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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 後編
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 砦は紅蓮の炎に包まれ、燃え盛る火柱が天を焦がしていた。堂々と(そび)え立っていた塔は黒煙を巻き上げながら音を立てて崩れ、辺り一面に破壊の惨状が広がる。その悲惨な光景のなかで、〈ベリュウス〉の咆哮が轟き、まるで砦そのものが地獄へと変貌していくかのようだった。


 炎の熱気は肌を刺すように鋭く、焦げた空気が肺を()き、呼吸するたびに喉が焼けるような感覚に襲われる。視界は揺らめく炎と立ち込める煙に遮られ、まるで逃げ場のない悪夢の中に閉じ込められたかのようだ。


 そのなかを、一行は逃げるようにして移動していた。排水路の入口にたどり着いたが、そこには頑丈な落とし格子が立ちはだかっていた。鋼鉄製の冷たい輝きは、絶望的な現実を容赦なく突きつけているかのようだった。ここを突破しなければ進めない。しかし操作盤は防壁の内側にあり、誰かがそこに向かう必要があった。


「俺が行く」


 ルズィが迷いなく名乗りを上げたが、その肩を強く掴む手があった。ヤシマ総帥だった。ふたりの視線が交錯する。熱を帯びた眼差しに、総帥の強い決意が滲んでいた。


「私が行こう」

 短い一言だったが、それが絶対的な命令であることは明白だった。


 ルズィは食い下がろうとしたが、総帥の言葉がそれを封じた。「指揮官としてお前が必要だ」その声は淡々としていたが、深い重みと冷静な判断によるものだった。


 その言葉に込められた意味を、ルズィは当然理解していた。これまで守人たちの精神的支柱だった指揮官の不在は、部隊全体を深刻な危機に陥れる可能性があった。


 ルズィは無言で総帥を見つめた。その目には葛藤があり、責任の重さに押し潰されそうな気配すら感じられた。彼自身も、部隊を指揮する立場としての役割の重要性を痛感していた。どれほど強い意志を持っていようとも、部隊の存続を優先するためには、冷徹な決断を下さなければならない時がある。


 何よりも、この状況で脱出を可能にする〈転移門〉を起動できるのは、ルズィと照月來凪(てるつきらな)の二人だけだった。しかし、その照月來凪は意識を失い、〈転移門〉を操作するだけの力は残されていなかった。すべてはルズィの肩に重くのしかかっていた。


 もし、今この場でルズィが命を落とすことになれば、ここにいる者たち全員の運命は閉ざされてしまう。〈転移門〉が起動できなければ、この地獄からの脱出は不可能となる。ルズィは己に課せられていた責任を痛感していたが、それでも決意が揺らいでいた。


 兄弟たちの命を救うためには、どんな犠牲も受け入れなければならない。それでもなお、ヤシマ総帥を犠牲にするという選択――その重圧は、彼にとって耐えがたいものだった。


「それに――」総帥の表情が和らいだ。

「息子を置いて行くわけにはいかん」


 一瞬、ルズィの呼吸が止まった。〈ベリュウス〉と戦い続けている〝漆黒の獣〟の姿が脳裏に焼きつく。死の瀬戸際に立たされながらも、なお抗い続けるその姿を思い出した。そしてヤシマ総帥が、彼を見捨てるはずがなかった。


 もはや説得の余地はなかった。ルズィは固く拳を握りしめ、悔しさと葛藤の入り混じる表情で総帥をじっと見つめた。しかし、やがてその目に静かな決意が宿る。彼は一歩後ろに身を引き、短く言葉を紡いだ。


「行こう」

 総帥を残して進むことへの躊躇いは、今も心の奥底で波紋を広げていた。けれど彼にはやらねばならないことがある――その重圧に屈するわけにはいかなかった。


 排水路の入り口は狭く、わずかに見える暗がりからは湿った土と汚水の臭いが立ち込めていた。濁った水の底には粘りつくようなヘドロが沈み込み、足を踏み入れるだけで、不快な感触が広がる。暗闇の中、淀んだ空気が充満し、息をするたびに悪臭が鼻を突いて隊列を包み込んでいく。


