95〈呪滅鋼〉
砦の空気は張り詰め、避難の準備に追われる者たちの足音と声が錯綜していた。最前線で戦っていた者たちが次々と壁を越え中央広場に戻る頃には、砦の放棄はいよいよ現実味を帯び、避難作業は最終段階に入っていた。
倉庫では世話人たちが荷車に食料を積み込むため忙しなく働き、武具師の塔では貴重な道具と必要最低限の物資を回収するために、大急ぎで作業が進められていた。荷車の数は足りていたものの、それを引く駄獣の数が圧倒的に不足していた。そこで、戦狼たちの協力を得ることで、何とか補う算段がついていた。
建設隊に所属する蜥蜴人の〝リワポォルタ〟もまた、倉庫で荷造りに奔走していた。穀物の木箱を担ぎ上げた瞬間、ふと足元に目を向けて思わず息を呑んだ。木箱の隙間に挟まっていた金属の棒が転がり出てきたのだ。それを見た瞬間、血の気が引いた。それは本来、地下牢の先にある倉庫に運ばれるはずのものだった。
何よりも慎重に扱わなければいけない貴重な品が、運搬の際に見落とされてしまっていた。今さら気づいたところで、すでに取り返しはつかない。仕事を手伝ってくれたアリエルに対する申し訳なさを抱えつつも、それ以上考える余裕はなかった。外から誰かが自分を呼ぶ声が聞こえると、ポォルタは木箱を担ぎ上げながら倉庫を飛び出した。
世界が突如、眩い光に包まれたのは、まさにその瞬間だった。夜の闇を切り裂くような蒼白い閃光が壁の向こう側で瞬いたかと思うと、夜空を煌々と染め上げ、時間が止まったかのような一瞬の静寂が訪れた。直後、耳をつんざく轟音が響きわたり、大地そのものが激しく揺れた。
空気が膨張し、凄まじい衝撃波が襲いかかる。何が起こったのかを考える余裕もなく、全身を叩きつける圧力に耐えながら、ポォルタは地面に膝をついた。大気が震え、広場に面した塔や建造物が悲鳴を上げるように軋む。
〈聖女の干し首〉によって展開されていた結界が可視化されると、光の膜が砕け散るように崩壊していくのが見えた。結界という障壁が消失したことで、制御を失った衝撃波が砦全体を激しく襲う。そして爆発の余波が容赦なく砦を襲い、大量の土砂と瓦礫が空から降り注ぐようになった。
廃墟の塔が崩れ落ち、瓦礫によって通路は次々と塞がれていく。悲鳴と怒号が入り混じるなか、ポォルタは咄嗟に世話人を庇いながら身を伏せ、飛び交う石の破片から身を守った。地響きが続き、砦の外では燃え上がる夜空の下で地獄のような光景が広がっていた。
砦に留まり続けることは、もはや不可能となっていた。爆発の余波が収まりきらないうちに、ルズィの指示が響き渡り、動ける者は即座に行動を開始した。崩れ落ちた瓦礫の下敷きになった世話人を救助する者、最低限の装備を持ち出そうとする守人――それぞれが生存のために懸命に動き、混乱の中で必死に秩序を保とうとしていた。
これまで砦を守るために結界を維持し続けていた照月來凪は、その最後の力を振り絞って爆発の衝撃を防いだが、それも限界だった。結界が完全に崩壊した瞬間、彼女の身体から力が抜け、意識を失いながらその場に崩れ落ちる。
ヤシマ総帥は即座に彼女を抱き上げると、爆発に背を向けるようにして〈金剛〉で身を守る。そうして凄まじい衝撃をやり過ごすと、周囲で警戒していた八元の武者に撤退を促す。この瞬間、砦の放棄は決定した。最優先事項は、一刻も早く生存者を安全な場所へ避難させることに変わった。
爆発の衝撃に打ちのめされながらも、避難の準備は着々と進められた。しかし全員を救うことはできなかった。重傷を負い、瓦礫の下から動かすことすらできない者たちがいた。彼らを見捨てることは誰も望んでいなかったが、もはや選択肢はなかった。
迅速に撤退するための隊列が整えられ、負傷者や〈石に近きもの〉は荷車に乗り込み、その後に世話人や建設隊が続いた。先頭と最後尾には、もしもの事態に備えて古参の守人たちが控えることになった。
先行していた守人によって脱出路は確保されていたが、それが本当に安全なのか、誰も確信が持てなかった。瓦礫が転がる地面を踏みしめながら、不安を抱え、炎と崩壊の影に怯えながら進むことになった。
それが気休めに過ぎないと分かっていながらも、シェンメイは幻惑の呪術を用いて、認識を阻害する効果のある霧で隊列を包み込んだ。
大気を切り裂くように黒い影が降ってきたのは、ちょうどその時だった。砦の一角に凄まじい衝撃が走り、守人たちの詰め所として使われていた塔が崩壊していく。
重厚な石造りの建造物が音を立てて砕け、瓦礫が四方に飛び散っていく。その中心には、漆黒の獣の巨体が横たわっていた。どうやら戦場の彼方から吹き飛ばされてきたらしい。
避難の開始が早かったことが幸いし、直撃による犠牲者は出なかった。けれど広場には重傷を負い動けない者たちが残されていた。彼らは、悲痛な叫び声を上げることさえ許されなかった。
