98〈ヴァラクシス〉
広場に足を踏み入れたヤシマ総帥が目にしたのは、荒廃しきった戦場だった。腐った瘴気が汚染地帯から漂い、大気そのものが淀んでいた。その瘴気の中心では、黒き獣が〈死を嘲笑うもの〉の猛攻を凌いでいた。
漆黒の翼を広げ、その羽を鋼鉄のように硬質化させ、激しい攻撃を受け止めていた。しかし宙に浮かぶ黄金の円環からは、止むことなく次々と呪力の塊が撃ち出されていた。それが直撃するたびに大気は震え、地面を抉るような衝撃が広がり、獣の周囲にはいくつもの深い亀裂が生じていく。
その亀裂から立ち上る瘴気が不気味に揺らめく。なんとか攻撃を防いではいるものの、この状況で長く持ちこたえるのは難しいだろう。
すぐにでも掩護しなければならない。しかし、おそらく相手は〈ヴァラクシス〉の名で知られた魔物――神々に匹敵する存在だ。その身にまとう呪力は膨大で、定命の者とは次元があまりにもかけ離れている。中途半端な攻撃では傷をつけることすら叶わない。
ヤシマ総帥は静かに息を吐き、その身に秘めた力を徐々に解放していく。
全身の筋肉が隆起し、骨格が軋むように変化し、皮膚が裂けるかのように膨張する。鋼のごとく引き締まった上半身が露わになり、赤黒く染まった肌は硬質な光沢を帯びていく。何もせずとも呪力が滲み出し、大気を震わせるような圧を放っていく。額から伸びる二本のツノも枝分かれしていき、ねじれながら太く成長し、禍々しい輪郭を形作る。
その過程で精神が研ぎ澄まされ、世界のありようが変容するかのような感覚に包まれていく。総帥の瞳は白目すらも黒く染まり、縦に狭まった瞳孔が金色に明滅する。その双眸は、光を宿しながらも深い闇を湛え、神話の時代から語り継がれる異形の魔物を鋭く睨みつけた。
総帥は常人を遥かに超える膨大な呪力を身にまとい、その威圧感で空間を満たしていく。しかし、いかにその力が圧倒的であろうとも、〈ヴァラクシス〉の前ではあまりにも矮小な存在に思えた。その崇高で邪悪な、かつ絶対的な威容は、あらゆるものを圧倒し、絶望すら抱かせるほどだった。
実際のところ、混沌の魔物は総帥の存在を意に介していないかのように見えた。まるで羽虫を見下ろすような態度で、その異様な複眼で虚空を見つめているだけだ。こちらが戦意を示そうとも、歯牙にもかけない。それとも、もはや敵としてすら認識されていないのだろうか。
ヤシマ総帥は、その現実を正面から受け止めながら、ゆっくりと歩みを進めた。〈ヴァラクシス〉の存在が空間そのものを歪め、近づくたびに身を押し潰すような圧力が総帥に圧し掛かる。それでも足を止めることはない。かつて神々の使徒ですら触れることが叶わなかった存在――その禁忌の領域に、総帥は自らの意志で踏み込んでいく。
そしてゆっくりと重心を低くし、まるで居合斬りの構えを取るかのように、何もない腰元にそっと手を添える。その仕草は、不可視の刃を握るかのように滑らかで迷いがなかった。静寂の中、周囲の空気がわずかに歪む。微細な振動が大地を伝い、見えざる刃の気配に怯えたかのように、宙に漂う灰すらも動きを止めた。
つぎの瞬間、総帥の身から膨大な呪力が渦を巻くように放出され、可視化できるほどの呪力の濁流が広場を呑み込んでいく。直後、耳をつんざく甲高い音が響き渡った。それは鏡が砕ける音に似ていた。しかし実際に砕けたのは空間そのものだった。
総帥の背後で、空間そのものが縦にひび割れ、奇妙な亀裂が走る。その裂け目は暗黒の深淵へと続いているようだったが、そこから巨大な影がゆっくりと姿をあらわした。
神々の時代において、数多の混沌を屠り続けた〈鬼神〉。その身は〈呪霊〉として顕現しながらも、禍々しさと荘厳さを同時に纏っていた。全身は黒鉄の甲冑のように鍛え上げられ、無数の傷が――かつて滅ぼした魔物たちの怨嗟のように刻まれている。
頭部から伸びる二本のツノは、黄金の装飾が幾重にも絡み合い、その神秘的な輝きと異様な存在感を際立たせていた。瞳には不気味な光が宿り、静かに明滅しながら周囲にただならぬ緊張感を与えていた。その手には、呪力を纏う大太刀――現世の理すらも斬り裂く混沌を滅する刃が握られていた。
その段階に至ると、〈ヴァラクシス〉はようやく総帥の存在を認めたのか、その奇妙な複眼が静かに総帥に向けられた。異次元の力を持つ異形の魔物は、はじめて総帥を〝敵〟として認識したかのようだった。
総帥の唇がわずかに動き、微かな笑みが浮かぶ。そして不可視の刀を抜き放つ。総帥の動作と同期するかのように、背後に立つ鬼神も大太刀を抜き放った。刹那、空間が収束し、鬼神の刃が一瞬だけ実体化する。そして恐るべき力が解放され、あらゆるものを斬り裂いていく。
その瞬間、刃の先に真空が生じ、戦場を覆っていた喧騒が刹那の静寂に呑み込まれた。その静寂を斬り裂くように、横一閃の斬撃が空間を断ち裂いていく。
