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恐るべき混沌の魔物〈ベリュウス〉と、得体のしれない漆黒の獣が激しい戦闘を繰り広げるなか、砦の中央広場に集まった者たちは不安げに戦闘の轟音に耳を澄ませていた。大気を震わせる衝撃音が遠くから断続的に響き、地底から伝わる振動が足元を揺らすたび、死の恐怖が脳裏をよぎる。
広場に面した詰め所や食堂には、いまだ複数の負傷者が横たわっていた。そのなかには重傷を負ったラファも含まれている。塔の崩壊を恐れた者たちは外に避難していて、広場には守人だけでなく、建設隊や世話人たちの姿もあった。焦燥を押し隠しながらも、それぞれが自分の役割を果たそうと動いていた。
と、そのときだった。空が眩い光に包まれた。まるで昼間のような強烈な輝きがすべてを照らし出し、影という影を消し去る。直後、凄まじい衝撃波が砦全体を襲った。防壁の内側にいるにも拘わらず、空気が爆ぜ、地面が軋む。塔の壁面が震え、あちこちで瓦礫が崩れ落ちる音が響いた。戦闘の余波は確実に砦の中心部にまで達していた。
そこにルズィとヤシマ総帥が古参の守人たちを連れて戻ってきた。激しい戦闘で彼らは満身創痍に見えたが、それでも広場にいた者たちの顔には安堵の色が浮かぶ。しかしルズィの表情は暗い。ヤシマ総帥も無言で広場を見回し、素早く状況を確認していく。その間、ルズィは撤退の準備を進めるように命じる。
混沌の勢力に〈境界の砦〉を占拠されることになり、瓦礫に埋もれてしまった地底の入り口に近づくことも許してしまうが、他に選択肢はなかった。もはや持ちこたえられないと判断した場合には、皆の命を優先し、速やかに砦を放棄するほかない。
遺物や貴重なモノを荷車に詰め込んだあと、〈石に近きもの〉でもある武具師や負傷者たちを安全に移動させるため、世話人たちに駄獣で車を引かせる準備を指示する。厩舎は〈混沌の先兵〉が襲撃してきたさいに壊滅的な被害が受けていたが、幸いなことに数頭の〈ヤァカ〉が倉庫まで物資を運んできていて難を逃れていた。
これからは時間との勝負だった。しかし焦ればすべてを失う。慌てず、的確に動くことが求められた。ルズィは皆に作業に集中するよう頼み、守人たちは避難経路になる排水路の確保に奔走することになった。
ヤシマ総帥は数人の守人に声をかけると、敵の侵攻を防いでいた防壁へと向かう。そこには結界を維持するため、孤軍奮闘する照月來凪の姿があった。彼女を護衛する武者たちによるものなのだろう。周囲には無数の〈クァルムの子ら〉の死体が横たわっていた。それを目にした総帥は溜息をつく。いよいよとなれば、彼女を連れて脱出しなければならない。
ヤシマ総帥の姿を目にした八元の兄弟は、思わずその場に片膝をつき、深々と頭を下げた。総帥は彼らの主君ではなかったが、武家として名高い〈照月家〉に忠誠を誓う武士の間で、総帥の名を知らぬ者はいなかった。
総帥が照月來凪のとなりに立つと、彼女は一度目を伏せて、それから激しい戦闘が繰り広げられている戦場を見ながら言う。
「あれは……アリエルです。私たちのために、その身を犠牲にしています」
ヤシマ総帥はうなずくと、混沌を屠るためだけに生まれた哀れな獣を見つめた。
その戦場では、隕石のように無数の瓦礫が降り注いでいた。右も左も分からないほどの混乱の中、戦狼のラライアは瓦礫の間を縫うように駆けていた。
