしろ、延々と同じ景色の中を歩いている気さえしていた。けれど、気がつけば精気に満ちた植物の香りは消えていた。緑で覆われていた大地も姿を消し、代わりに冷たく乾いた風が肌を切るように吹きつける。草原は終わりを迎え、今や荒涼とした大地が広がる荒原の只中にいる。


 寒冷な気候の影響なのか、この地では低木さえも根付くことができないのかもしれない。足元に広がるのは冷たく乾いた地表と、苔に似た地衣類、そして見慣れない草本植物。それらが、かろうじて生命の存在を示す唯一の痕跡だった。これまでに経験したことのない未知の生態系に戸惑いを覚えたが、いずれ慣れるだろう。


 この数日間、草原に生息する羽虫や昆虫に悩まされてきたけれど、荒原に入ると状況が変わった。目や鼻だけでなく、布で口元を覆わなければ息をするのも困難なほど飛び交っていた羽虫は姿を消し、その結果〈虫除けの護符〉を節約できるようになった。これは思わぬ利点だった。この世界では護符の補充が難しいため、その多くが貴重品となっていた。


 そして、地平線の向こう――暗闇の中に、ぼんやりと周囲を照らす淡い灯りが見えた。微かに揺れる人工的な光源が、荒野にぽつりと浮かんでいる。この世界にも人々の営みがあることに安堵していた。この地はあくまで異界であり、人間が存在しない世界であっても、何ら不思議ではなかったからだ。


 体内の呪素(じゅそ)を目に集中させ、〈暗視〉を使いながら集落の様子を探る。アリエルは種族特性で夜の闇にも適応していたが、〈暗視〉を使うことで、より精細な輪郭が闇の中に浮かび上がる。石造りの建物がいくつか並び、周囲に石垣のような構造が確認できる。


 外敵の侵入を警戒している様子が(うかが)えたが、壁はそれほど大掛かりなものではなかった。あるいは、荒原を吹き抜ける冷たく乾燥した風から農作物を守るためのものなのかもしれない。


 アリエルは暗闇のなか、眸を明滅させながら集落を見つめる。この世界では大気中から呪素を取り込むことができないため、呪術の使用には慎重さが求められた。しかし、〈暗視〉程度の呪術であれば、呪素の消費をほとんど気にする必要がなかった。


 集落の周囲も注意深く調べていくが、人や獣の姿は確認できず、接近してくる者の気配も感じられない。荒原はあまりに静かだった。ここでは生物の気配すら希薄だ。


 敵意を感じさせるような気配や存在は確認できなかったが、それでも不用意に近づくのは避けたほうがいいだろう。どんな世界であれ、夜の訪問者は警戒されるものだ。アリエルは〈暗視〉を解くと、白い息を吐き、つめたい風が避けられる窪地を探して移動した。


 しばらくして風を遮る岩陰を見つけると、身を屈めて静かに腰を下ろした。それから毛皮の〈収納空間〉から数枚の毛布を取り出す。粗く編まれた厚手の毛布は、その見た目に反して驚くほどの保温性を備えている。その毛布に(くる)まりながら、同じく〈収納空間〉から携行食を取り出す。


 干し肉は硬く、噛むたびに塩気と獣の臭いが口いっぱいに広がる。乾燥果実はわずかな甘みを含み、その香りが口内に柔らかく残り続ける。


 携行食の多くは、かつて籠城戦を想定して〈世話人〉たちが用意してくれた備蓄品だった。結局、(いくさ)は想定通りには進まなかった。あのとき突如として出現した〈混沌の化け物〉の大群によって、戦局は崩れ、備えられた物資も役割を果たすことはなかった。そして今、その物資がこの異界の地で命を繋いでくれている。


 幼い頃から身近にいたからなのか、あまり〈世話人〉たちのことは気にかけたことがなかった。けれど今になって、守人たちに尽力してくれた〈世話人〉たちの温かな思いが、自分を支え続けてくれていることに気がついて深い感謝の念が湧き上がる。


 ちなみに、焚き火は用意しなかった。冷気が肌を刺すほど厳しい夜ではあったが、見晴らしの良い荒原では、焚き火の灯りが遠くからでも目立ちすぎてしまう。無駄に集落の人々を警戒させるのは避けるべきだった。炎の温もりに頼るよりも、静寂と闇に溶け込むことを優先すべきだと彼は判断した。


 その代わり、アリエルは周囲を見渡しながら適当な小石を拾い集めた。それぞれの石に極少量の呪力を――割れない程度に慎重に流し込むと、じわじわと赤みを帯び始め、その内側に熱が蓄えられていく。石がしっかりと熱を持ったことを確認すると、それらを毛布の下に敷き詰めた。