飛膜を広げた〈ベリュウス〉が広場に降り立った瞬間、炎が辺りを覆い尽くし、灼熱の業火がすべてを飲み込んでいった。砦の石畳は赤く熱を帯び、人体が焼け焦げていく臭いが周囲に充満していく。
その瞬間、漆黒の獣が動いた。ほとんど無意識のまま、よろめきながらも立ち上がり、撤退する守人たちを庇うように〈ベリュウス〉の前へと躍り出る。しかし、それが命取りになる。中途半端に傷ついた身体では、怒り狂う〈ベリュウス〉を止めるだけの力は出せなかった。
魔物の燃え盛る腕が振り下ろされると、黒き獣の巨体は地を滑るように吹き飛ばされ、倉庫として使われていた建物に衝突する。分厚い石壁が卵の殻のように砕け、倉庫内に残されていた木箱や武器が獣の上に降り注ぎ、完全に瓦礫の山に埋もれていった。
朦朧としていた意識がハッキリしてくると、焼けるような痛みが脳を貫いた。その瞬間、漆黒の獣は片腕を失ったことに気がついた。その絶望的な現実が獣の思考を蝕むなか、さらに異常に気がついた。失われた腕が治癒される気配がないのだ。それは、獣にとって危険を知らせる明確な警告となった。
瘴気による治癒能力が何らかの要因で遮断され、組織が繋がる兆しもないまま、断面から黒い液体がじくじくと滴り続けていた。その液体は異様な艶を放ち、木箱から散乱した食品に触れた瞬間、腐敗を引き起こしながら穢れで周囲を汚染していった。
下顎を失った漆黒の獣は、激痛に苛まれながらも微かに顔を上げた。歪んだ視界の中、瓦礫に突き刺さる金属の棒が目に入った。その瞬間、直感的に悟った――ソレが、肉体の再生を阻害しているのだと。
〈呪滅鋼〉あるいは〈禁呪鉱〉とも呼ばれ、呪素を無力化することで知られた特殊な金属だ。それはかつて、付呪の材料として利用されるだけでなく、防衛施設の基礎に埋め込まれ、呪力を無力化する役割を果たしていた。白銀との合金は呪術師を拘束し、その呪力を封じる鎖にもなっていた。
その忌まわしい金属の存在に、漆黒の獣はようやく気がついた。それが周囲の瘴気を掻き消しているため、呪素を取り込むことができず、傷の修復も不可能になっているのだろう。治癒が追いつかないのではなく、治癒そのものが、完全に封じられているのだ。
耐えがたい痛みに身を焼かれながら、漆黒の獣はふと顔を上げた。瓦礫の隙間から、赤々と燃え盛る〈ベリュウス〉がゆっくりと近づいてくるのが見えた。炎のように明滅する眼光が、破壊と殺意を孕んで燃え上がる。その巨躯を包み込む炎は瓦礫を舐めるように燃え広がり、周囲を業火の地獄へと変えていく。
黒き獣の身体を包んでいた瘴気は、まるで煙のように霧散し、そして消えていった。ある種の障壁として身に纏っていたソレが失われると同時に、皮膚は耐えきれずに裂け、ずるりと剥がれ落ちた。血と体液は沸騰しながら蒸発し、身を引き裂かれる痛みしか感じ取ることができなくなった。
身体を支える力すら失われ、地に崩れ落ちた。生きていること自体が罪であるかのような痛みが全身を貫き、神経を焼き尽くす。
死の淵にありながら、漆黒の獣は混沌を屠るために最後の賭けに出た。
もはや獣の形は完全に失われていた。崩れかけた人の輪郭に獣の骨格が混ざり合い、どちらともつかない異形へと変貌していた。
それでも、地を這うようにして前進を続けた。崩壊しかけた身体を引きずりながら、瓦礫に突き刺さった金属の棒に近づくと、魚人を思わせる鱗に覆われた腕をゆっくりと伸ばした。
指先がそれに触れた瞬間、強烈な痛みが襲った。骨まで抉られるかのような激痛に皮膚が泡立ち、爛れ、熔解し、筋肉が黒焦げになって剥離していく。
〈呪滅鋼〉は呪素の流れを根こそぎ断つ。そしてそれは、その身にまとう呪力が多ければ多いほど、その効果が顕著にあらわれる。血管を引き裂かれるような苦痛の中、それでも力を緩めることなく、金属の棒を握りしめた。
その時、背後から灼熱の気流が襲いかかる。〈ベリュウス〉が炎を撒き散らしながら突進してきたのだ。瓦礫が瞬時に赤熱し、周囲の大気が灼熱の圧力で震える。まともに受ければ一瞬で焼き尽くされるだろう。
残された力のすべてを振り絞り、金属の棒を地面から引き抜く。その瞬間、全身に電撃のような衝撃が走った。骨が砕け、体内の呪素が絶たれ、命そのものが蝕まれるような感覚に襲われる。その痛みを怒りに変えながら、燃え盛る魔物の胸に〈呪滅鋼〉の金属を突き立てた。
火焔が飛び散り、〈ベリュウス〉の咆哮が砦を震わせる。魔物の体内で脈動していた炎は揺らぎ始め、徐々にその力を失っていった。燃え盛る核のような輝きは次第に鈍くなり、やがて完全に光を失う。その身に瘴気を取り込むことができなくなったのだろう。
炎の力を奪われた魔物は、これまで見せたことのない動揺を滲ませ、その場に片膝をついた。神にも似た恐るべき気配は完全に失われ、もはやただの化け物へと成り果てていた。しかし黒き獣もまた、もはや動くことすらできなかった。
膨大な呪力を身にまとう二体の魔物が、ゆっくりと砦に接近してきていることに気がついたのは、ちょうどその時だった。




