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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 後編
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 激化していく戦いを背に、砦から避難した一行は険しい道を進み、ようやく街道にたどり着くことができた。


 戦地から遠く離れているせいなのか、森は異様な静けさに支配されていた。葉擦れの音すら聞こえず、虫や鳥の鳴き声もしない。ただ霧に包まれた木々が朧げに影を伸ばすだけで、森の生気はすっかり失われたように感じられた。


 道中、無残に壊滅した敵部隊と遭遇した。正規兵で編成された精鋭部隊だったのだろう。揃いの鎧や武器を手にしていたが、今では泥の中に散乱する肉片と化していた。四肢は不自然に千切れ、内臓はあたり一面に飛び散り、泥と血、そして腐臭が入り混じっている。それらの死体の多くはすでに野生動物に食い荒らされていた。


 しかし奇妙なことに、今では野生動物の気配すら感じられなかった。まるで、この森全体が死の支配下に置かれているかのようだ。そこには〈混沌の先兵〉の死骸も散見された。腐敗液を撒き散らす異形の肉塊があちこちに積み重なり、地表を覆い尽くしている。その近くには、黒々とした蠅の死骸が層を成して堆積していた。


 あの奇妙な蠅がもたらす死は、戦場となった砦にとどまらず、森の広大な領域を蝕んでいたようだ。


 守人たちに管理されてきた〈獣の森〉は、すでにその本来の姿を失い、人を寄せ付けない広大な汚染地帯と化していた。木々は腐敗し、幹の表面には(ただ)れたような亀裂が走り、黒ずんだ樹液が滲み出している。瘴気に覆われた大気は、粘りつくように肌にまとわりつき、一行の肺を蝕むかのようだった。


 咳き込む者もいたが、口を覆ったところで効果はなかった。この森には、もはや新たな生命の芽吹きなど望むべくもなく、ただ静かに、そしてゆっくりと死へ向かい沈みゆくのみだった。


 そこでは時間の感覚すら失われていた。森は瘴気を孕んだ霧に沈み、昼夜の区別もつかないほど薄暗かった。足元を見れば、そこには肉と骨と腸が絡まり合った腐臭漂う泥濘が広がっていた。まるで大地そのものが血肉へと変貌し、ゆっくりと瘴気を吐き出しながら呼吸しているかのようだった。


 やがて一行は目的地の遺跡に到着した。すぐに〈転移門〉の状態を確認し、問題なく使用できることが分かった。しかし安堵する間もなく、その瞬間が訪れた。


 はるか遠く、砦の方角から突如として膨大な呪力の奔流が放たれた。瘴気を含む熱波が木々を激しく揺らし、一瞬の静寂のあと、大地を震わせる轟音が響き渡る。崩れかれていた遺跡の一部が崩壊する衝撃のなか、一行が目にしたのは、天を焦がすかのような巨大な火柱だった。


 それはただの炎ではなかった。白色に縁取られた黒い炎だ。その奇妙な光景は、見る者の魂すら凍らせるような、底知れぬ恐怖を孕んでいた。肌を焦がすような熱波が押し寄せてきていたが、まるで寒気を伴うかのように、誰もが身体を震わせていた。それは文字通り、天と地を鳴動させる衝撃だった。


〈黒炎〉はすべてを呑み込み、世界を黒く焼き尽くすかのようだった。しかしそれが消えたあと、森には何の音も残らなかった。吹き荒れる風すらなく、森は深い静寂に沈み込んでいった。今や死者でさえ恐れを抱き、息を潜めているかのように、ただ無音が広がるばかりだった。


 首長が治める城郭都市に〝砦陥落〟の正式な報せが届いたのは、それから二か月後のことだった。


 侵攻部隊との連絡が途絶えた直後に派遣された兵士たちは、〈獣の森〉で異変に直面することになる。その地は腐敗した瘴気に満ち、汚染された〈混沌の領域〉へと変貌していた。無謀にも進軍を試みた部隊は、大量発生した混沌の化け物の襲撃を受け、次々と消息を絶っていった。


