94〈爆心〉
漆黒の獣は、じっと混沌の魔物〈ベリュウス〉を見つめながら、ゆっくりと身を低くしていく。直後、後脚に力を込めて地面を蹴り、猛然と飛び出した。その瞬間、周囲の大地が爆ぜ、衝撃波に巻き込まれた木々が根こそぎ吹き飛ぶ。空高く舞い上がった土砂と粉砕された岩石が、砂煙になって森に立ち込めていく。
しなやかに伸びた前脚が、つぎの瞬間には地面を捉え、流れるような動作で身体を前方に押し出して加速していく。地面を蹴るたびに大地が裂け、獣が駆け抜けた跡には深い溝が刻まれていく。闇を切り裂くかのように駆けるその影は、もはや一条の黒い閃光だった。
獣を待ち受けていた〈ベリュウス〉は、その凶暴な巨体に似合わぬ俊敏さを持ちながらも、黒き獣の速度に追いつけなかった。視界に捉えたときにはすでに遅く、漆黒の前脚が叩きつけられる。直後、轟音とともに〈ベリュウス〉の巨体が宙に舞い上がり、戦場の彼方へと吹き飛ばされていく。
けれど、それだけでは終わらない。魔物が地に落ちるよりも速く、黒い獣はさらに加速し、矢のように飛び込む。吹き飛ばされていく巨体に追いつくと、さらに強烈な一撃を浴びせ、〈ベリュウス〉の身体を凄まじい勢いで地面に叩きつける。
凄絶な衝撃により、大地は放射状にひび割れながら陥没していく。周囲の土が波打つように盛り上がり、裂け目からは熱が噴き出して植物が焦げる臭いが充満していく。激しい戦いの中で、森の景色が一変していく。倒れた木々は燃え、土砂が巻き上げられて視界を濁らせる。
身体中に無数の傷を負いながらも、〈ベリュウス〉の目には確かな意志が宿っていた。巨体を軋ませながらも赤々と燃える左腕を伸ばすと、猛然と襲いかかる漆黒の獣の首を捕えた。そして右腕を振り抜き、渾身の力を込めた一撃を叩きつける。
夜の森に打撃音が響き渡る。獣の頭部が粉砕され、血液と脳漿が四散する。飛び散った赤黒い飛沫が周囲の草木に降り注ぐと、その瞬間、生命が焼き尽くされるように植物は黒ずみ、枝は枯れ果てていく。血に触れた土は腐敗し、白煙を上げながら変質していく。死の気配が広がり、大地そのものが穢されていく。
何度も容赦なく叩きつけられた拳によって、漆黒の獣の頭部はすでに原形をとどめていなかった。砕かれた骨の破片が皮膚を突き破り、血と脳漿が滴り、眼窩は潰れ、顔の輪郭は崩壊していた。それでも、その獣が持つ闘争本能は微塵も揺らいでいなかった。
長くしなやかな尾が、まるで鎌首をもたげる蛇のように動く。すると、尾を覆っていた羽が鋭利な刃へと変質し、瞬く間に凶器に変わる。恐るべき殺意が込められた尾は、空間を切り裂きながら〈ベリュウス〉の身体を斬り裂いていく。分厚く硬質な体表は容易く裂かれ、肉体を削り取られていく。
黒き獣の血液とは異なり、〈ベリュウス〉の傷口から噴き出すのは燃え盛る溶岩のような体液だった。飛び散ったそれが地面に触れるたび、大地が焼け爛れ、深い裂け目から灰と黒煙が立ち昇る。
混沌の魔物は、尾による執拗な攻撃を嫌ったのか、激しい咆哮を上げながら拳を止めた。そして黒き獣の尾を掴み取ると、そのまま荒々しく引き裂こうとする。圧倒的な膂力が込められたことで、獣の尾は引き千切られ、大地を穢す血液が振り撒かれる。その体液が触れた場所は、それがどこであれ、焼き焦がされながら汚染されていく。
しかし、そのわずかな隙こそが漆黒の獣の狙いであり、〈ベリュウス〉の愚かな選択だったのかもしれない。
大量の瘴気を取り込んだ黒き獣の身体は、見る見るうちに修復されていった。砕けた骨が再生し、削げ落ちた肉が瞬時に元の形を取り戻す。頭部が再構築された瞬間、獣の眼前に異様な光が収束していくのが見えた。
青紫色の発光体が形成され、一点に向かって凝縮され、怒りと殺意を込めた膨大な呪力がひとつの球体に集約されていく。〈ベリュウス〉は即座に身をよじり、その攻撃から逃れようとした。しかし、なにもかも遅かった。
つぎの瞬間、蒼白い閃光が炸裂した。半球状の光が一瞬にして広がり、周囲のあらゆるものを無慈悲に飲み込んでいく。その光は、世界そのものを焼き尽くすかのような熱と輝きを放ちながら、やがて中心に向かって収束していった。
その直後、耳をつんざく轟音が空気を引き裂き、大地を震わせた。凄まじい爆発の力が戦場を根こそぎ吹き飛ばし、地表はめくれ、土砂や瓦礫が渦を巻いて空高く舞い上がる。熱波が押し寄せ、空気は歪み、視界は揺らめく炎のように揺れ動いた。