戦場の空気は灰塵に満ち、視界を遮るほどだった。散乱する瓦礫を跳び越えながら、崩壊の波を逃れるように走っているときだった。彼女の目の前を並走していた狼の頭上に、凄まじい勢いで石柱が落下した。
轟音とともに巨狼の身体が押し潰される。骨が砕け体液が飛び散る音と、地面が揺さぶられる感覚に思わず脚を止める。あまりにも突然の出来事に、ラライアは反応できなかった。群れの勇敢な戦士が瞬く間に瓦礫の下に消えゆく様を、ただ無力に見つめることしかできなかった。
灼熱の塊が視界の端で弾けたのは、ちょうどそのときだった。〈ベリュウス〉が放った複数の〈火球〉が飛んできて、彼女の背後にある塔に直撃する。熱風が肌を灼き、爆発の衝撃で足元の地面が揺れた。つぎの瞬間、破壊された塔の一部が空から降り注いだ。そのうちのひとつが、瓦礫を避けようとしていた彼女の脚を直撃した。
神経を抉るような痛みが脳を貫く。岩に挟まれた脚は動かず、焼けるような感覚とともに鈍い痛みが全身を支配する。けれど、ここで立ち止まっているわけにはいかない。爪を立て、何とか瓦礫から抜け出そうと試みる。焦る意識の端で、空気を裂くような破砕音が聞こえた。上方を見上げると、無数の瓦礫が降ってくるのが見えた。
咄嗟に身体を丸め、戦狼の姿から人の姿に変化する。四肢の自由を取り戻した瞬間、転がるようにして瓦礫の直撃を避けた。けれど安堵している余裕はなかった。塔の瓦礫の隙間から、異様な気配が滲み出る。
やがて崩れた石の間から〈クァルムの子ら〉の呪術師が姿をあらわした。血に汚れた包帯から除く顔には狂気じみた笑みが浮かび、手のひらに禍々しい呪印を浮かべている。崩落に巻き込まれながらも生き延びたのか、それとも地下に潜んでいたのか、それを考える時間はなかった。彼女は本能的に戦闘の構えを取る。
その瞬間、荒々しい足音とともに影が割って入る。巨大なオオトカゲが瓦礫を蹴散らしながら跳びかかり、そのまま呪術師の頭部に噛みついた。刃物のように鋭い牙が頭蓋を貫き、鈍い破裂音が響く。黒い血が飛び散り、呪術師の身体が力なく崩れ落ちる。
そのオオトカゲの背にはシェンメイが乗っていた。彼女はラライアに向かって素早く手を差し出し、そして叫んだ。
「掴まれ!」
ラライアがその手を掴むと、強い力で一気に引っ張り上げられ、〈ラガルゲ〉の背に乗せられる。身体中に痛みがじくじくと広がるが、今は気にしている暇はない。シェンメイが手綱を引くと、オオトカゲは瓦礫を蹴り、戦場の混沌のなかを疾走していく。
その頃、燃え盛る戦場に立っていた豹人の姉妹も、もはや体力の限界を迎えようとしていた。戦いの中で大量の呪力を消費し、リリは地面に膝をつけているような状態だった。それでも、上空から降り注ぐ岩漿をかろうじて避けながら、必死に生き延びようとしていた。しかし倒壊した塔の瓦礫が彼女たちの前に立ちはだかり、逃げ道が断たれてしまう。
絶望に襲われ眩暈がした瞬間、轟音とともに大気が揺れた。視線を上げると、夜空を裂くように〈ベリュウス〉の巨体が降ってくる。そのまま凄まじい勢いで地面に衝突し、粉塵が立ち昇る。
〈ベリュウス〉は全身傷だらけで、体液を滴らせながらも、その目は怒りに燃えていた。憤怒のままに立ち上がると、獲物を求めるように視線を巡らせる。その眸が、瓦礫の前で立ち往生する姉妹を捉えた。