 それでも、誰ひとりとして不満を漏らす者はいなかった。彼らは理解していた。すべてを犠牲にして道を切り開こうとする者がいる限り、自分たちが進むべき理由に疑いの余地などないことを。


 隊列は静かに暗闇のなかに消えていった。ひとり、またひとりと排水路の闇の中に溶け込んでいく。背後から聞こえるのは、砦が崩落する音。瓦礫が押し潰され、重く響く破壊の音が波のように迫り、空気を震わせる。


 そして遠く、〈ベリュウス〉の咆哮が断続的に響き渡る。それはまるで死神の足音のように、彼らが追い詰めてられているという事実を突きつけていた。


 その場に残ったヤシマ総帥は、わずかに膝を曲げたかと思うと、地を蹴り、驚異的な身体能力で壁を駆け上がっていく。土鬼(どき)の強靭な身体を活かし、指先とつま先で壁の突起を確実に捉えながら、軽やかに進んでいく。その動きは迷いがなく、獣のように鋭敏で洗練されていた。


 やがて総帥は暗闇に包まれた廊下に飛び込んだ。古びた燭台が壁際に無造作に掛けられていたが、火は掻き消されていた。廊下に漂う空気はどこか冷たく、嫌な湿り気が肌にまとわりついた。金属の錆びた臭いと、古びた石の臭いが混ざり合い、鼻を刺激する。


 廊下の奥、石造りの階段を駆け上がると、防壁上部の操作室にたどり着いた。そこには無骨な仕掛けが据え付けられている。太く重い鎖が何重にも巻き付いた滑車装置、そして暗闇に沈み込む穴が見えた。その先に格子が吊るされているのだろう。無造作に放置された無数の工具が足元で音を立てる。


 総帥は素早く装置の状態を確認すると、滑車の持ち手をしっかりと握り込んだ。粗く削られた木材が手のひらに食い込む。息を整え、腕と肩に力を込めると、ゆっくりと回し始めた。直後、滑車の金属が軋み、鎖が震えながら引き上げられていく。


 落とし格子の底部が石の溝を擦り、低く鈍い音を立てる。その音が石壁に木霊して、まるで悲鳴のように響いた。鎖が巻き上げられるたび、僅かに抵抗が増す。総帥は歯を食いしばり、全身の力を込めて滑車を回し続けた。


 その動作に合わせて骨が軋むような感覚がして、汗が背中を伝って落ちていく。本来なら数人がかりで行うべき作業だったが、総帥はひとりでそれを成し遂げてみせた。


 ようやく格子が完全に引き上げられると、鋭い金属音が響き、固定機構が作動する。その音は、一瞬の安堵を与えるものだったが、彼は素早く別の滑車に目を向ける。まだ終わりではない。つぎの仕掛けを操作する必要がある。


 薄暗い排水路を進むルズィたちは、鋼鉄製の格子がゆっくりと引き上げられていく様子を目にした。格子が重苦しい金属音を響かせながら上昇するたび、足元の濁った水が微かに揺れ、その波紋が暗闇に広がっていく。彼らの頭上では、シェンメイが呪術で宙に浮かべた〈灯火(ともしび)〉が淡い光を放ち、鬼火のように不気味に揺らめいていた。


 その光に照らされるようにして一行の顔が暗闇に浮かび上がる。険しい表情のなかに疲労が皺のように刻まれていた。彼らの目には不安が宿り、時折互いに視線を交わすものの、誰も口を開こうとはしなかった。排水路の湿った空気が肌にまとわりつき、一歩一歩が重く感じられる。それでも彼らは無言で進み続けた。


 やがて一行の視界に排水路の出口が見えてきた。そこは砦の裏手に位置していて、戦場からも遠く離れていた。だからなのだろう、砦を襲った衝撃波も、ここまでは直接及んでいなかった。それでもなお、周囲には戦いの余波を物語る無惨な光景が広がっていた。


 多くの木々は根元から折れ、無造作に地面に横たわっていた。その下には抉られた土が露わになり、荒々しい力による破壊の跡が生々しく残っていた。散乱する瓦礫は、砦から飛ばされてきたのだろう。


