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戦場が混迷を深めていくなか、防壁の頂上、歩廊を制圧した〈クァルムの子ら〉は次なる標的を定める。彼らの視線の先にいたのは、〈千里眼〉の能力を駆使しながら情報収集し続けていた照月來凪だった。彼女の報告を受けたルズィの指揮によって、守人たちは戦場での立ち位置を確認し、敵の動向を把握し続けることができていた。
しかし、それを見過ごすほど〈クァルムの子ら〉は愚かではない。照月來凪を討つことで、この戦場全体をさらなる混乱に陥れることを企む。
忌まわしい呪術師たちは無造作に転がる守人たちの亡骸に手を伸ばし、禁忌とされた呪術を唱えていく。呪言が紡がれるたび、死したはずの肉体が痙攣しながら起き上がる。眼窩の奥に光なき眸を宿し、口から滴る血液が糸を引いていく。
死者が蘇るわけではない。意思も痛みも恐怖もなく、ただ命令に従うだけの〈生ける屍〉として動き始める。
かつて混沌と対峙していた守人たちは異形の存在となり、歩廊に並び立つ。その目は虚ろで、武器を握る手は微かに震えている。〈クァルムの子ら〉は、その屍を従えるようにして駆けだした。
照月來凪に迫る呪術師だったが、彼女を護衛する武者がその前に立ち塞がる。土鬼でもある八元の兄弟だ。ふたりは分厚い筋肉に覆われた腕で、大太刀を思わせる〈骨刀〉を手にしている。死者が迫る光景は、あるいは悪夢に見えたかもしれない。しかし照月家に対する忠誠心が揺らぐことはない。
飛び掛かってくる〈生ける屍〉たちを迎え撃つ。鉄紺色の甲冑に返り血を浴びながら、武者たちは容赦なく死者を斬り捨てていく。斬撃は深く、肉と骨を裂き、その身体を両断していく。しかしそれだけでは終わらない。胴を断たれても、四肢を失っても、〈生ける屍〉は止まらない。内臓を引きずるようにして這い寄り、足にすがりつこうとする。
八太郎は顔をしかめると、その頭部を躊躇なく踏み砕いた。骨が砕け、血と脳漿が飛び散り装束を汚す。視線を上げると、肩口から切り落としていた腕が指を蠢かせながら、照月來凪に這い寄るのが見えた。そこに九朗が骨刀を振り下ろすと、凄まじい衝撃で腕を粉砕する。
ふたりは理解していた。この忌まわしい呪術師たちを討たねば死者は止まらないと。八元の武者は血に濡れた刃を構え直し、〈クァルムの子ら〉の〝死人使い〟を睨み据えた。
戦場に漂う血の臭いは、より濃く、重くなっていた。そのなかで〈クァルムの子ら〉を排除し、〈生ける屍〉の動きを止めたのも束の間、呪術師たちは奇妙な動きを見せる。
数人の呪術師が前に出ると、その身に膨大な呪力を帯びていく。その気配は禍々しく、周囲の空気を歪めるほどに濃縮されている。つぎの瞬間、特徴的な笠と外套に身を包んだ彼らの身体は異様に膨れ、ひび割れ、変形していく。
包帯の隙間からは腐敗した膿が滲み出し、関節が不自然に反り返るたびに骨が軋む音が聞こえる。指は鋭い鉤爪に変貌し、枯れ枝のように腕は伸び、裂けるように顎が開いて黄ばんだ牙が剥き出しになる。その姿は、もはや人のソレではなかった。己の魂を代償に異形の化け物に変異した呪術師たちは、獣のように低く唸る。
対峙する土鬼の武者も激しい戦いに備え、体内の呪素を解放していく。額のツノが伸び、呪素が血液とともに体内をめぐる過程で、その肌は深紅に染まっていく。人の理を超えた力が、彼らの肉体に宿っていく。
つぎの瞬間、〈クァルムの子ら〉が咆哮とともに飛び掛かる。長く伸びた爪が空を裂き、牙を剥いた顎が喉元に迫る。八太郎は即座に反応し、〈金剛〉の術を発動した。全身が鋼鉄のごとく硬化し、爪の一撃を弾き返す。すぐさま〈金剛〉を解いて腕を振り抜く。暗闇のなかで骨刀が閃き、異形の呪術師を両断する。
肉と骨が裂け、衝撃で血液と内臓が周囲に飛び散る。だが、敵は怯むことなく攻勢を続ける。切断された胴体が回転しながら吹き飛ぶのと同時に、背後から新たな敵が迫る。別の呪術師の集団が包囲するように接近し、彼らを追い詰めていく。逃げ場はない。血と瘴気に満たされた歩廊で、土鬼の武者たちは、さらなる死闘に身を投じるしかなかった。
砦を包む結界は、〈聖遺物〉に注がれる照月來凪の呪素によって、かろうじて〈ベリュウス〉の攻撃に耐えていた。しかし、それを支える照月來凪を排除しようとする者がいた。変異していない呪術師のひとりは〈隠密〉の霧をまとうと、闇に溶け込むように彼女の背後に忍び寄る。その姿は朧気で、光すら歪めるような不吉な気配を纏っていた。