つぎの瞬間、炎をまとった腕が振り上げられるのが見えた。そして巨大な拳が、姉妹に向かって容赦なく振り下ろされる。ふたりは抵抗する力もなく、ただ互いを抱きしめることしかできなかった。しかし、その拳がふたりに叩きつけられる直前、腕の動きが突如として止まった。
〈ベリュウス〉の腕に絡みつくように黒い影が伸びていた。その影は、まるで生き物のようにスルスルと動き、腕をしっかりと拘束していた。影のベレグが間一髪で〈影縫い〉を使い、その動きを封じたのだ。
その一瞬の隙を突くように、漆黒の獣が恐るべき速度で飛び込んできた。音すら置き去りにするほどの速さで接近し、全身の勢いを乗せた一撃を叩き込む。〈ベリュウス〉の巨体は圧倒的な衝撃で吹き飛ばされ、瓦礫を巻き込みながら地面に叩きつけられる。
姉妹の命の危機は去ったが、留まることはできない。ベレグは彼女たちに向かって短く叫ぶ。「こっちだ!」
姉妹は力を振り絞り、震える足で立ち上がる。道はない。逃げ場もない。それでも、まだ生きている。炎と瓦礫が支配する戦場のなか、姉妹は歩き続けた。
戦場の混乱の中、生き残った者たちは結界が張られた防壁を目指して移動していた。その背後では〈ベリュウス〉と漆黒の獣の戦いが凄まじさを増し、戦場全体を巻き込む激闘へと変貌していた。
巨体同士が空中で激突し、衝撃波が周囲を飲み込む。震える大地、巻き上がる砂塵、宙を舞う瓦礫。〈ベリュウス〉は、その瓦礫に大量の呪力を注ぎ込んでいく。途端に赤熱し、瞬く間に岩漿へと変化していく。そしてそれを、矢の雨の如く漆黒の獣に向かって撃ち放った。
熱を帯びた空気が焼け焦げ、夜空を覆い尽くしていた厚い雲を割っていく。漆黒の獣は俊敏に身を翻し、翼を素早く折りたたみながら急降下し、無数の岩漿を次々と躱していく。そして降下の勢いそのままに、〈ベリュウス〉に渾身の体当たりを叩き込んだ。
雷鳴のような轟音が大地を震わせた。衝撃で〈ベリュウス〉の巨体は弾かれるように吹き飛び、地面を抉りながら遠くの森に突進していく。その激突で地表は割れ、飛び散る炎と砂煙が辺り一面を覆い尽くした。さらに、魔物の身体から噴き出した業火が森の木々に燃え移り、次々と猛々しい炎が立ち昇っていく。
炎が渦巻く森の奥で、なおも戦いは続いていた。漆黒の獣が猛然と飛び込み、炎に包まれた〈ベリュウス〉に止めを刺そうとする。だが、魔物はすでに迎撃の構えを取っていた。次の瞬間、炎を纏った拳が炸裂し、漆黒の獣の頭部を激しく打ち据える。その一撃は凄まじい威力を持ち、漆黒の獣の巨体を遥か遠くに吹き飛ばした。
木々をなぎ倒しながら転がっていき、姿が見えなくなるほどの距離まで飛ばされる。ようやく止まったとき、獣は顎を失くし、手足は折れ、身体のあちこちが引き裂かれ、脇腹には折れた幹の一部が深く突き刺さっていた。けれど、目の前に屠るべき混沌が存在する限り、それが終わりを意味することはなかった。
濃厚な瘴気がゆらめきながら獣の周囲に集まり、その身体に取り込まれていく過程で呪素に変換されていく。すると、見る見るうちに砕けた骨がつなぎ合わされ、引き裂かれた肉が蠢きながら膨張し、元の形を取り戻していった。
獣は羽の間から血液を滴らせながらゆっくりと身体を起こすと、脇腹に突き刺さっていた幹を引き抜きながら立ち上がる。そして深紅の眸で、赤々と燃え盛る〈ベリュウス〉を睨みつけた。




