103〈希望〉
アリエルは戦地を離れ、腐った瘴気と破壊が渦巻く世界から隔絶された地に落とされたが、すでに瀕死の状態だった。戦闘による傷は深く、身体中から腐敗した体液が漏れ出し、細胞の崩壊と再生を繰り返す異常な状態に陥っていた。瘴気を取り込みながら生き長らえる能力をもっていたが、それは同時に彼の肉体を蝕む毒にもなりつつあった。
治療が繰り返されるたびに、肉体は損傷し、腐敗した肉が剥がれ落ち、そして再生されるという地獄のような苦痛の中にいた。
しかし混沌の魔物が生み出した得体の知れない〝鏡面〟を通じて転移した世界には、呪力に変換できるだけの瘴気が存在しなかった。大気中に漂う呪素もなく、あらゆる呪術が消え去ったかのような静寂に包まれていた。もはや再生の術は絶たれ、ついにこのまま朽ち果てる運命かと思われた。
けれど、その身に流れる血脈は――混沌を屠る血族としての能力は、彼自身の中に残された瘴気を徐々に浄化し始めた。腐敗しきった毒素を血液から分離し、純粋な呪素だけを取り出し、それをわずかに残された生命力へと変換していく。その力は、かつて戦場で浴びた幾千もの血の記憶よりも、強く、穏やかに彼の身体を作り変えていった。
やがて、人とも獣ともつかない異形の肉体は、崩壊の果てに再構築され、欠損した四肢はゆっくりと再生されていった。羽とも鱗とも判別のつかないものに覆われていた体表の下で――焼け爛れ、炭化した皮膚の下で新たな肌が形成され、かつての醜悪な戦闘の痕跡を完全に消し去っていく。
緑に溢れる静かな森の中、樹木にもたれかかるように倒れ伏していたアリエルの身体は、やがて苔のような植物に覆われていった。再生の過程で発生した独特の呪力が、周囲の生命と混ざり合い異界の植物を生み出したのかもしれない。
数日が経過するうちに、彼の身体は砂に埋もれ、苔むしていきながら環境と一体化していった。呼吸も脈動もほとんど感じられず、まるで大地に吸収されていくかのようだった。けれど、その静寂の中で確かに生命は息づいていた。
呪素が存在しない世界だったからこそ、余計な瘴気を取り込むことなく、彼の身体は毒素だけを排出するかのように穏やかに癒されていった。腐敗した瘴気に満ちていた戦場では決して実現しえなかった治癒が、そこではゆっくりと確実に進行していた。
その過程で、アリエルの意識は闇と光の狭間を揺らめきながら、現実とも夢ともつかない深淵へと沈み込んでいた。肉体は静かに再生を続けていたが、その精神は数多の記憶と幻影に囚われたままだった。
朽ち果てた砦、血に染まった大地、咆哮する混沌の魔物、そして死と絶望にまみれた戦場。そのすべてが彼の脳裏に焼きつき、過去の記憶と絡み合いながら、幾度となく繰り返された。
仲間たちの声が聞こえる。戦場で交わした言葉、互いを助け合った記憶、そして最後に話した言葉。それらが、まるで夢の中で繰り返し再生される映像のように流れていく。けれどその記憶の中では、アリエル自身は漆黒の獣へと姿を変えていた。巨大な四肢と翼を持ち、深紅の瞳を輝かせ、混沌の魔物たちと牙を交えていた。
記憶にはない光景のはずだったが、その戦いの感触、爪で肉を引き裂く感覚、牙に伝わる血の熱さまでもが、あまりに鮮明で、夢にしては生々しすぎた。まるで、自らがその姿へと変わり果て、異形の存在として戦っていたかのように。
そして、ヤシマ総帥の姿を見た。混沌の闇に飲まれるその瞬間、総帥が最後のその時まで兄弟たちや仲間を守ろうとしていたことを知った。胸の奥にあった喪失感の正体が、その時ようやく理解できた。曖昧だった意識のなかで抱いてきた苦しみの理由が、今やハッキリとした輪郭を持つようになっていた。
あのとき、アリエルは父親のように慕っていた大切な人を失ったのだ。けれど、それを認めることはできなかった。総帥の最期の瞬間を見ていない以上、彼が死んだと断じることはできなかった。
それなら、まだ希望はある。どれほど残酷な現実だとしても、自らの目でヤシマ総帥や仲間たちの最期を見たわけではないのだ。だからこそ、彼は諦めるわけにはいかなかった。このまま朽ち果てることも、絶望に沈むことも許されない。たとえ、ふたたび獣として戦い続けることになろうとも。
そしてついにその日が訪れる。ある日、森に微かな風が吹いた。すると長い沈黙を破るように、アリエルの顔を覆っていた苔が一片、剥がれ落ちる。冷たく新鮮な空気が、その鼻孔を通り、肺へと流れ込んでいく。呪力に頼ることなく、自力で呼吸できるようになっていた。
わずかに指先が震え、深い眠りから目覚めるかのように動き始めた。苔に覆われ、まるで岩のように沈黙していた肉体の奥底で、新たな意識がゆっくりと芽吹こうとしていた。
瞼を開くと、淡い陽光が木々の隙間から射し込み、大気中に漂う細かな花粉が金色に輝いているのが見えた。風が吹き抜け、葉擦れの音とともに、遠くで鳥の鳴く声が響いている。そうして静寂に包まれた森の奥深く、苔むした岩のように横たわっていた影が動きだした。
アリエルはゆっくりと周囲を見回す。視界に映るのは緑に溢れた世界だ。生い茂る植物、林立する樹木、そして陽光に照らされた木漏れ日の光景が広がっている。
それらはあまりにも穏やかで、最後に目にした戦場の光景とかけ離れていた。彼は自らの存在を確かめるように、わずかに指を動かした。忘れられていた感覚が蘇るように、腕の神経が徐々に目覚めていく。
