92〈黒き獣〉
戦場が重苦しい空気に支配されていくなか、混沌の魔物〈ベリュウス〉は、巨体を揺らして瓦礫を払い落とすと、炎をまといながら再び動き出した。負傷の影響か、その動きはどこかぎこちなかったが、それでもなお恐るべき生命力を感じさせた。全身に走る亀裂からは瘴気が黒煙のように漏れ出し、周囲の空間さえも歪めていく。
その姿を見た守人たちは絶望し、諦めにも似た表情を浮かべて互いを見つめた。戦狼を率いていたラライアが、それでも果敢に突撃の合図を送ろうとした時、場の空気が急激に変わった。肌を刺すような冷気が戦場全体に広がり、耳鳴りのような低い振動音が大地から響き渡った。
炎をまとう〈ベリュウス〉もその異変を感じ取ったのか、動きを止め、黒い瘴気で身体を覆うようにして防御の体勢を取る。
その瞬間、金属音のような甲高い響きとともに衝撃波が広がり、崩れかけていた塔が音を立てて崩壊した。粉塵が立ち昇るなか、異様な獣がその中から姿をあらわした。
ソレは戦狼よりも大きく、つめたく圧倒的な威圧感を放つ存在だった。全身は瞑色の艶やかな羽毛に覆われていて、まるで星のない夜空を思わせる暗い青黒に染まっている。周囲の炎の光をわずかに受けながら、薄闇の中に不気味に浮かび上がるその姿は、実在のものとは思えないほど異質な印象を与えた。
頭部はオオカミに似ていたが耳は大きく、長く尖った口吻を持っていて、より攻撃的で、より獰猛な狩人の相貌を形作っていた。身体を支える四肢は太く筋肉質で、羽の隙間から覗く硬い鱗は、まるで鋼鉄が編み込まれたような密度で体表を覆っている。それは、どんな攻撃も寄せ付けない圧倒的な防壁として機能しているように思えた。
刃物のように鋭利な牙や爪は、肉や骨のみならず、鎧や武器すら容易に引き裂けるほどの威圧感を放っていた。
その漆黒の獣は、翼の感覚を確かめるように巨大な翼を広げた。闇の中で花が咲くように広がった翼は、神秘的でありながらどこか不気味さを漂わせていた。骨格をなぞるように硬質な羽が並び、鈴の音にも似た澄んだ響きを奏でた。それから獣は、長い尾をしなやかに揺らしながら、ゆっくりと翼をたたんでいく。
深紅の瞳がわずかに明滅する。その視線は獲物を狙う捕食者のそれに近い。頭をわずかに動かすたび、微細な光の残像が軌跡を描き、視線そのものに何か異質な力が宿っているかのように感じさせた。異様な獣は、その異質な眸で〈ベリュウス〉を見つめていた。
それがどのような存在なのか、何の目的で砦にあらわれたのか、それは誰にも分からない。ただひとつ確かなのは、この漆黒の獣が膨大な呪力をその身にまとい、戦場に新たな脅威をもたらすということだった。
誰もが息を呑み、戦いを忘れ、ただその存在に圧倒されていた。奇妙な静寂が広がっていくが、それは迫りくる嵐の前のひと時の沈黙にすぎなかった。
そして獣の咆哮が戦場に響き渡る。どこか寂寥とした響きを持ち、まるで長い孤独の果てに生まれた怨嗟のようでもあった。闇を裂くように放たれた声は、空間そのものに染み込むように広がっていく。
防壁の上で結界を維持していた照月來凪は、その咆哮に宿る呪力の残滓に微かな違和感を覚えた。決して知らない感覚ではない、どこかで感じたことのある気配。それが何であるのか、即座に思い出せないまま、彼女は本能的に〈千里眼〉の能力を発動する。視界が白黒に染まり、肉眼では捉えきれない世界が広がる。
そうして彼女の視界に映ったのは、異質な獣の姿だった。夜闇のような瞑色の羽毛に覆われた巨体。鋭く引き締まった筋肉に、異様な光を放つ深紅の瞳。動くたびに空気が軋むような呪力の波動が身体中から放出されていた。ただの獣ではない。そこに宿る力は、あまりにも強大で、あまりにも禍々しい。
そこで照月來凪は息を呑んだ。冥界すらも映し出す〈千里眼〉が捉えたのは、恐るべき獣が内包する異質な力だけではなかった。その獣の奥にある存在までもが、彼女の意識に入り込んでくる。
それは確かに慣れ親しんだ気配だった。敵であるはずのない誰かの気配が、獣の奥深くで微かに息づいているように感じられた。しかし、それは暗く邪悪な意識の底に沈み込んでいて、あまりにも微かで、今にも消え去ってしまいそうなほどに儚かった。
