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森の闇から這い出す化け物の群れは、すでに見慣れていた乳白色の小さな怪物だけではなかった。〈クァルムの子ら〉もその肉体を異形へと作り変え、長く伸びた四肢と歪んだ骨格を持つ変異体に変わり果てながら砦に迫ってきていた。
その大群の中には、禁術によって操られる〈生ける屍〉の姿もあった。生者の面影をわずかに残したそれらの死骸は、かつてこの砦を攻撃しようとしていた蛮族の戦士や、正規軍から派遣された兵士たちの屍だった。
兵士たちの骸は、不自然な角度に折れ曲がった首や千切れかけた腕を揺らし、まるで自らの死を嘆くかのようにゆらりと立ち上がる。革鎧は裂け、肉は腐敗し、口からは腐敗液と呻き声が漏れ出る。すでに魂を失い、肉体を操られるだけの腐敗した人形と化している。
混沌の勢力と対峙する守人たちは、これまでにも幾度となくこれらの禍々しい敵と剣を交えてきた。しかし、これほど大規模な攻勢を経験した者は、歴戦の古参兵の中にもほとんどいなかった。若い守人たちの多くも命を失い、その一部は敵の手によって〈生ける屍〉へと変えられていた。
それでも、守人たちは剣を手放さなかった。死の恐怖が背筋を這い上がるのを感じながら、それでも戦い続けた。
砦に迫る骸の中に小さな影が混ざっているのが確認できた。近隣の集落から徴兵――あるいは誘拐されて戦地に連れてこられた子どもたちの変わり果てた姿だった。彼らもまた禁術の犠牲になり、魂を抜かれた操り人形と化していた。
血の通わぬ瞳で、かつての人間の記憶を微塵も残さぬまま、守人たちに向かってくる。その手には、あまりにも無力な短剣が握られていた。かつて誰かに与えられたであろうそれは、今や守人たちを傷つけるための凶器となっていた。
その戦いの最中、誰も言葉を発しなかった。怒号も、悲鳴も、戦場にはもはや必要なかった。ただ剣が振るわれ、炎が巻き起こり、怪物が焼き尽くされていく。守人たちは生きることを諦めなかった。呻きながら近づく屍の群れを焼き払い、斬り伏せ、何もかもを呑み込もうとするこの夜を、ただ生き延びるために戦い続けた。
その絶望的な夜闇の中、ヤシマ総帥は猛々しい咆哮とともに跳躍し、異形の群れの中心に躍り込んだ。その巨躯は土鬼の血がもたらす呪素の奔流によって膨れ上がり、隆起した筋肉は鋼のごとく強靭な赤色に染まっていた。彼の手に握られた巨大な金棒は、戦場の悪意そのものを粉砕するかのように唸りを上げ、つぎの瞬間、勢いよく振り下ろされた。
大地が軋み、震え、金棒の一撃が叩きつけられた地点から放射状に亀裂が広がる。爆発的な衝撃が土砂を巻き上げ、周囲にいた小さな怪物や変異体たちを空中に弾き飛ばした。
内臓が飛び散り、骨が砕け、かろうじて生き残った者も無残に引き裂かれながら落下する。地面はその衝撃に耐えきれず、湖面のように波打ちながら崩れ、戦場の地形すらも変貌させていく。
けれど、それでも敵の猛攻は止まらなかった。総帥が生み出した壊滅的な衝撃の先、戦場の彼方から新たな悪夢が起き上がる。堀を埋め尽くすように放置されていた腐乱死体が、一斉に蠢き始めたのだ。
命を奪われた瞬間の苦痛を再現するかのように痙攣しながら、死者がゆっくりと立ち上がる。崩れかけた顔から覗く濁った眼球が、総帥の姿を捉え、重苦しい唸り声を上げた。
総帥は一瞬たりとも迷わない。むせ返るような血の臭いと腐臭が入り混じる中、金棒を振り上げ地を踏み締め、迫りくる屍たちを迎え撃った。子どもの〈生ける屍〉であろうと、かつての守人だろうと関係ない。容赦なく振るわれた金棒は、群れを粉砕し、砕けた骨と血肉を地面に叩きつける。
無数の腕が総帥の肩を掴むが、そのまま力任せに振り払われ、宙を舞った死骸が地面に叩きつけられ、肉の塊に変わっていく。
それでも死者の波は止まらない。次から次へと異形の影が迫りくる中、総帥は戦場の最前で孤独に戦い続けていた。疲弊しきった守人たちを守るように、血飛沫にまみれながらも、ただ前だけを見据えていた。