 しかし兵士や化け物の死体は見当たらなかった。まるで、ここには最初から誰も存在しなかったかのように、戦いの痕跡は深い静寂の中に埋もれていた。


 ルズィは手早く状況を確認すると、建設隊に指示を出していく。まずは荷車が通れる道を確保しなければならない。呪術を扱える者たちが中心となり、作業は迅速に開始された。


 彼らは前線で戦う者ではなく、主に道路敷設や砦の補修を担う後方支援の役割を果たす者たちだ。その経験と技術は卓越していて、ひとつひとつの動きに迷いがない。


 土を操る職人たちは、素早く呪文を唱えながら地面を柔らかくする。固く締まった土は次第にほぐされ、作業しやすい状態に変化していく。同時に、親方でもある猫人のアグ・ザリは、モグラの呪霊に指示を出し、鋭い爪で地面を掘り進めていく。その動きは驚くほど正確で、一気に地面を深く掘り下げ、地形の凹凸を整えていく。


 切通しの形成が進むにつれ、職人たちは互いの動きを確認しながら作業を調整していく。必要に応じて、土壁を補強したり、地面から余分な土を取り除いたりしながら、道の形状を理想的な状態に近づける。彼らが力を合わせることで作業は円滑に進行し、整備された道が次第に姿をあらわし始めた。


 蜥蜴人のリワポォルタも、自らの身体能力を限界まで高めながら作業に加わった。倒木を両腕で抱え上げ、職人たちの邪魔にならない場所まで運んでいく。岩も同様に持ち上げ、あるいは転がして除去し、荷車が通行できるよう道を整えていく。無駄な動きは一切なく、ただ目の前の障害を排除していった。


〈ラガルゲ〉に跨るシェンメイも巨大な根株(ねかぶ)を退ける作業を手伝っていたが、その間も、砦から視線を外すことなかった。瓦礫や倒木は次々と取り除かれ、荷車が支障なく通れる道が形になりつつある。これで街道にたどり着く目途が立った――誰もがそう思い始めていた、その瞬間だった。


 突然、砦の方向から凄まじい咆哮が響き渡った。空気を震わせるその音は、耳をつんざくようでありながら、大地の奥底から絞り出されたかのような重々しい響きを持っていた。まるで自然の摂理をねじ曲げるかのような、圧倒的な力を感じさせる咆哮だった。


 辺りは一瞬、静寂に包まれた。先ほどまで確かに感じられていた〈ベリュウス〉の禍々しい気配が、まるで霧が晴れるように、すっと途切れた。


 ついに〈ベリュウス〉は倒されたのだろうか。誰もがそう願っていた時だった。背筋を這い上がるような悪寒が全身を貫いた。何かが近づいてくる――その感覚は瞬く間に確信に変わった。別の気配がある。それも、〈ベリュウス〉が身にまとう気配と驚くほど似通った気配だ。


 膨大な呪力を身にまとう巨大な存在が砦に迫りつつあった。圧倒的な存在感と共に、濃密で異質な瘴気が空気を汚染するように広がり始める。その瘴気は、砦から遠く離れたこの地にまで到達し、肌を刺すような不快感をもたらした。呼吸するたびに胸が重くなり、まるで見えない手に絞めつけられるような感覚さえ抱かせる。


 恐るべき混沌の魔物〈鋭い牙を持つもの〉たちは、恐怖と災厄の象徴だった。その存在は確認されているだけでも〝十二体〟に及ぶ。そしてそのうちの一体によって、すでに守人は壊滅的な被害を受けたというのに、新たに二体が砦に迫ってきていた。


 今起こっているのは、〝絶望〟という言葉では到底足りない、まさに破滅そのものだ。さらなる災厄が災厄を引き連れ、この地へとやってきている。


 空気が重く沈み、息をするだけで胸が苦しくなり、体中の筋肉がこわばっていく。周囲に漂う瘴気は毒のように濃密で、肌を刺すかのような嫌悪感を抱かせる。それでも、総帥の覚悟を無駄にしないため、彼らは街道を目指して進み続けた。

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