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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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01〈異世界〉


 あの日から――すべてを失った日から、砦の夢を見るようになった。その夢の中で、アリエルは森の守護者のひとりとして存在していた。彼の周囲には数えきれないほどの塔が(そび)え、それらが荘厳な雰囲気を醸し出していて、彼自身もその砦の一部として含まれているように感じられた。


 つめたい石壁の感触、足元の石畳の硬さ、毛皮越しに伝わる風の流れ。そのすべてと――ある種の一体感が感じられた。そこでは仲間たちの存在も感じられた。彼らの言葉や笑い声、戦意に満ちた視線、剣戟の響きが、まるで現実のように存在していた。


 けれど、ふと気がつくと、アリエルは廃墟になった砦に独り佇んでいる。崩れた石壁、焼け焦げた梁、雨に濡れた階段。そこで彼は独りだった。戦友の――兄弟の名前を呼ぶけれど、応える声はない。


 つめたい風が吹き抜ける広場と、そこに長い影を落とす尖塔。暗闇に聳える無数の塔を見上げながら、次々と扉を開いていくけれど、そこには誰もいない。無人の空間ばかりが存在している。


 それでも探し続けているうちに、自分が誰を探していたのかも忘れてしまう。そうして気がつくと、暗い地下通路にたどり着く。


 不思議なことに、夢の先でたどり着く場所は決まっている。砦の地下、細長い通路だ。壁掛けの燭台が設置されているけど、その光源は弱々しくて、通路の奥に進むほど闇が濃くなる。足元が不確かになり、呼吸が浅くなる。


 その暗がりの中、誰かのすすり泣く声が聞こえる。理由は分からない。それでも彼には分かる――その涙は自分のためのものだと。泣いているのが誰なのか見当もつかないけれど、鼓動や身体の震え、温かな体温、そして息遣いまでもが鮮明に感じ取れる。まるでそこに存在しているかのように。


 そういう夢だ。


 目が覚めると、まず自分がどこにいるのか確認する。考えるだけではなく、実際に上半身を起こして周囲を見回す。寝床は冷えた土の上で、夜露が黒衣に染み込み、つめたい空気が肺を満たす。それから自分自身に問いかける。


「ここはどこなんだ?」と。

 でも、それは意味のない質問だった。


 答えがないことは、はじめから分かっていた。それに、その世界がどこであれ、そこで生きていかなければいけないのだから。


 とにかく、それはこれまでにない孤独な旅だった。


 森を抜けるのに二日を要した。道なき道を進む間、敵対する生物の影はなく、野生の獣すらも彼を避けているように感じられた。森に吹く風は静かで、木々は穏やかにざわめき、どこからか鳥たちの鳴き声が響いてくる。森は生命の息吹に満ち溢れ、あらゆるものが共鳴し合うように感じられた。しかし、その中でアリエルは独りきりだった。


 大気中に呪素(じゅそ)がまったく含まれない異質な世界だと分かっていた。しかし、以前の世界との違いはそれだけではなかった。


 この世界には〈神々の森〉で見られるような凶暴な肉食獣や、恐るべき〈混沌の生物〉の気配すらない。空気は澄み渡り、耳を澄ませば風が木々を揺らす穏やかな音が聞こえてくる。それは、どこまでも平穏に満ちた世界だった。


 それ以外の点では、驚くほど以前の世界に似通っていた。青く広がる空、緑豊かな大地、そして太陽の暖かな光が同じように降り注いでいる。けれど夜になると、その違いがより明確なものになる。星々の輝きは、見慣れた配置からかけ離れていて、いくつかの星座は完全に失われ、代わりに未知の星が新たな模様を描いていた。


 そして驚くべきことに、この世界の空には、ただひとつの月が浮かんでいるだけだった。〈神々の森〉では、季節が巡るたびにその姿を変える複数の月が夜空を彩っていた。赤く燃え上がるような月、獣人に好まれる青白く輝く月、そして森を金色に染める月――それぞれに神々の名が授けられ、その神聖な力を誇るかのように夜空を支配していた。


 けれどこの世界では、夜空を見上げても見慣れた多彩な月は見られない。代わりに、ただひとつの孤高の月が、つめたくも鮮やかな銀光を放ちながら、大地を静かに照らしている。その光は柔らかくもあり、どこか神秘的な孤独感を漂わせていた。それはアリエルの心に静かな感嘆とともに、この世界の違和感を深く刻み込むようだった。


 森を抜けると、以前の世界との違いは揺るぎないものとなった。目の前に広がるのは広大な草原だ。どこまでいっても広大な原生林に埋もれていた〈神々の森〉とは大きな違いだ。世界の広大さに思わず足を止め、胸が高鳴るのを感じる。穏やかな起伏を描く大地は鮮やかな草に覆われ、まるで緑の絨毯のようにどこまでも続いている。