砦の中心部が赤々と燃え上がり、昼間のように空を明るくしたかと思うと、轟音とともに大気が爆ぜて炎の奔流が夜空を焦がした。燃え盛る火柱は空を貫くかのように立ち上り、膨大な熱量を撒き散らしながら広がる。衝撃波と熱波は戦場を襲い、遠く離れた戦場に立つ総帥たちの周囲の大気を揺るがせた。
守人たちは衝撃で膝をつきそうになるが、即座に身を低くして踏みとどまる。砦の内部では何か恐るべき事態が進行しているのだろう。総帥は守人たちに視線を向け、それから勇猛果敢に戦うルズィに砦に戻るように指示を出す。
ルズィは敵の返り血に染まった顔を歪ませる。守人たちは今まさに、森から押し寄せる敵の大群と刃を交えていた。正面の敵を排除するだけでも困難な状況で、砦内部に戦力を割く余裕などない。しかしヤシマ総帥の言葉には迷いがなかった。戦場の混乱の中でも、彼は敵の動きを見極め、最も重要な地点がどこなのか理解していた。
ルズィが意を決し、守人たちに指示を飛ばそうとした瞬間だった。突然、どこからともなく強風が吹き抜ける。その冷たい風は異様な霧を運んでくる。それは青白い光の粒子を帯びた奇妙な霧で、辺りを覆うように拡散していく。
小さな怪物たちが霧に呑まれると、動きを止め、次々とその場に崩れ落ちていく。苦しむ様子もなく、まるで安らかに眠るように。
守人たちが異変に困惑しているなか、オオトカゲが戦場に飛び込んでくる。シェンメイだった。〈沈静〉の効果がある霧を撒き散らしながら、群れのなかを駆け抜け、呪術の効果範囲をさらに広げていく。
光の粒子を纏ったその幻惑の呪術は、戦場に充満する邪悪な瘴気を押し返しながら、敵の足を止めていく。この瞬間を逃す手はない。ルズィは正面から駆けてくるシェンメイに向かって手を伸ばすと、そのまま〈ラガルゲ〉の背に飛び乗ると、砦の中心部に向かって駆けていく。その背後では総帥が金棒を振るい、敵の猛攻を押しとどめていた。
やがて総帥は血にまみれた金棒を肩に担ぎながら、静かに戦場を見回した。シェンメイとルズィが安全に戦線を離脱したことを確認すると、僅かに息を整える。森の奥から不吉な気配が漂い始めたのは、ちょうどそのときだった。肌を刺すような圧迫感を伴う瘴気が足元に流れ込んできて、風が止まる。
すると、小さな怪物たちの群れが左右に割れるのが見えた。その間から、ひとりの呪術師が歩み出てきた。特徴的な笠を被り、厚手の外套をまとった〈クァルムの子ら〉だった。
顔は暗い影に覆われ、その手には暗黒に染まる宝玉が握られている。それが何であるか、総帥は直感的に悟った。邪悪な禁術の核にもなりえる膨大な呪素を秘めた呪物だ。
忌まわしい呪術師は短刀を引き抜くと、躊躇うことなく自らの腹を斬り裂いた。鮮血が噴き出すなか、その呪物を傷口に押し当てる。直後、大気が震えた。宝玉から濃厚な瘴気が噴き出し、まるで生き物のように蠢きながら呪術師の体内に流れ込み、その身体を包み込んでいく。
呪術師の身体は痙攣し、背中が曲がり筋肉は異常なほど膨れ上がっていく。皮膚が裂け、血液と肉片が飛び散るなか、骨が軋みながら捩じれていく。腕と脚も伸びていき、指先には鎌のように鋭い爪が形成されていく。その爪は黒く染まり、禍々しい艶を帯びていく。腐敗と変異が同時に進行するかのようなその姿は、もはや人のものではなかった。
包帯を失くした皮膚は爬虫類の鱗のように硬化し、隆起した骨が皮膚を突き破っていく。質量保存の法則を無視するかのように、どこからともなく血肉が溢れ、より巨大で獰猛な存在に変えていく。
気がつけば、骨が突き出し、関節が歪み、異様な長さの四肢を持つ異形の怪物がそこに立っていた。それは明らかに忌まわしき禁術の産物、〈クァルムの巨竜〉で知られた恐るべき化け物だった。
総帥は即座に戦闘態勢を取り、どう対処するか考えていく。異変を感じ取ったのは、ちょうどその時だった。木々が大きく揺れ、次々と倒れていくのが見えた。そこから、さらに二体の巨竜が姿をあらわした。
その巨大な影が炎の明かりを遮り、空気がさらに淀んでいく。巨竜の喉から聞こえてくる低い唸り声は、これから始まる戦いが決して容易なものではないことを暗示しているようでもあった。




