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アリエルは朦朧とした意識のなか、ゆっくり顔を上げる。視界は歪み、全身が鉛のように重い。それでも、迫りくる〈ベリュウス〉の足音だけは鮮明に聞こえていた。
燃え盛る獣のごとき異形。硬い体表は脈動するように赤々と明滅し、ひび割れた皮膚の隙間から炎が吹き出している。まるで肉体そのものが灼熱の炉であり、内部に閉じ込められた炎が今にも爆ぜるかのように渦巻いていた。
息を吸うだけで喉が焼けるようだった。それでも、このまま死がやってくるのを傍観しているわけにはいかなかった。けれど身体が動いてくれない。意識をどうにか繋ぎ止めながら、抵抗する術を考えようとしていたが、混濁した頭ではまともな思考ができない。呪素を練り上げようとしても集中できず、焦りだけが募る。
そのときだった。アリエルを庇うように一体の戦狼が〈ベリュウス〉に向かって飛び掛かる。白銀の体毛が篝火の光を反射し、闇の中で鋭い刃のように輝く。その巨狼は若く、群れの中でも群を抜いた戦士だった。鍛え抜かれた四肢が大地を蹴り、鋭い牙が化け物の喉元を狙う。
けれど、その勇猛な攻撃が届くことはなかった。灰を撒き散らす腕が伸びたかと思うと、鋼鉄すらも握り潰す手で戦狼の頭部を鷲掴みにする。聞こえてくるのは、凄まじい握力によって骨が砕けていく鈍い音だけだった。白銀の毛並みは鮮血に染まり、巨狼の四肢は痙攣し、やがて力なく垂れ下がる。
その直後、戦狼の巨体は炎に包まれ苦しむ暇すら与えられず、ただ炭の塊に変わっていく。アリエルはどうすることもできなかったが、守人たちは戦いを諦めてはいなかった。
つぎの瞬間、暗闇のなかで煌めきながら無数の矢が飛来し、〈ベリュウス〉の背に突き刺さっていく。呪術によって強化された鏃は、化け物の硬い体表に食い込んだはずだった。しかしその身体に炎を纏うと、そのほとんどが焼かれ、鏃は抜け落ちていく。まるで小枝を突き立てたかのように、何の効果もなかった。
そこに、どこからともなく〈氷槍〉が飛んでくるのが見えた。鋭く研ぎ澄まされた氷の槍は、〈ベリュウス〉の灼熱の肉体に突き刺さる。つぎの瞬間、爆発が起きた。
極端な温度差により氷の塊が一瞬で蒸発し、すさまじい衝撃波を生み出す。周囲の空気が膨張し、熱波が大気を歪ませる。そのすぐ近くにいたアリエルは、爆発音が聞こえてくる前に恐るべき破壊力を伴った衝撃波に襲われる。
意思とは無関係に身体が宙に舞い上がる。激しい衝撃が全身を駆け抜け、何度も地面に叩きつけられ、転がるたびに鋭利な石片が肌を裂く。口内に鉄錆の味が広がり、鼓膜が張り裂けそうなほどの轟音が響く。すでに剣は失くしてしまっていて、自分がどこにいるのかさえ分からなかった。
視界は揺れ、世界が回る。その絶望的な状況のなか、灰と炎に包まれた〈ベリュウス〉の巨体が見えた。爆発をものともせず、赤熱した双眸でこちらを見据えていた。そこに不可視の衝撃波が襲い掛かる。
呪術の炸裂によって放たれた凄まじい力が戦場を覆い、衝撃波と轟音が暗い森に響き渡る。空気は燃え立つような熱気に包まれ、大地はひび割れ、石畳の破片が舞い散る。
しかし、これまで無数の守人を屠ってきた恐ろしい化け物〈ベリュウス〉は意に介さず、守人たちの総攻撃にも怯むどころか、むしろ戦いそのものを楽しんでいるかのように見えた。それは異常な光景だった。
黒々とした体液に濡れた硬い体表は傷つきながらも、それが致命傷にはならないことは誰の目にも明らかだった。
そして次の瞬間、〈ベリュウス〉はその残虐性を剥き出しにする。化け物の喉元が坩堝の中に放り込まれた鉄のように赤熱していくと、一瞬の静寂が訪れた。その直後、耳をつんざくような咆哮が響き渡り、凄まじい〈火球〉が放たれた。
その炎は空間さえも焼き尽くすほどの熱と呪力が込められた圧倒的な力の塊であり、闇夜を一瞬で昼のように照らし出した。それは邪悪な呪力が練り込まれ、あらゆるものを焼き尽くす純粋な破壊の奔流だった。襲いくるのは熱そのものではなく、すべてを消し去る〝業火〟だった。
防壁に立つ守人たちに向かって一直線に放たれた〈火球〉は、空気を灼き、光の筋となって迫りくる。あまりにも突然のことで、守人たちは逃げることもできなかった。
その炎は守人たちを焼き尽くすはずだったが、炎は不可視の障壁――防壁に展開されていた聖女の結界によって、辛うじて無力化される。高温の爆風が弾かれ、炎の塊が四散する。直撃を受けた建物の壁面は赤熱し、空気が波打つほどの熱量がその場に満ちていく。
守人たちは命拾いしたが、その表情に喜びはなかった。一様に顔を強張らせ、荒い息を吐きながら震えていた。焼け付くような熱の余韻と、死を間近に感じた恐怖が、彼らの心を蝕んでいたのかもしれない。
