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ルズィは、長く暗い階段をゆっくりと下りていく。冷たい空気が頬を刺し、地下独特の湿り気を帯びた臭いが鼻を突く。足を進めるたび、どこか遠い場所から微かな打撃音が聞こえてくる。奇妙な音だったが、気にせず進むと鉄格子の扉が見えてくる。
しかしそれは、もはや扉の体を成していなかった。鋼鉄の格子は大きくひしゃげ、無理やりこじ開けられたように捻じ曲がっている。並の力ではない。恐るべき膂力を持つ者によって破壊されたのだろう。
その鉄格子には気色悪い粘液がべっとりと付着している。黒光りするその液体はゆっくりと滴り落ち、吐き気を催す臭いを発していた。周囲には小さな怪物の死骸が転がり、その多くが矢で射抜かれて絶命していた。通路を守っていた守人たちの仕業だろう。矢の先は黒く変色し、怪物の血に濡れていた。
死後硬直がみられる死骸を跨ぐようにして、ルズィはさらに通路の奥に足を進めた。地下通路は深い闇に閉ざされていた。壁掛けの燭台はすでに火が消え、代わりに焦げた油の残り香が漂っている。
ルズィは白い息を吐き、片手を軽く振るようにして〈灯火〉を浮かべる。淡い光を帯びた小さな発光体が浮かびあがると、それは薄暗い通路の先に飛んでいく。青白い光が闇を照らし出し、通路の先に横たわる無数の死骸を浮かび上がらせる。
そこにあったのは、小さな怪物の死骸だけではなかった。倒れた守人たちの亡骸も混ざっていた。刃で切り裂かれ、あるいは凄まじい力によって握り潰されたかのように変形した死体が確認できた。
血溜まりが床に広がり、壁や天井にまで飛び散った痕跡がある。守人たちは最後まで通路を守ろうとしたのだろう。破壊された盾、折れた刀、潰れた兜。それらが守人たちの激戦の結末を物語っていた。
ルズィは沈黙したまま歩を進めた。やがて見えてきたのは、かつて厳重に閉ざされていた地下牢の出入り口だった。分厚い扉は破壊され、無残に崩れ落ちている。その奥には砦の地下深くに続く洞窟の入り口が見えていた。そこから漂ってくるのは、地底から吹き込んでくる瘴気の混じった空気だ。
やはり〈クァルムの子ら〉の狙いは、地底に眠る都市遺跡なのだろう。ルズィは苛立ちを押し殺しながら慎重に足を進め、血溜まりの中に沈む死体に注意しながら地下牢に入っていく。
すぐに血と腐臭が入り混じった異様な臭気が鼻を突いた。すでに死後しばらく経った死骸があちこちに散乱し、肉が腐敗し始めたものもあれば、比較的新しい死体もあった。斬撃や刺突の痕が残るものもいれば、体内から爆ぜたように内側から破裂した死体もある。
地下牢でも激しい戦いが行われていたのだろう。しかしそれらの無残な死骸よりもルズィの神経を逆撫でしたのは、通路の奥から絶え間なく響いてくる鈍い打撃音だった。
振動が足元を震わせ、時折、頭上から塵が降ってくる。何かが恐るべき力で壁に衝突している。ルズィは警戒を強めながら歩を進め、やがて洞窟に続く廊下に入っていく。地底につながる唯一の進入路だったが、建設隊によって壁が築かれ、通路は厳重に封鎖されていた。その壁は崩壊の危機に瀕していた。
〈灯火〉を消し、気配を消しながら進んでいくと、壁に猛然と体当たりを繰り返す複数の〈クァルムの子ら〉の変異体が見えた。もはや怪物と呼ぶのすら生易しい、悍ましい混沌の化け物と化していた。人の面影はなく、異形の獣に変貌を遂げ、肥大化した四肢や捻じれた骨を軋ませながら壁に激突し続けていた。
しかしその肉体はすでに限界を超えていた。皮膚は引き裂かれ、むき出しになった筋肉が壁との衝突のたびに裂け、黒々とした体液を撒き散らしていた。骨が折れるような嫌な音が聞こえてくるが、変異体は倒れなかった。折れ曲がった肢体を引きずるようにして再び壁に突進し、その度に壁の表面にグシャリと肉片がこびりついていく。