身体を覆っていた苔のような植物が、その動きとともに瘡蓋のように剥がれ落ちるのが見えた。それは黒ずみ、乾燥しながら徐々に崩れていく。体内に残っていた毒素を取り込んでいたからなのだろう。地面に落ちた異界の植物は、灰のように音もなく崩れ去った。
それからアリエルは自分自身の身体を見下ろした。かつて炎に焼かれ、切り刻まれ、腐敗と再生を繰り返した獣のような姿は失われ、かつての人の姿を取り戻していた。けれど、それが本当に〝元の姿〟なのかは分からなかった。内臓を含め、すべて新しく作り替えられていたからだ。
身体の治癒にどれほどの時間を費やしたのか、見当もつかない。数週間か、あるいは一か月以上が経過していたのかもしれない。失われた頭部すら数秒で再生していた頃と比べれば、今回は驚くほどの長い時間が必要だった。それでも、死の淵から戻ってこられたことを思えば、その回復力はまさに常識を逸していた。
アリエルはゆっくりと身体を起こした。体力の低下も筋肉の衰えも感じられず、一晩ぐっすり眠った時のように自然に身体を動かすことができた。
安堵しながら視線を巡らせる。木々はしっかりと根を張り、緑は濃く、どこまでも生命に満ち溢れていた。鼻をくすぐる草葉の香り、鳥の囀り、草陰で微かに動く小動物の気配。それらは穏やかで、静寂を満たすには充分だった。
しかし、それと同時に奇妙な違和感を覚える。この森には呪力の痕跡が一切ない。それどころか、呪素の気配すら微塵も感じられない。呪素に満ちた世界で生きてきた者にとって、この世界はただ美しいだけでなく、得体の知れない不安を抱かせる場所だった。
ゆっくりと上半身を起こしたあと、手のひらに視線を向ける。獣のような肉体は、人間らしい形を取り戻していた。けれど、それは完全ではない。右腕の皮膚には鱗のような硬質な組織が浮かび上がり、鋭い爪には獣だった時の名残が残っている。アリエルは拳を握りしめ、その感触を確かめた。
そこで衣服を身につけていないことに気がついた。前回も同じ経験をしていたが、昆虫種族の遺物でもある毛皮は失われていなかった。〝青の黄昏〟の異名を持つ友が遺した黒毛皮のマント。それはしっかりと彼の身体を包み込んでいた。獣の姿に変化した際も、神々の言葉が刻まれた毛皮は失われることなく、肉体の一部と同化していたのだろう。
同様に、〈ダレンゴズの面頬〉も失われることはなかった。あまりにも自然に体内に取り込まれていたので、思考するだけで着脱可能になっていたことすら気づかなかったほどだ。〈転移門〉を開くカギとして機能する腕輪も残っていた。ただし、以前とは異なる形状に変化していた。
四肢を失ったとき、腕輪も完全に消失したように思われた。けれど、手首には植物の根が絡みつくような、複雑なねじれ模様の刺青が刻まれていた。それはかつて、腕輪があった場所と同じ位置にあらわれていた。
アリエルはゆっくりと息を整え、慎重に立ち上がった。足元の苔むした地面がわずかに沈み込み、裸足の感触が直に伝わる。湿った土の冷たさ、苔の柔らかさ、根のざらついた感触――そのすべてが研ぎ澄まされた感覚の中に流れ込んでくる。
安堵の息をつき、それから腕輪の能力を受け継いだ刺青に意識を向ける。体内に残る微かな呪力の流れを感じ取り、〈収納空間〉から衣類を取り出した。いつも予備を持ち歩いていたおかげで、裸のまま森を歩かずに済んだ。黒衣を身に着け、馴染んだ布の感触を確かめる。袖を通し、腰帯を締めると、ようやく人間らしさを取り戻していくのを実感した。
ついでに、呪素をたっぷり含んだ数本の〈霊薬〉を取り出して、いつでも飲めるように準備しておいた。それは、砦を襲撃してきた部隊の本陣で手に入れたものだったが、こんな形で役立つとは思いもしなかった。
身支度を整えたあと、背後を振り返る。そこには、崩れ果てた〈転移門〉があった。いや、正確にはその残骸だ。倒壊した門に絡むように生えた樹木。その根元に、彼は寄り掛かっていたのだろう。石造りの門は完全に崩壊していて、呪力の痕跡すら感じられない。すでに機能を失っていることは明白だった。けど、それでも――希望は残されている。
〈転移門〉の遺跡が存在するということは、この世界のどこかに、まだ倒壊していない門があるはずだ。もとの世界に帰る手段が完全に失われたわけではない。この世界がどこであれ、森に繋がる〈転移門〉を見つけることができるだろう。
アリエルは一歩を踏み出して、森の奥に視線を向けた。まずは、自分がどこにいるのかを確かめよう。そして――仲間が待つ世界へ帰るため、この世界で何をすべきか考えよう。
やさしい風が吹き抜けて、森の静寂を揺らした。しかし、アリエルは振り返ることなく、ただ前を見据えながら歩き出した。
いつもお読みいただきありがとうございます。
これにて〈秩序の崩壊〉までを描く「神々を継ぐもの」の第一部は完結です。
気がつけば第一部だけで400話を超える大作になってしまいました……
楽しんでいただけましたか?
【いいね】や【感想】がいただけたらとても嬉しいです。
今後の執筆の参考と励みになります。
そしてアリエルの物語は、まだまだ続きます!
これからも応援よろしくお願いします!