不可視の刃が描いた軌跡の先で、〈ヴァラクシス〉の身体を覆う黒い靄が霧散し、内臓のように垂れ下がっていた無数の手足が斬り裂かれ、一瞬のあと、切断された器官がゆっくりと落下していくのが見えた。その断面から噴き出す紫黒の体液が、瘴気と混ざり合いながら地面を穢していく。
そのまま斬撃は広場に面した建物や塔を巻き込み、高く聳えていた防壁に直撃した。壁の下地として使用されていた〈呪滅鋼〉によって勢いは萎えたが、その建材にすら深い傷をつけた。
そして遅れてやってきた衝撃音は雷のように大気を震わせ、周囲の瓦礫を吹き飛ばし、衝撃波が地を裂いていく。圧倒的な力の余波が、砦全体を揺るがした。
鬼神の大太刀が振り抜かれ、空間を断ち切る斬撃が〈ヴァラクシス〉の胴体を両断した瞬間、周囲に浮かんでいた黄金の円環が揺らいで消滅する。
その斬撃が頭上を通過していくと、漆黒の獣は地面を蹴り〈ヴァラクシス〉から距離を取る。斬撃を受けた魔物の反応を確かめるまでもなく、獣の直感は異変を訴えていた。何かがおかしい。あれほどまでに強力な攻撃だったにも拘わらず、斬撃の手応えはまったく感じられなかった。
それを証明するかのように、〈ヴァラクシス〉は奇妙な複眼を〈鬼神〉に向けながら、何もせずに静止していた。その極彩色に脈動する単眼には、痛みも苦しみも、あるいは敵意すらも宿っていない。ただ、世界そのものを見つめる無機質な視線だけがそこにあった。
斬撃によって両断され、地面に突き刺さるように落下していた無数の手足は、そこで異様な変化を見せる。まるで菌糸が這うように、地面に根を食い込ませるように血管を広げていくのが見えた。
紫黒に染まる肉が脈動し、瘴気にまみれた地を這い、広がりながら膨れ上がる。そして無数の節が増殖するように重なり合い、やがて笠を持たない菌類のように変貌していく。
それは生命というより、異形の〝構造物〟に思えた。見上げるほどの巨大な肉の塔が次々と形成され、歪なうねりを伴いながら空に向かって伸びていく。まるで瘴気そのものが物理的な形を持ったかのように、静かに、しかし確実に成長を続けた。
一定の高さに達すると、その塔の先端が花弁のようにゆっくりとめくれ、その内部から新たな異形が姿をあらわした。
無数の脚を持つ百足めいた巨大な生物が、粘液にまみれながら這い出してくる。その下半身は硬質な甲殻に覆われ、黒光りする殻の隙間からは瘴気が漏れ出していた。上半身は人間のような形をしているが、それは決してヒトとは呼べない。乾ききった食屍鬼めいた体表を持ち、割れた胸郭の中には、脈動する暗黒の核がうごめいている。
その頭部は、まるで巨大な菌類のようにひび割れ、そこから無数の触手がゆらめきながら大気を撫でていた。
一体だけでも恐るべき存在だったのに、花開いた塔の内部から次々と同じ姿の怪物が生まれ出てくる。それぞれが〈クァルムの巨竜〉のように膨大な呪力を宿し、その存在だけで周囲を威圧していた。一糸乱れぬ動きで無数の脚を蠢かせ、じわじわと総帥と漆黒の獣を取り囲んでいく。
〈ヴァラクシス〉自身は未だ微動だにせず、まるで、この状況すらも想定内であるかのように振舞っている。
〈鬼神〉を従える総帥は、ほんの一瞬だけ視線を上げた。そこには、夜の闇よりもなお深い黒煙が渦巻いていた。空にぽっかりと開いた虚無の裂け目のように、その存在はすべての光を飲み込みながら、ゆらめき、脈動していた。それは形を持たず、輪郭を定めることすらできない。
時折、煙の奥に何かが蠢くように見えるが、それが手なのか、眼なのか、それとも全く未知の存在なのか、判断はつかなかった。ただ、その内側から発せられる〝異様な視線〟だけが、確かにこちらを捉えていた。
〈無形の災厄〉と呼ばれる混沌の魔物なのかもしれない――そう考えるのは自然だったが、それを確証するものは何もない。ただ、不定形の黒煙がまとう呪力はあまりにも異質で、世界の理そのものを塗り替えるかのような力を孕んでいた。
ヤシマ総帥ですら、ソレを直視することができず、無意識のうちに視線をそらしてしまう。まるで、その存在を認識すること自体が許されていないかのように。
しかし、それがたとえ何者であれ、この場にいる以上は敵と見なすべきだった。〈死を嘲笑うもの〉、〈無形の災厄〉、そして新たに生み出された異形の群れ。どれもが神話の中でしか語られぬほどの力を持ち、いずれもがこの世界の秩序とは相容れぬ存在だった。
けれどヤシマ総帥の目には迷いはなかった。敵の数が増えようと、対峙するのが神々に匹敵する怪物だろうと関係がなかった。あるいは、これが求めていた死に場所なのかもしれない。総帥は再び膨大な呪力を身にまとっていく。幽体のように半透明だった〈鬼神〉の姿は、徐々に実体化し、この世界に顕現していくかのようだった。