その傍らには、呪術師らしき〈クァルムの子ら〉が立っていた。黒い外套は無数の骨で装飾、あるいは補強され、頭蓋が剥き出しになった異様な横顔が見えた。沈黙したまま壁を睨んでいるが、ただの傍観者ではなかった。長く骨ばった指の先に呪文らしき模様が浮かんでいるが、効果は見られなかった。
建設隊によって築かれた壁の芯には、呪力を無力化する鉄の棒が埋め込まれていたので、それが彼の術を阻んでいたのだろう。その苛立ちを隠すことなく、忌まわしい呪術師は短く唸ると、なおも変異体に壁を破壊するよう命じていた。
ルズィは静かに息を整えた。ここを突破されてしまえば、敵は地底の遺跡に侵入する。それだけは阻止しなければならない。
通路の薄闇に溶け込むようにして立っていた呪術師は、異様な風貌をしていた。これまで見てきた〈クァルムの子ら〉の特徴的な笠は見られず、剥き出しの頭部には無数の感覚器官が生えていた。それらはまるで瞳のように、ぎょろりと独立して動きながら、周囲の呪力の流れや気配を探っているように見えた。
黒い外套に包まれた胴体は異様に細長く、天井に頭が届きそうなほど背が高い。肩幅こそ狭いが、外套の隙間から覗く腕は四本あり、それぞれの指先が痙攣するように動いているのが確認できた。
背中からは甲虫の触覚を思わせる器官が複数伸び、ゆらゆらと鞭のようにしなっている。その動きは神経質で、絶えず周囲の状況を探るかのようだった。ただの変異体ではない。意思を持ち、理性を保ったまま変質した特異な変異体だった。砦に対する襲撃を指揮している〈クァルムの子ら〉だろうか?
ルズィは腰に差していた短剣を抜くと、息を潜め、静かに異形との距離を詰めていく。けれど、そこで予期していなかったことが起きる。
すさまじい揺れとともに、轟音が地下通路を揺るがした。天井から細かい石片が降り注ぎ、石壁が不吉な音を立てて軋む。地上で何かが起きたのだろう。ほんの一瞬だったが、総帥の気配を感じたような気がした。
天井から視線を戻したときだった。呪術師の無数の感覚器官がルズィの位置を捉えた。その瞬間、すべての眸が一斉に収束し、ルズィに向けられる。おぞましく、それでいて確かな知性を感じさせる眼だった。
『守人よ。我々は敵ではない』
しゃがれた低い声が通路内に響く。まるで邪悪な呪文を紡ぐかのような声に、思わず鳥肌が立つのを感じた。
ルズィはわずかに目を細めた。呪術師が何を企んでいるのかは分からない。けれど敵ではないという言葉を真に受けるほど愚かではない。それに存在を気取られた以上、隠れている意味はない。そう判断し、短刀を収めながらゆっくりと物陰から姿をあらわした。異様な気配を感じたのは、ちょうどそのときだった。
通路の奥から、別の呪術師が姿をあらわした。それは目の前にいる呪術師と同じくらい背が高く、全身を覆い隠せるほどの外套を身にまとっていた。
ルズィの注意を引いたのは、その異様に長い腕だった。得体のしれない呪術師は、グシャグシャに潰れた守人の死体を引きずりながら近づいてきていた。敵ではないと言葉で取り繕おうと、彼らが敵であることに疑いの余地はなかった。
ルズィは相手の動きを冷静に見極めながら、ゆっくり腰を落として両刃の剣を抜いた。鞘から滑り出た刀身はほのかな光を受けて鈍く輝く。彼の指先が刀身を撫でるように動くと、青白い炎が刃を包み込んでいく。その炎は静かに揺らめきながら、周囲の闇を微かに照らし出していく。
目の前の呪術師は動かず、無数の感覚器官を蠢かせながら、静かにルズィのことを観察していた。その背後で守人の死体を引きずっていた呪術師もゆっくりと歩みを止める。
呪術師たちの意図は掴めないが、洞窟への侵入を許すわけにはいかない。ゆっくり息を吐き出しながら、刀身をわずかに傾けた。青白い炎が刃を縁取るように揺らめき、その光が彼の鋭い眼差しを浮かび上がらせる。