 風が優しく吹き抜けて草原を撫でるたびに、草がざわざわと揺れ、波が広がるようにうねる。その自然の調和を見ているだけで心を穏やかにしてくれる。遥か遠くには、霞のようにぼんやりとした山影が見え、いかに草原が広大なのか分かる。その景色には、時間が止まったような感覚さえ抱くほどの静けさと雄大さがあった。


 まるで夢に見た世界だ。深い原生林が広がり、古の大樹が聳える〈神々の森〉にいたときには、こんな光景が見られる日が来るとは夢にも思わなかった。この世界では視界を遮るものが一切なく、空は果てしなく広がり、その広大さに心を打たれる。


 アリエルは森の縁に立ったまま、しばらく動けずにいた。月白(げっぱく)の長髪は風に遊ばれ、深紅の瞳は気持ちの昂りに呼応するように明滅していた。果てしない地平線が広がり、風が柔らかく頬を撫でる。この瞬間、アリエルの胸に強く響くものがあった。それは驚きとも、不安とも言える感情が入り混じった確かな実感だった。


〈神々の森〉から遠く離れ、未知の世界に立っている。その事実が、彼の心に重く迫ってくる。それでも彼は目を逸らすことなく、眼前に広がる世界の美しさと異質さに心を奪われ続けていた。


 アリエルには確かに目的地があった。しかし、その道筋も行く当ても存在しなかった。この広大で謎めいた異世界を目の前にして、どこへ向かえば正しいのか、それすら分からない。だから、気の赴くままに歩いた。


 大地は穏やかに波打ち、足元には柔らかな草が広がり、歩くたびにその感触が心地よさを伝えてくれる。風が吹けば、草原全体が生き物のように揺れ動き、緑の波が限りなく広がっていく。その広がりは視界の果てまで続き、自然の息吹を感じさせる。そして遠くには、白い雪を冠のように抱く峰々が聳え、その雄大さに思わず息を呑む。


〈神々の森〉でも山は珍しくなかった。しかし、それらの山は樹海にすっぽりと覆われ、頂を拝むことはほとんどできなかった。けれどこの世界の山々は異なる。鋭く聳え、むき出しの岩肌を晒し、天を突くような荒々しい姿を堂々と誇示している。まるで世界の境界を示し、自然の力を見せつけるかのような存在は、見る者の心に畏敬の念を刻み込む。


 気づけば、アリエルは山に向かって歩いていた。白い峰々に惹かれ、ひたすら歩き続けた。けれど、どれだけ歩いてもその山との距離は一向に縮まる気配がない。朝から歩き続け、夕刻になっても、その雄大な光景は変わらなかった。山は近くにあるようで、実際には手の届かないほどの隔たりがあるのだろう。


 その旅の途中、石柱が無数に並ぶ遺跡を目にした。かつてそこに街があったことは明らかだった。〈転移門〉が設置されていないかと考え、遺跡の中へ足を踏み入れる。


 崩れ落ちた門はかつての威厳を失い、苔むした石畳と風化した石柱が静かに時の流れを語りかけている。遺跡はその役目を終え、大地に還りつつあった。緑の蔦が絡みつき、隙間から覗く色鮮やかな花々が、静かな死を迎えた場所に生命の痕跡を添える。


 柱に刻まれた文字を指でなぞるも、その意味はとうに忘れられていた。この場所に人がいた記憶はかすかに残っていたが、今は誰ひとりとして存在しない。倒れた柱の影が夕陽に伸び、風が吹き抜けると、どこか遠くで鳥の声が響いた。


 結局、〈転移門〉は見つけられなかった。アリエルは立ち止まり、目の前で失われつつある遺跡を見つめた。その風景は彼の胸に深い喪失感と孤独を刻んだ。しかし、そこに留まり続けることはできない。深いため息をついたあと、彼は再び歩き出した。


〈収納空間〉のおかげで、食糧と水にはまだ余裕があった。けれど、それにも限界がある。いずれ川を見つけなければならない。それに、川沿いをたどれば、人々が生活する集落に行き着くかもしれない。


 歩き続けた。陽が昇り、沈み、そしてまた昇る。終わりの見えない道のりを進み、三日が過ぎたころ、草原は次第にその姿を変え、冷たい風が吹き抜ける荒原に変わっていく。そこでようやく川の流れを見つけた。


 静かに揺れる水面は陽光を浴びて(きら)めき、青白い輝きが辺りを照らしている。アリエルは澄んだ水に手を浸し、その冷たさが皮膚に染み渡るのを感じた。その水で喉を潤し、顔を洗い、凍える空気の中でほっと安堵の息をつく。そして、ゆっくりと空を見上げた。


 そして六日目の夜。川沿いを歩き続けたアリエルは、ついに集落の姿を目にした。遠くに見える灯りが微かに揺れ、建物の影が闇の中で浮かび上がっている。どうやら、この異世界にも人々の生活の営みがあるようだ。

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