それが誰のものなのか、確信を持つには時間が足りなかった。突如として結界に異変が生じる。強烈な衝撃が押し寄せ、呪力の奔流に襲われ照月來凪は即座に〈千里眼〉を解除し、崩れかける結界に全呪力を注ぎ込む。彼女の脳裏には、あの漆黒の獣の姿が焼き付いていたが、答えを求める余裕はない。今はただ、襲い来る混沌に抗うしかなかった。
最前線では、漆黒の獣が動きだしていた。その動きは異様なほど速く、視線で追いきれないほどだった。強靭な四肢で地を蹴るたび、戦場に散らばる瓦礫が弾け飛び、地面には深い亀裂が走った。獣の身体が巻き起こす風圧は、灰と粉塵を巻き上げ、燃え盛る炎の中にその軌跡を刻み込んでいく。
つぎの瞬間、ソレは〈ベリュウス〉の眼前に姿をあらわす。あまりにも突発的で、まるで瞬間移動でもしたかのような錯覚を抱くほどだった。〈ベリュウス〉が反応するよりも早く、漆黒の獣の腕が振り上げられた。分厚い筋肉が引き締まり、空間を歪ませるほどの圧力が拳に凝縮される。そして一気に振り下ろされる。
重い一撃が〈ベリュウス〉の頭部に叩きつけられる。鈍い衝撃音が響いた直後、魔物の巨体が宙を舞った。鋭い爪で切り裂かれた皮膚が裂け、内部から灰混じりの体液が噴き出す。しかし、それで終わりではなかった。
吹き飛ばされた〈ベリュウス〉が地面に触れる前に、獣はすでに次の動きを開始していた。その巨躯が再び消えたかと思うと、つぎの瞬間には〈ベリュウス〉の傍らに出現していた。
そして咆哮とともに首元に喰らいつき、そのまま顎の力だけでその巨体を持ち上げると、首を振りながら〈ベリュウス〉の巨体を宙に放り投げた。
燃え盛る魔物が重力に抗うように軽々と宙に浮き上がる。その異様な光景の中、漆黒の獣の眼前に突如として眩い発光体が出現した。それは人の背丈を超えるほどの球体だったが、圧縮されるようにして急速に縮小していった。
赤から黄色、そして青白く変化していくなかで異常な密度の呪力を凝縮させていった。最終的に拳ほどの大きさまで縮小すると、その存在だけで周囲の空気が震え、渦巻く呪力の奔流がすべてを圧倒した。
漆黒の獣は、狙いを定めるように一瞬だけ静止する。そして次の瞬間、その圧縮された魔弾が撃ち放たれた。空間を引き裂く甲高い音が響き、発射された魔弾は〈ベリュウス〉に向かって一直線に突き進む。
着弾と同時に凄まじい爆発が上空で発生した。白熱する閃光が戦場を昼のように染め上げ、爆風が衝撃波となって周囲に拡散する。聳える廃墟の塔は次々と崩壊し、舞い上がった瓦礫が砂嵐のように辺りを覆った。地響きは鳴り止まず、灰と炎、塵が入り混じる戦場で、誰もが吹き飛ばされないように必死に何かにしがみついていた。
そうして戦場に張り詰めたような静寂が訪れる。瓦礫と塵が風に流されていくなか、その静寂を破るように何かが上空から落下し、砕け散った廃墟の上に叩きつけられた。轟音とともに土砂と瓦礫が空高く舞い上がり、周囲に濛々(もうもう)とした粉塵を撒き散らす。
その塵の中から、瓦礫を押しのけるようにして巨体があらわれる。〈ベリュウス〉だった。あれほどの膨大な呪力を受けたというのに、なおも生きていた。しかし、その姿は惨憺たるものだった。全身が傷だらけで、装甲のように硬質だった体表は引き裂かれ、黒ずんだ体液が絶え間なく流れ出していた。
裂傷の間から見える赤黒い筋繊維は脈動し、呼吸に合わせて明滅していたが、以前よりも弱々しい。脚はわずかに震えていたが、それでも崩れ落ちることはなかった。
〈ベリュウス〉はゆっくりと首をもたげ、目の前に悠然と立つ漆黒の獣を見据える。恐るべき魔物の眼には、痛みと怒り、それに恐怖に似た感情が浮かんでいるようだった。
その鋭い視線を受けても、黒き獣は一切の反応を示さない。ただ静かに佇み、圧倒的な威圧感とともにそこに存在しているだけだった。あれほどの呪力を放出しながらも、その身体に消耗の兆しすら見られなかった。揺るぎない姿勢のまま、深紅の瞳で獲物を見つめていた。