 中央から派遣された若き兵士たちの多くは、混沌の化け物を物語の中の虚構の怪物だと信じ込み、その存在を疑っていた。しかしその甘い考えは、森の暗闇から現れた異形の群れによって無残に打ち砕かれることになる。


 彼らの眼前で繰り広げられたのは、理性を持たない異形による虐殺だった。黒い泥のような体躯を持つ巨体が兵を飲み込み、触手じみた四肢が瞬時に首を()ね、捕えられた者は生きたまま喰われ、引き裂かれた。絶望に駆られた若者たちは剣を抜くこともできず、声を上げることすら許されぬまま、沈黙の闇に呑まれていった。


 こうして、幾度も派遣された部隊が失踪するようになると、いつしか〈獣の森〉は〈還らずの森〉と呼ばれるようになった。この事態を受け、首長の側近たちの間では、侵攻作戦そのものの指針を巡って激しい議論が交わされるようになった。


 守人から〈境界の砦〉を奪取し、支配領域を拡張するために極秘裏に進められていた計画は、いまや狂気の領域を抱える事態へと変貌していた。


 もしも、このまま〈混沌の領域〉がさらに拡がれば、それは城郭都市にまで及ぶのではないか。その不安は、次第に焦燥へと変わっていった。


 参謀の多くは後悔に苛まれた。もし早期に適切な助言を行っていれば、砦陥落という最悪の事態を防ぐことができたのではないかと。老齢の族長たちは、かつてこの地を守護していた守人たちの砦が失われてしまったことを嘆きながらも、汚染地帯を監視する部隊を新たに派遣することを決定した。


 この措置によって首長の軍は大幅な再編を余儀なくされ、西部方面軍を指揮する〝ダシール・アル・エリスン〟の軍が緊急招集された。しかし、この決定はさらなる混乱を招くことになった。


 ダシールの軍は、もともと西部を支配する大家からなる勢力〈月隠(つきごもり)〉との抗争に従事していた。その精強な軍の引き抜きは、西部前線の崩壊を引き起こす結果となった。防衛線に築かれた砦の多くが敵勢力の手に落ち、内外の情勢は悪化の一途をたどっていくことになる。


 そして数多の犠牲を経て、捜索隊はかつて〈境界の砦〉があった場所にたどり着いた。そこで彼らが目にしたのは、もはや人が生きることのできない、広大な汚染地帯と荒涼とした大地だった。


 砦の残骸は完全に混沌の生物の巣窟と化していた。腐臭が漂う壁の内側には、闇の中で蠢く無数の影が跋扈(ばっこ)し、その不気味な気配が砦全体に充満していた。かつては守人が集い、混沌の勢力から森を守護していた神聖な地であったこの砦は、今では異形の魔物が群がる〈恐怖の領域〉と成り果ててしまった。


〈境界の砦〉が陥落したという正式な報告が首長のもとに届いたのは、それから間もなくのことだった。その報告を受けたとき、首長の表情は険しく曇り、側近たちは重苦しい空気の中で議論を交わしたという。誰も予想していなかった結果だったとはいえ、自らの決断がこの悲劇を招いたのではないかと、心の片隅で後悔していたのかもしれない。


 この報せは、単なる侵攻部隊の喪失を超える重大な意味を持っていた。〈境界の砦〉には、古代より遺された貴重な遺物が眠っているとされ、さらにその地下深くには、神代に築かれた黄金都市が存在すると信じられていた。こうした伝説を背景に、黄金都市の遺物を奪取する目的で侵攻を進言した者たちがいたことは、すでに公然の事実として広まっていた。


 今となっては彼らの思惑について知る術はないが、その進言がもたらしたものは、期待されていた富や力ではなかった。それは果てしなく広がる恐怖と混沌、そして絶望の連鎖だった。


 砦の陥落が正式に確認された数日後、進言を行った複数の幹部が責任を問われ、処刑された。その処刑は徹底を極め、連座という形で家族や親族にまで刑が及んだ。彼らの死が何を意味するのか、それが事態を収束へ導くのか、それすら誰にも分からなかった。