彼らは知っていたのだ。〈聖女の干し首〉によって張られていた結界が、いつまでも持ちこたえられるわけではないことを。いずれ砦を守る盾は崩れ去る。その瞬間、ここにいる者たちは無慈悲な炎に焼き尽くされる。
恐怖が染みついた沈黙のなか、〈ベリュウス〉の喉が再び赤々と輝き始めていた。大地を揺るがす雷鳴が轟いたのは、ちょうどそのときだった。
大気が震え、空気が焼き焦げるような金属の臭いが鼻を突く。瞬間、紫電を纏う巨大な黒豹が虚空から姿を見せる。その四肢には雷光が絡みつき、黄金に輝く双眸が〈ベリュウス〉を捉えている。その獣は、ノノとリリの呪力によって顕現した〈呪霊〉だった。
膨大な呪素によって異次元から呼び出された黒き獣は、低い唸り声を上げると、稲妻を散らしながら地を蹴った。雷そのものが地上を奔るかのように速く、轟音と共に跳躍し、まばゆい閃光の軌跡を残して〈ベリュウス〉に襲いかかる。
巨大な前肢が振り下ろされ、雷を孕んだ爪が赤熱した体表を切り裂く。肉を裂く感触と共に、傷口から燃え立つ炎が噴き出す。続けざまに鋭い牙が肩口に食い込んだ。電撃を伴う強烈な痛みが化け物の身体を駆け巡り、業火が一瞬揺らぐ。しかし、それでも〈ベリュウス〉は怯まなかった。
けれど、その動きはふいに止まることになる。赤々と燃え盛る身体に、黒い影が絡みつくのが見えた。ベレグに流れる血が可能とする特殊能力〈影縫い〉による拘束だった。混沌の化け物は、まるで闇そのものに囚われたかのように身動きが取れなくなる。その隙を逃すことなく、雷を纏った黒豹と。群れをなす戦狼たちが一斉に襲いかかる。
巨狼が猛然と跳びかかり、牙を剥いて〈ベリュウス〉の首を噛み千切らんとする。鋭い爪がひび割れた体表を切り裂き、〈呪霊〉の雷撃が傷口を抉っていく。そこに守人たちの矢が飛び交い、次々と突き刺さっていく。
ただ攻撃に耐え、その場で身動きを止めていた〈ベリュウス〉が息を吸い込むのが見えた。周囲の大気が引き寄せられ、胸郭が膨れ上がる。灰色の皮膚は赤々とした光を帯び、血管のようなひび割れた体表からは燃え立つ炎が勢いを増して漏れ出した。それはただの炎ではなかった。深い青に染まる業火だった。つぎの瞬間、その炎が破裂した。
すさまじい衝撃波が放たれ、周囲にあるものを瞬く間に破壊していく。雷を纏った〈呪霊〉は一瞬で消し飛び、巨狼たちは燃え盛る炎に包まれ、絶叫を上げることなく炭化した。
凄まじい熱波が戦場を蹂躙し、大通りの石畳は融解し、崩れかけた塔が次々と崩落していく。衝撃波で吹き飛ばされた瓦礫は噴石のように降り注ぎ、無秩序にすべてを破壊していく。
その業火の中心で、〈ベリュウス〉はゆっくりと動き出す。その身体は眩く発光し、燃え尽きることのない混沌の象徴として戦場を支配していく。
防壁の頂上、歩廊に陣取っていた戦士たちの間に異変が生じたのは、ちょうどそのときだった。矢を番え、砦の外で猛威を振るう〈ベリュウス〉に狙いを定めていた彼らは、背後から忍び寄る殺気に気づくのが遅れてしまう。壁の内側――砦に侵入し暗闇に潜伏していた〈クァルムの子ら〉が動き出したのだ。
呪術に長けた異端の徒は、聖遺物によって展開されていた強力な結界を何らかの手段で無効化していた。本来なら混沌に属する邪悪な生物は、この結界の影響下では力を大きく削がれるはずだった。
しかし〈クァルムの子ら〉は、何の影響も受けていないかのように、静かに歩廊に忍び寄っていた。最初に気づいたのは、ひとりの若い守人だった。異変を感じて背後を振り返る――その刹那、喉元に冷たい刃が突き立てられる。鮮血が噴き出し、うめき声すら上げられずに崩れ落ちる。直後、沈黙を切り裂くように別の守人の叫びが響いた。
「――敵襲だ!」
守人たちが異変に気がついた時には、すでに遅かった。
〈クァルムの子ら〉は〝影のように〟音を立てることなく守人たちに肉薄し、その喉笛に短剣を突き立て、反撃の猶予を与えることなく命を奪っていく。誰もが防壁の外に注意を向けていたため、不意を突かれた守人たちは次々と倒れていくことになった。
歩廊が血液の臭いに満たされていくなか、弓を手にしていた守人たちは慌てて刀を手にするが、死体が転がる通路では思うように動けない。その混乱のなかでも敵は素早く、動きは異様にしなやかだった。守人のひとりが弓を捨て、刀を抜き放って敵に斬りかかる。しかし、その刃は不自然に止まった。
〈クァルムの子ら〉の細く枯れた指先から呪力の波動が放たれ、金縛りのように守人の動きを止めていた。その手が握りしめられるのが見えた瞬間、鈍い音と共に守人の身体は圧し潰されていく。
あちこちで悲鳴が響き渡り、歩廊が地獄と化していくなか、戦場は混乱の極みに達しようとしていた。




