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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 後編
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101〈啓示〉


 ヤシマ総帥は野生の本能をむき出しにしながら、不定形の黒煙をまとう〈無形の災厄〉に向かって駆け出した。失われたばかりの腕の断面からは、青白い燐光を放つ半透明の腕が形成されていた。それは実体を持たない幻のように揺らめきながらも、周囲の空間を歪めるほどの膨大な呪力を秘めていた。


 その身に帯びた青い呪力の残像を引きながら戦場を駆けていた総帥だったが、突如として動きを止めた。


 その視線の先には、ゆっくりと浮遊しながら移動する異形の魔物――〈死を嘲笑うもの〉の姿があった。その魔物は戦場を離れ、炎と煙が立ち昇る森へと向かおうとしていた。砦を放棄した守人たちの後を追うつもりなのかもしれない。総帥は呪力で形作られた腕を魔物に向け、まるで目に見えない何かを握り潰すように手のひらを閉じた。


 すると、虚空から突如として巨人めいた〈鬼神〉の腕が出現した。それは戦場を覆うように影を落とし、つぎの瞬間には〈死を嘲笑うもの〉の異形の身体を鷲掴みにしていた。悲鳴ともつかぬ耳障りな振動が大地を震わせるなか、〈鬼神〉の腕は力の限り魔物の身体を圧し潰していった。


 けれど、それだけでは終わらない。膨大な呪力によって形作られていた半透明の腕が輝きを強めると、それに呼応するように〈鬼神〉の腕から青白い炎が噴き出した。それは徐々に腕そのものを焼き尽くす黒き業火へと変貌していく。異形の魔物は飛膜を広げ、黒い(もや)を身にまといながら炎を遮ろうと試みるが、その試みは無駄だった。


 この〈黒炎(こくえん)〉は単なる火ではない。それは、対象が完全に燃え尽きるまで消えることのない冥界の炎であり、この世界の(ことわり)を超越した存在だった。通常の炎の何倍もの熱量を持ち、あらゆる物質を焼き尽くす超自然的な炎でもあった。


 魔物の身体は焼け(ただ)れながら溶解し、肉体表面の組織が崩れ落ちるように地面に滴り落ちていく。しかし、その(おぞ)ましい腐敗液すらも炎に包まれ、蒸発し、跡形もなく消えていった。


〈黒炎〉から逃れる術はない。〈死を嘲笑うもの〉は即座にそれを悟った。まだ炎に触れていない内臓の一部を自ら切り離すと、それを勢いよく吐き出した。腐敗した肉塊は地面を転がり、周辺一帯の瘴気を取り込みながら異形の魔物を形成しようとして(うごめ)く。


 ヤシマ総帥はその動きを許さず、幻影のごとき大太刀を振るい、今まさに生まれ落ちようとする邪悪の核を斬り裂こうとする。しかし次の瞬間、戦場の中心から燃え盛る影が猛然と迫りくるのが見えた。


 赤々と燃え上がる巨躯――〈ベリュウス〉が突進する。瞬く間に距離を詰め、総帥の目の前に迫る。反応が一瞬遅れた。直後、灼熱の拳が総帥の胸部を直撃し、爆発にも似た衝撃が襲った。視界が揺らぎ、身体が宙を舞う。


〈金剛〉を発動し手足が固定されていたからなのか、車輪のように回転しながら瓦礫を砕き、荒廃した大地に何度も身体を叩きつけられる。地面に激突した瞬間、周囲の瓦礫は砕け散り、放射状に陥没した地面からは粉塵が立ち昇っていく。


 総帥の身体を包み込む呪力と半透明の腕が一瞬揺らめき、呪素の波が乱れるのが見えた。しかし彼はすぐに立ち上がった。もはや痛みを感じることはなかったが、内臓を損傷していたのか、粘度の高い血液を吐き出した。それでも、膨大な呪力を帯びたツノは赤熱しながら蒸気を立てていた