 ただひとつ確かなことは、〈境界の砦〉を失った今、人々はもはやかつての戦争とは異なる未知の災厄との戦いに突入したということだった。


 こうして、後年〈秩序の崩壊〉と呼ばれることになる紛争は終焉を迎え、世界は新たな局面へと突入することになった。


 かつての秩序は失われ、各地で新たな勢力争いが勃発した。森の守護者を失ったことで、〈還らずの森〉では混沌の化け物は増殖を続け、その勢いは留まることを知らなかった。東部の族長たちはその対処に追われ、次第に力を失っていった。皮肉なことに、森の守護者を失って初めて、彼らはその重要性に気づくことになった。


 東部の弱体化に乗じ、南部の蛮族が侵攻を開始し、かつて沼地に追いやられていた亜人の勢力は徐々に拡大していった。さらに、領土拡大を図る西部の大家〈望月家〉は混乱の隙を突いて勢力を拡大し、その繁栄を極めていった。戦乱の均衡は崩れ、各地の族長たちは自らの生存を賭け、血にまみれた新たな秩序を築こうとしていた。


 一方、砦を脱出した守人たちは、遺跡の〈転移門〉を用いて南部の拠点へと避難していた。そこで彼らは異種族でもある〈青の魚人〉に迎えられ、荒廃した戦場から遠く離れた地で、ようやく平穏を手に入れることができた。


 しかし、その平穏は本当の安息とは程遠いモノだった。彼らは失った砦と兄弟たちのことを忘れることができず、心の奥底に深い喪失感を抱えながら、新たな生を受け入れるしかなかった。


 心の支えであった英雄、ヤシマ総帥の行方は依然として知れず、あの激戦で仲間を守るために自らを犠牲にしたアリエルもまた、消息不明のまま時が流れていった。


 けれど希望は完全に失われたわけではなかった。組織は壊滅し、仲間は散り散りになったが、それでも命を繋ぎ止めた者たちがいた。


 あの戦いで倒れた仲間たちの魂が、今も生者を鼓舞していた。守人を束ねるルズィは、それを誰よりも強く感じていた。森の守護者としての役目は終わり、彼らが築いてきた秩序も灰と化した。


 それでもルズィが組織の再興を願うのは、栄光や功名のためではなかった。仲間たちに生きる意味を与えるためだった。失われた者たちのために、何か慰めになるようなものを残さなければならないと考えたからだ。


 しかし、彼の胸中には恐れが渦巻いていた。長い年月の間、〈境界の守人〉は他の勢力に従属し、都合のいい駒として扱われてきた。与えられた役割を演じ、任務を遂行しながら、互いに支え合うことで組織を維持してきた。物資を受け取る代わりに汚れ仕事を引き受け、その代償として命をつなぎ、組織は存続を許されてきたのだ。


 けれど、それも過去の話だ。すべてを失った今、向き合うべき現実から目を背けることは許されなかった。あの戦いで、誰もが決して癒えることのない深い傷を負った。足元から這い寄る瘴気のように、悪意が静かに忍び寄り、やがてそれは心を蝕んでいった。兄弟たちの間には、疑念と不信が生まれつつあった。


 もはやその状況をこれ以上放置するわけにはいかない。

「我々は、誰よりも強き力を手にしなければいけない。そしてその力を(もっ)て、あらゆる悪意と正面から対峙し、果敢に立ち向かわねばならない」


 ルズィは静かにそう決意した。手遅れかもしれない。それでもあえて仲間に告げる。戦い続けるのだと。命がある限り、彼らを破滅へと追い込んだ勢力と戦い続けるのだと。


 誰かが倒れれば、その志を引き継ぐ者があらわれるだろう。だから、今はただ前に進み続けるだけだ。灰に沈んだ世界の中で、もう一度、立ち上がるために。

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― 新着の感想 ―
餅食べる機会があったから稲作はしてそう。だから東部の人口は結構いるんでなかろうか 東西南北どこが一番人口いるんでしょうか?北はシンプルに寒そう南は多少開拓されていて、奥の方そんなに干拓されてないで微妙…
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