 熱した石は冷たい地面と毛布の間に暖かい層を作り出し、寒さをしのぐための即席の暖房として機能してくれた。しかし石の硬さは容赦なく、アリエルは背中や尻が痛むのを感じながらも、それでも寒さに震えるよりいいと我慢することにした。


 毛布を深く被り、膝を抱えるようにして身体を折り曲げて呼吸を整える。空気は乾ききっていて、鼻腔を抜けるたびに肺の奥まで冷えていくようだった。それでも、心は幾分穏やかだった。少なくとも、〈獣の森〉で監視任務を行っていた時のように、化け物の気配に怯え、いつ襲撃されるか分からないような極限状態ではなかった。


 アリエルはそのことを思い出すと、静けさに包まれた今が、どれほど恵まれているのかを実感した。肌寒さと居心地の悪さは否定できないが、心を乱される恐怖がないだけ、この静かな夜は穏やかに感じられた。


 ゆっくり瞼を閉じる。視界の奥で、星々の(きら)めきがゆっくりと遠ざかっていく。いつしか眠りに落ち、そして朝を迎えることになった。毛布は露に濡れ、熱した石の温もりもすでに失われていたが、身体は凍えていなかった。今はそれで充分だった。


 身体を起こすと、まず近くの川へと向かった。昨夜、野営地から見つけていた流れだ。岩と岩のあいだを縫うように、澄んだ水が静かに音を立てていた。氷を砕いたような冷水に手を浸すと、手がじくじくと痛んだ。


 水はひどく冷たいが、集落に入るさいには、できるだけいい印象を与えたかった。汚れた浮浪者のような姿では、得られるはずの情報も得られなくなるだろう。


 冷水に顔を浸け、首筋、手首、足へと水をかけていく。額から滴る水が頬を伝い、喉元まで流れ落ちると、鳥肌が立つような寒さに震える。適当な布を使って、汗と汚れを落とした。寒さに震える身体を素早く拭って乾かすと、長い髪をひとつに束ね、背中へと流した。髪の色も目立ってしまうかもしれないので、集落に入る際には頭巾が必要だろう。


 それから、清潔な衣類を〈収納空間〉から取り出す。黒い布地は厚く滑らかで、袖を通すと身体に柔らかく馴染んでいく。寒冷地ということもあり、それほど汗をかいていなかったし、臭いもさほど気にならなかった。けれど体臭は自分の鼻では判断がつかない。だから人前に出るときには念を入れておくべきだろう。外見は無言の交渉材料になる。


 いつも身につけていた〈ザザの毛皮〉には、泥や血液といった汚れを寄せつけない神々の言葉も刻印されていたので、汚れは気にならなかった。


〈収納空間〉の中身も確認することにした。携行食の残量や水薬の本数、護符の種類や枚数。それと必要になるものと不要なものを分類し、すぐ取り出せる場所へと整理していく。


 それらの物資の大半は、敵の本陣に侵入した際に適当に回収した戦利品だった。そのため、〈収納空間〉の中身を完全には把握していないという状況だった。


 どんな傷も癒してしまう貴重な〈霊薬〉も数本残っていた。しかしその数には限りがあるため、使用する際には慎重に検討しなければならないだろう。


 帯革を手に取ると、それを肩から脇腹に斜めに通して、たすき掛けのようにしっかりと身体に固定する。帯には投擲用の棒手裏剣を差し込めるよう、いくつかの細い溝が設けられていたので、手裏剣の準備をしていく。黒く艶のない金属なので、それほど目立たないだろう。


 腰の革帯には、戦闘中でもすぐに手にできる位置に小さな水薬の瓶を差した。いずれも微量の呪素を補充できるものであり、呪術の使用が制限されるこの世界では貴重なモノだ。いずれ水薬を補充する方法を考えなければいけないが、それも難しいのかもしれない。


 武器の選択には少しだけ迷いがあった。太刀を装備することも考えたが、傭兵や野盗と誤解されるよりも、できるだけ警戒されない旅人のような装いが好ましいと思った。アリエルは背中に手を回すと、腰に短刀を差すことにした。その上から毛皮のマントを自然に垂らし、武器の存在を巧みに隠した。


 最後に手斧を取り出す。これも敵の陣地で手に入れたモノだが、刃は鋭く研がれ、柄には滑り止めの革がしっかりと巻かれている。それを腰に差し、再び毛皮の裾で隠す。警戒させないことを優先した装備だった。


 使い慣れた鋸歯状の刃を備えた剣は、砦での戦いの中で失われていたが、数本の刀と戦斧、それに槍と弓があったので、武器に困ることはないだろう。


 いよいよ準備が整うと、アリエルは背筋を伸ばし、深呼吸をひとつしてから荒原に足を踏み出した。

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