 炎をまとう魔物が咆哮を上げるなか、ヤシマ総帥の視線は、瓦礫の中から這い出ようとする黒い影を捉えていた。


 それは、人とも獣ともつかない異形の生物だった。限界に達した身体は瘴気を取り込みながら再生しては、崩壊を繰り返していた。それでも、再生しかけた腕を伸ばし、泥と血に塗れながら必死に這っていた。それは、死期を悟った獣が本能に従い、安息の地を求めて暗い森を彷徨(さまよ)う姿を思い起こさせた。


 その哀れな生き物のなかに、どこか幼さを感じさせるものがあった。その瞬間、総帥は一瞬だけ理性を取り戻すことができた。


 すべてを焼き尽くさんとする破壊の衝動が霧散し、意識の底からひとつの記憶が浮かび上がる。森の奥深く、古の〈転移門〉が連なる遺跡の傍らで、光に包まれた幼い子どもに出会った日のことを。


 木々の間から射し込む淡い陽光が、白銀にも似た月白色(げっぱくいろ)の髪を照らし、風にそよぐたびに儚げに輝いていた。その姿はあまりにも神秘的で、あまりにも高貴だった。無垢な瞳がただ静かにこちらを見つめるだけで、思わずその膝下に(ひざまず)きそうになったことを、今でも憶えている。


 その子どもは、ある種の――より神々に近き種族だけが持ち合わせる純粋な呪素を帯びていた。(けが)れなき力が、空気の隙間に滲み込み、周囲を清めるように揺らめいていた。それを見た瞬間、彼は悟った。


 この幼い子どもは、神々の意志によって(つか)わされたのだと。しかしそれは(いくさ)で乱れを世の正すためではなく、この世界に囚われた者たちを救うためなのだと。


 それはある種の啓示だったのかもしれない。そして彼は、そっと子どもの手を取った。冷たくも、どこか儚げな小さな手。守るべきものとして、砦へと連れ帰った。


 理由は単純だった。この子を、せめて安全な場所に置いてやりたかった。それが正しい選択だったのかは、今となっては分からない。あのとき、他の誰かに託していれば、もっと違う未来があったのかもしれない。


 結局、親らしいことは何もしてやれなかった。混沌との戦いに明け暮れ、ただ与えられた役割を演じ続けるだけの日々。だが――と、総帥は思う。


 これからは、自由に生きられるだろう。森の守護者としての役目から解放され、その目で世界の真の姿を見ることができる。若き日の私がそうしたように。誰かの庇護のもとではなく、自らの意思で、この広い世界を歩めるのだ。


 ぐらりと意識が揺らぐ。総帥は瞼を閉じ、記憶の彼方へと沈んでいく。そして、つぎに目を開いたとき――もはやそこに人の理性は存在しなかった。〈鬼神〉と融合を果たした鬼人だけが、荒れ果てた戦場に佇んでいた。


 そこに三体の魔物が、血を凍らせるような殺意を孕みながら迫る。異形の身体は闇に溶け込むように揺らぎ、まとわりつく瘴気が空間そのものを蝕んでいた。総帥は、その悪意を迎え撃つように両手を前にかざした。


 すると空間が裂け、砦の遥か上空に無数の腕が出現する。それら〈鬼人〉の腕は、巨人を思わせるほどに巨大でありながら、異様にしなやかで、より現実的な質感を持っていた。長い指が音もなく動き、まるで宿命づけられたように三体の魔物へと伸びていく。


 そして次の瞬間、凄まじい勢いで地面に叩きつけられた。落雷を思わせる轟音が鳴り響き、魔物たちの身体は圧し潰され、荒れ果てた戦場の地表がひび割れ砕けていく。


 異形の魔物は必死に逃れようと暴れるが、上空からさらに無数の腕が出現し、絡みつくようにそれらを拘束していく。鋭い爪が魔物の四肢に食い込み、骨を砕きながらその動きを封じていく。呻き声が虚空に響き、呪素が渦巻くが、それすらも総帥が放つ膨大な呪力に掻き消されていくようだった。