砕かれた岩石や粉砕された木々の破片が混ざり合い、熱と衝撃波により炎を帯びた灰色の濁流を作り出す。それはまるで荒れ狂う嵐のように空間を埋め尽くし、すべてを破壊していく。
一瞬の静寂のあと、爆心に向かって周囲のものが一斉に引き寄せられていく。爆縮の圧力が生まれ、引き裂かれた土砂、瓦礫、炎の残骸が渦を巻きながら爆心へと吸い込まれていく。そして、その圧縮が限界を迎えた瞬間――再び爆発が起こった。
溢れ出した膨大な呪力が大地を引き裂き、黒煙と土砂を巻き上げながら巨大な柱となって空高く伸びていく。その柱は上空でさらに膨れ上がり、やがて巨大なキノコ雲を形成する。天を貫くその破壊の象徴は、夜の闇に不吉な姿を刻みつける。
この恐るべき爆発の衝撃は、〈ベリュウス〉だけでなく、魔物に組み付いていた漆黒の獣すらも巻き込んでいた。焼け焦げた大地には、もはや何も残されていなかった。広大な原生林は、破滅と絶望のみが支配する汚染地帯へと変貌してしまう。
この爆発によって、戦場から撤退を試みていた複数の部隊が跡形もなく消滅した。千を超える部族の戦士たちは、痛みを感じる間もなく、一瞬にして姿を消した。その中には、砦に対する再襲撃を密かに画策していた者たちも含まれていた。結果として、意図せぬ形で砦を救うことになった。
夜空を覆っていた厚い雨雲は爆風によって引き裂かれ、月光が戦場を照らし出していた。焦げた大地の割れ目からは熱気が立ち上り、地中に埋もれていた遺跡の残骸が剥き出しなり、崩壊した建造物の残骸が散乱する。その廃墟の片隅、爆心地から遥か離れた砦の傍らに、ひとつの黒焦げた塊が転がっていた。
それは、かつて生き物であった何かの残骸だった。炭化し、焼け爛れ、骨と肉の境目すら曖昧になったその身体は、人の形をわずかに保ってはいたが、もはや動くことすらできない。
全身の皮膚はすでに剥がれ落ち、内部の組織がむき出しになって炭化していた。それは灰のように脆く、触れるだけで崩れ落ちるほどの状態だった。その死骸のような身体が微かに動くのが見えた。
指先を動かす程度の、ほんのわずかな動きだったが、それだけで黒焦げの指は脆く砕け、粉となって地面に散る。常人であれば意識を失うどころか、発狂していてもおかしくないほどの痛みが、その身体を絶え間なく苛んでいた。それでも、絶えることのない激痛に耐えながら、死んだはずの肉体が再び動き出す。
どこからともなく濃厚な瘴気が這い寄る。闇の中に溶け込むような黒い霧が、炭と化した肉にゆっくりと染み込んでいく。すると、まるで黒い血管が広がるように、壊死していた肉体の中を紫黒の脈動が走り、崩壊していた細胞を塗り潰していく。そしてゆっくりと、しかし確実に、死の淵から蘇るかのように失われた組織が再生を始めた。
骨が軋む音が聞こえる。砕け散った骨片が瞬く間に結合し、新たな骨格が形成されていく。炭化した筋肉の繊維が再び繋がり、腐肉のように剥がれ落ちていた皮膚が生え変わるように、ゆっくりと骨格を覆い尽くしていく。
その再生には恐るべき代償が伴った。新たに細胞が形成されるたび、肉体そのものが焼かれるような激痛が走る。じくじくと腐りかけた皮膚が剥がれ、再び生え、また剥がれる。内側から熱された鋭利な刃物で神経を抉るような痛みが延々と続き、身体を引き裂くような感覚が意識を鈍らせる。
その痛みのなか、意識の底から何かが這い出してくる。憎悪とも、憤怒とも言い難い、形容しがたい感情が黒い泥のように脳裏を満たしていく。それが何に対する怒りなのか、それすら分からない。ただ確かなのは、その怒りが果てのない深淵から湧き上がり、冷たく研ぎ澄まされた殺意へと変貌していくことだった。
やがて身体の再生は次の段階に入っていく。新たに再構築された肉体は、かつてのそれとは異なるものになっていた。剥き出しの皮膚は次第に黒い鱗に覆われ、瞑色の羽に包まれながら、闇に溶け込むような姿へと変貌していく。
そして人とも、獣とも異なる異形がゆっくりと立ち上がる。痛みはまだ残っていた。むしろその痛みこそが、獣の存在を構成する核のように思えた。荒廃した戦場を見渡したあと、頭上の空を見上げる。
そこには、爆発の余波によって生み出された巨大なキノコ雲が聳え立っていた。その雲は雷電をまといながら不気味な輝きを放ち、月明かりに淡く照らし出されていた。
視線を下げると、陥没した大地の遥か向こうで、夜空が赤々と染まるのが見えた。炎の化身〈ベリュウス〉は、まだ生きているようだ。混沌の存在を認識した直後、徐々にその身体は変化していき、再び漆黒の獣へと姿を変えていった。