骨ばった手には、不気味に黒光りする短剣が握られている。それは生者の生命を奪うだけでなく、その魂を邪神に捧げるための呪いが込められた刃だった。魂なき肉体は浄化されることなく穢れ、死してなお〈生ける屍〉として使役されることになる。
呪術師は気配を殺し、照月來凪の背後に忍び寄ると、一切の躊躇なく短剣を突き立てた。細やかな絹の衣が裂け、刃が肉を貫く感触が手元に伝わる。暗い喜びが呪術師の顔に浮かんだ。致命傷を負った生者が苦痛に悶え、魂が引き剥がされる瞬間。それこそが、彼にとって何よりの悦楽だった。
だが、どうも様子がおかしい。照月來凪は悲鳴を上げない。それどころか、痛みに身体を震わせることすらない。呪術師は眉をひそめ、短剣を引き抜くと、再び突き刺した。脇腹から乳房、腹部にかけて何度も、何度も――確実に殺すために、執拗に刃を振るった。しかし、それでも彼女は倒れない。
異常を悟ったのは、背後に冷たい殺気を感じた瞬間だった。首元に鋭い刃の感触が走り、視界がぐるりと反転する。呪術師の首は刎ねられ、地面に転がり落ちていく。その刹那、彼はようやく理解した。自分が〈幻惑〉の呪術にかけられていたことを。
意識が消える寸前、〈ラガルゲ〉に跨るシェンメイが歩廊に駆け込んでくるのが見えた。彼女は戦場を駆けながら、〈幻惑〉の呪術で敵を惑わせていた。
篝火の灯りを浴びたオオトカゲは、鮮血に濡れながらも研ぎ澄まされた殺気を帯びている。その〈ラガルゲ〉は、敵を見つけるや否や、強靭な顎で呪術師の頭を咬み砕いてく。そして〈幻惑〉の呪術によって錯乱し、狂ったように〈生ける屍〉たちを攻撃していた呪術師たちに襲い掛かり、その手足を食い千切り、地面に叩きつけ、粉砕していく。
シェンメイは結界を維持していた照月來凪と、その護衛についていた武者たちの無事を確認すると、再び戦場に戻るべく〈ラガルゲ〉の手綱を引きながら舌を鳴らす。黒く艶のある鱗に覆われたオオトカゲは、彼女の指示に従うように防壁の縁に近づく。そして一瞬の迷いもなく、そのまま防壁から飛び降りた。
彼女の視線は赤々と燃え上がる区画に向けられていた。廃墟と化していく砦の一角が〈ベリュウス〉の炎で照らされ、ぼんやりとした光で暗い空を浮かび上がらせていた。シェンメイは、その不吉な光源を横目で見ながら、暗闇に支配された領域に足を踏み入れていく。
彼女の周囲には、光源となる〈灯火〉が追従するように浮かんでいた。拳ほどの大きさの発光体は、微かに震えるように漂いながら周囲を照らす。その明かりの下には、無数の小さな怪物の死骸が横たわっていた。
ねじれた四肢、裂けた腹部、無惨に潰れた頭蓋。つい数分前まで動いていたのだろう。傷口から滴る血液はまだ温かく、地面に広がる血溜まりからは、微かに蒸気が立ち昇っていた。
足を進めるごとに、喧噪が近づいてくるのが分かった。聞き慣れた剣戟の音と、悲痛な叫び声。遠くに視線を向けると、闇の中で揺れる数多の影が視界に入った。
森から溢れ出るかのように押し寄せる怪物の群れ。乳白色の体表を持つ異形の怪物たちは牙をむき出しにして暴れ狂い、死骸で埋め尽くされた土塁を乗り越えながら近づいてくる。その波を押し返すように、最前線で戦う守人の姿があった。
それは総帥だった。彼は数人の古参の守人たちとともに、迫りくる怪物の大群を迎え撃っていた。守人たちは地形を活かしながら巧みに戦い、連携しながら敵の侵攻を押し留めていたが、それでも怪物の数は多すぎた。
シェンメイは舌打ちすると、〈ラガルゲ〉に指示を出して戦場の中心に突貫する。と、そのときだった。守人のひとりが前線に歩を進め、血のついた手で空を切るように印を結んでいくのが見えた。戦闘を指揮していたルズィだ。直後、膨大な呪素が放出され、瞬く間に灼熱の〈火炎〉となる。
燃え上がる業火は怪物の群れを包み込み、辺りを埋め尽くしていた異形を瞬時に焼き払っていく。その炎はただ燃え盛るだけではなかった。高熱による上昇気流が生じ、渦巻く熱風が竜巻に変化していく。
燃えたぎる旋風は怪物の群れを巻き込んでいく。乳白色の皮膚は焼け爛れ、血液は沸騰し、内臓が破裂していく。悲鳴にも似た歪な鳴き声が響くなか、炎は容赦なく怪物どもを呑み込み、炭化した残骸を地面に残していく。
やがて風向きが変わり、黒煙が濃く立ち込めていった。焼き尽くされた肉と焦げた骨の残骸が混ざり合い、鼻をつく刺激臭が辺りに漂う。熱気が入り交じった悪臭は、空気そのものを汚し、吐き気を催すほどの重苦しい空間を作り出していた。しかし守人たちは眉ひとつ動かさず、森から迫りくる敵を見据えていた。




