表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 後編
391/500

88〈鬼神〉


〈ラガルゲ〉の背に揺られながら前線を離れていたルズィだったが、突然オオトカゲの背から飛び降りる。着地の瞬間、足元の血溜まりが撥ねて腐臭が鼻を突いた。彼の突然の行動に驚いたシェンメイは、すぐに手綱を引いてオオトカゲの向きを変えた。獣の筋肉がしなり、大回りしながらルズィのもとに戻る。


「どうしたんだ?」

 シェンメイが問いかけると、ルズィは真剣な面持ちで彼女を見つめる。


「俺はここに残るよ」

 その言葉には揺るぎがなかった。それから彼は手をかざし、手のひらに小さな炎を浮かべる。炎のゆらめきは戦場を包み込む業火に比べれば儚く、頼りないものに見えた。


「残念だけど、俺の力は〈ベリュウス〉との戦いでは役に立たない」

 そう言いながら、彼は炎を握りつぶすようにして消した。


 ルズィは炎の呪術に長けていたが、混沌の魔物〈ベリュウス〉は、炎の化身かのように振る舞っている。ルズィがどれほど優れた炎の呪術師でも、あの化け物に効果的な攻撃を与えられるとは思えなかった。


「じゃあ、あんたはどうするつもりなんだ?」

 シェンメイの言葉にルズィはわずかに目を細め、大通りの先に視線を向ける。


「気になることがあるんだ」

 その視線の先には、瓦礫と死骸が散乱する建物があった。小さな怪物たちの無残な死骸が累々と積み重なり、堅牢な扉は無残に破壊されていた。砦の地下に続く出入り口でもあった。敵はそこから地下へとなだれ込んだのだろう。


「シェンメイはアリエルたちの援護を頼む。助けを必要としているはずだ」

 ルズィはそれだけ言うと、建物に向かって歩き出した。


 シェンメイはどうするべきなのか躊躇(ためら)ったが、戦場は混沌のただ中にあり、ルズィと無駄な議論をしている余裕などなかった。彼女は苛立たしげに舌打ちしながら手綱を引いた。〈ラガルゲ〉は小さな唸り声をあげると、地を蹴るようにして砦の中心に向かう。


 ルズィは彼女の背を見送ることなく、死骸が転がる建物の前に立つ。つめたい風が吹きつけると、厚手の毛皮がわずかに揺れた。


 扉の先には、薄汚れた石の階段が闇の淵へと続くように口を開けているのが見えた。血の臭いと、湿り気を帯びた冷気が地の底から這い上がってくるようでもあった。どこかで水滴が落ちる音を耳にしながら、ルズィはゆっくりと階段を下りていった。


 その頃、〈クァルムの巨竜〉と対峙していたヤシマ総帥は冷静に戦況を見極めながら、古参の守人たちに後退を命じた。彼らは長年にわたって混沌との戦いを生き抜いてきた精鋭だったが、目の前に立ちはだかる〈クァルムの巨竜〉三体を相手取るには力不足だった。


 それに、総帥自身も周囲を気にしながら戦う余裕はなかった。守人たちは一瞬の逡巡のあと、総帥の意図を察して即座に前線を離れていく。


 守人たちが離れたことを確認すると、総帥は肩にかかる厚手の毛皮のマントを無造作に脱ぎ捨てた。空気が張り詰めていくなか、体内で練り上げていた呪素(じゅそ)を解放していく。すると周囲の大気が揺らぎ、濃厚な瘴気によって空間そのものが歪むように見えた。


 その瘴気の中で総帥が変化していくのが見えた。身体はひとまわりも大きくなり、骨が軋み、筋肉が隆起していく。黒衣はその急激な変化に耐えられず、裂け目が生じて破れ落ちていく。


 鋼のごとく引き締まった上半身が露わとなる。赤黒く染まった肌は、人間のそれとは異なる硬質な質感を帯び、まるで甲冑のようにも見えた。筋肉の隆起に合わせて血管が脈打ち、内に秘められた膨大な呪素が滲み出ているようでもあった。


 額から突き出した二本のツノも、これまでとは異なる変化を遂げる。それは鹿のツノのように枝分かれし、ねじれるように成長しながら太く伸びていく。それはまるで王の冠のように、威厳と恐怖を兼ね備えた象徴だった。


 その瞳に、もはや人間らしさはなかった。白目すらも黒く染まり、瞳孔は狭まりながら金色に明滅し、深い闇を宿した双眸が戦場を睥睨(へいげい)する。それでも、その眼差しからは確かな理性が感じられた。冷静に敵を見極め、力を制御する意思だ。


 膨大な呪素に反応し大気が震え、地面が微かに揺れる。総帥は腰を落とし、金棒を肩にかつぐ。その動きには一切の無駄がなく、獲物を狙う獣のように静かに息を潜め、感情が爆発する瞬間を待ち構えているかのような圧倒的な重圧で周囲を支配した。


 その気配にあてられたのか、〈クァルムの巨竜〉は動きを止めた。異形の化け物でありながら、本能的に悟ったのかもしれない。今、目の前にいる存在はただの獲物ではないのだと。


 ヤシマ総帥の眸に映るのは、猛然と突進してくる巨竜の姿だ。強靭な筋肉を震わせ、恐るべき四肢で地面を抉りながら迫る。鋭利な牙が並ぶ巨大な顎が開かれ、総帥の身体を咬み砕こうとする。