 総帥の身体から溢れ出た呪力が爆発的に膨れ上がると、周囲の空間が歪み、〈鬼神〉の腕が〈黒炎〉に変わっていく。黒き業火は、まるで生き物のように蠢きながら魔物の身体を焼き尽くし始めた。その炎は、混沌の魔物の魂そのものを()き、存在の痕跡を消し去ろうとする。魔物たちは身をよじらせながらも、抗う術なく炎に包まれていく。


 そのときだった。〈無形の災厄〉が奇妙な動きを見せた。黒煙に覆われたその身体が視線の端で揺らいだかと思うと、次の瞬間、まるで幻影のように消え失せ、別の場所に出現する。そしてその手のひらをかざすと、虚空に奇妙な鏡が浮かび上がるのが見えた。


 そこには、この世界とは異なる、緑にあふれる景色が映し出されていた。異次元へと繋がる鏡面――何度も〈魔弾〉を無力化したか鏡だ。〈無形の災厄〉は、あるいは戦場から離れようとしているのかもしれない。


 しかし総帥の眼光がそれを捉えた瞬間、上空から再び巨大な手が降り注いだ。それは迷いなく、不定形の黒煙を潰すように地面に叩きつける。黒煙が弾けるように霧散した瞬間、一瞬だけ、朽ち果てた死人のような手足が露わになった。それは枯れ枝のように痩せ細り、黒く腐った皮膚が裂けて骨が覗いていた。


〈黒炎〉が世界を焼き尽くすなか、ヤシマ総帥は瓦礫の中から這い出ようとする哀れな生き物のもとに足を向ける。その動きは、これまでの長きにわたる戦いの疲れを映し出すかのように遅く、重々しかった。


 生き物の身体はすでに原形を留めておらず、人とも獣ともつかない(いびつ)なものに変貌していた。傷ついた四肢は黒ずみ、皮膚はひび割れ、崩れ落ちるように腐敗していた。かつてその身を包んでいたはずの高潔な力は、もはやそこにはなかった。


 ヤシマ総帥は、その痩せこけた身体の脇にそっと手をさし入れ、まるで父親が幼子を抱き上げるように、ゆっくりと目線の高さまで持ち上げた。生き物はわずかに痙攣しながら、かつての面影をわずかに残す顔を歪めるが、抵抗する力は残されていなかった。


 ふたりはしばし見つめ合う。そこには言葉など存在しなかった。ただ、燃え盛る戦場の喧騒の中で、総帥と――その息子だけが隔絶された世界にいるかのような静寂が広がっていた。


 やがて総帥は、その瀕死の生き物を――かつて自らの手で守ると誓った息子の成れの果てを――ゆっくりと鏡面のそばまで連れていく。鏡は、今なお緑に溢れる美しい世界を映し出していた。腐って淀んだ空気は感じられず、焼け焦げた大地もない。そこには、遠い昔に見た、あの森のような光景が広がっていた。


 総帥はふと、消えゆく意識の底で思う。この腐敗し、瘴気に満ちた世界ではなく、あの日の森のように、清らかな空気と柔らかな陽光に満ちた世界こそが、わが息子にふさわしいのだと。


 総帥はその手をゆっくりと開き、息子の身体を鏡の向こうへと落とした。


 その直後、鏡面は霧散するように消えた。もう、どこにも息子の気配は感じられなかった。ただ総帥の手のひらに、わずかな温もりが残るのみだった。


 総帥が背後を振り返ると、黒炎に包まれながらも、憎悪に満ちた眼差しで彼を睨みつける三体の魔物が立ち尽くしていた。歪みきった身体は炎に焼かれながらも、なおもこの世に執着し、彼を滅ぼす機を(うかが)っていた。


 おそらく、これが最期の戦いになるだろう。しかし迷いは消えていた。燃え盛る〈黒炎〉の中で総帥は静かに瞼を閉じ、深く息を吐き、そして力を解き放った。

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