 その瞬間、総帥は一歩、前に踏み出した。足が地を踏みしめると同時に、衝撃に耐えきれずに地面が割れ、放射状の亀裂が走る。その圧倒的な呪力に、空気すら張り詰めた。


 つぎの瞬間、総帥の金棒が目にも止まらぬ速さで振り抜かれる。振り下ろされたその一撃は巨竜の頭部を捉え、骨も肉も、何もかもまとめて粉砕した。衝撃は爆発的に拡散し、頭部は血飛沫とともに四散する。巨竜の巨躯が揺らぎ、黒々とした血液が噴き出しながら倒れ込むかのように見えた。しかし、それでも動きは止まらない。


 巨竜は首を失ったまま身体は痙攣させ、もがくように地面を引っ掻く。そして攻撃を繰り出すべく、太く重厚な尻尾が唸りを上げる。空気を裂く一撃が総帥を捉えようとするが、その瞬間、総帥は地を蹴った。爆発的な跳躍で尾の軌道を外れると、すかさず金棒を両手で握りしめる。上空から見下ろす巨竜の巨体に狙いを定め、一気に振り下ろした。


 重力と筋力、そして呪力を乗せた一撃は、巨竜の背骨を中心から砕き、その身体を地面に叩きつける。大地が震え、骨が砕け、肉が裂けて破裂した臓器が飛び散った。血と体液の飛沫が戦場に降り注ぎ、腐臭が立ち込める。残骸と化した巨躯が地面に横たわり、ようやく動きを止めた。


 血とも膿ともつかない濁った体液がドロリと足元に溢れ出し、地面に触れた瞬間から蒸発し、吐き気を催す腐臭と濃密な瘴気を立ち昇らせていく。それは周辺一帯の土地を穢しながら広がっていく。


 総帥の身体は、その(けが)れた血にまみれて蒸気が立ち昇っていた。呼吸は荒く、先ほどの攻撃の反動で筋肉の節々が痛んだ。しかし痛みを意に介することなく、彼は視線を上げる。二体の巨竜が突進してくるのが見えた。両者ともに黒い鱗を震わせ、口からは毒のような瘴気が漏れ出ている。その巨大な爪が地を抉り、突進の勢いをさらに増していた。


 総帥は静かに腰を落とし、血に濡れた金棒を肩に担ぐ。その瞳には微塵の迷いも恐怖も存在しない。吹き荒れる呪力が彼の周囲で渦巻き、小さな怪物はその余波だけで吹き飛ばされ、身体をズタズタに引き裂かれていく。


 巨竜の突進を迎え撃とうとした瞬間、足元の死骸が痙攣した。不吉な蠢動(しゅんどう)が広がり、腐肉が歪み、粘ついた肉塊に変わっていく。


 それはまるで意思を持つかのように総帥の足を絡め取り、ドロリと崩れながら、黒く艶のある粘液を吐き出す。粘液は瞬く間に凝固し、足元に硬い膜を形成していく。総帥は足を取られ、動きを封じられてしまう。


 その刹那、巨竜の一体が眼前で身体を捻るのが見えた。凶悪な遠心力を加えた尻尾の一撃が空気を切り裂きながら叩き込まれる。拘束されたままの総帥に避ける術はなく、凄まじい衝撃に襲われる。


 轟音と共に彼の身体は宙を舞い、吹き飛びながら周囲にいた小さな怪物たちを巻き込んでいく。その衝撃だけで複数の怪物が潰れ、四肢や臓物が飛び散っていく。


 荒れ果てた地面に叩きつけられた総帥だったが、すぐに立ち上がり、血と肉片にまみれながら前方に視線を向ける。巨竜が再び突進を開始していた。戦場に響くのは地を踏み砕く轟音、そして巨体が生み出す唸りだ。しかし総帥は慌てることなく、攻撃の構えを取ろうとして、そこで気づく。手にあるはずの金棒を取り落としていたことを。


 けれど総帥は気にせず、ゆっくりと腰を落とした。そして居合斬りの構えのように、何もない腰元に手を添える。それはまるで、不可視の刃を握るかのようだった。


 直後、鏡が砕け散るような甲高い音が響き渡った。総帥の背後で空間が不気味にひび割れ、縦に亀裂が走る。その裂け目からは、神代に数多の混沌を屠ってきた巨大な〝鬼神〟の〈呪霊〉があらわれる。圧倒的な威圧感と共に異様な瘴気が広がり、周囲の空気を凍りつかせていく。


 巨人を思わせる巨躯は鎧のような硬質な皮膚に覆われ、その手に握られていたのは、恐るべき長大な刀だった。その名もなき巨人は総帥の構えと完全に同期していて、半透明な幽体でありながら確かな質量を持つように感じられた。


 二体の巨竜が間合いに入った瞬間、総帥は不可視の刀を抜き放つ。それと同時に、背後に立っていた鬼神も同じ動作を取る。刹那、膨大な呪力が収束し、鬼神の大太刀が一瞬だけ実体化する。そうして空間すらも断ち斬るかのような斬撃が放たれた。


 その瞬間、奇妙な静寂が訪れた。巨竜たちは獰猛な殺意を抱きながら駆けていたが、その静寂の中で横一閃に裂けていく。空間に走った深い亀裂が闇を覗かせ、肉体が崩壊していく。断面からは血と臓器が溢れ、絶叫する間もなく地に崩れ落ちた。


 その斬撃が生み出した衝撃波は凄まじく、巨竜の背後から迫っていた〈生ける屍〉と〈混沌の先兵〉の大群すらも両断し、広範囲に亘って森の木々を斬り倒しながら森の地形すら変えてしまう。


 遅れてやってきた衝撃音が雷鳴のように大気を震わせるなか、鬼神の〈呪霊〉は静かに消えていく。まるで最初から存在しなかったかのように。そして戦場に立っていたのは、返り血にまみれた総帥だけになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