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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 後編
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82〈災禍〉


 それは、たった一匹の蠅から始まった。


 腐臭と血液の臭いが混ざり合った戦場には、数えきれないほどの死骸が横たわっていた。人、亜人、混沌の生物――それらが区別なく折り重なり、森の冷気に晒されながらも完全に凍結することなく、血と泥にまみれた傷口や内臓を露わにしながら、ゆっくりと腐敗していた。その腐臭に誘われるように、どこからともなく蠅がやってきた。


 その蠅は、死肉を求める他の蠅と何ら変わらないように見えた。けれど、何かが違っていた。うまく説明することはできないが、〈獣の森〉の寒冷な気候に適応した変種とも異なり、僅かに肥大した体躯を持ち、通常の個体よりも異様に艶めいた漆黒の外殻に覆われていた。


 頭部の大部分を占める大きな複眼は、獲物を選別する狡猾な捕食者のように冷ややかで、何か邪悪なモノによって生み出されたかのような、異様な気配をまとっていた。


 その蠅は死骸の上にとまり、前脚をこすり合わせながら、じっと周囲の様子を観察しているようでもあった。


 しばらくすると、蠅はどこかに飛んで行ってしまう。死骸が不自然に痙攣するようになったのは、ちょうどそのときだった。最初は微かな震えに過ぎなかったが、しだいに大きく波打つようになり、身体の内側で何かが這いずり回っているかのように皮膚が持ち上がるのが見えた。


 やがて肉の裂け目や口腔、眼窩の奥から白い塊があふれ出した。それは蛆だった。内臓を掻き分け、肉を喰らい、ずるりと身体の内側から這い出してくる。


 けれど、ただの蛆ではない。それは異様な速さで死肉を貪り、わずかな時間で異形の蠅に成長していく。奇妙なことに、その蛆は成長の過程を経ることなく、気づけば蠅に変貌していた。何かがこの生物の進化の法則をねじ曲げているようでもあった。


 ひとたび湧いた蛆は、(さなぎ)になることもなく、その場で変態を遂げるように殻を破り、黒々とした光沢を帯びた蠅に姿を変えていく。


 そしてその蠅も新たな死骸を求めて飛び立つようになり、あちこちで同じことが繰り返されていく。次々と死骸の中から湧き出す白い塊。皮膚が裂け、臓物がこぼれ落ちていく。やがて砦の周囲に転がるすべての死骸が異形の蠅に喰われ、脈打つように蠢くようになる。その連鎖は雪崩のようだった。蠅の数が増え、加速度的に感染が広がっていく。


 最初にその異変を察知したのは、砦の外で死肉を漁っていた混沌の生物たちだった。無数の脚にブヨブヨとした胴体を持つ〈地走(じばし)り〉の群れは、貪欲な食欲を満たすために死肉を(むさぼ)っていたが、何かに怯えるように、一斉に森の奥に走り去っていく。


〈飢えた仔猫〉たちも肉の切れ端をくわえたまま耳を伏せ、長い尾を隠すように木々の間に消えていく。獲物を求めて日々争っていた恐ろしい生物すらも、忌まわしい予兆を感じ取ったのか、静かに消え失せる。


 それは本能による無意識的な行動だったのかもしれない。生き残るための嗅覚を持つ生物は逸早く異常を察知し、砦の周囲から消えていった。こうして、死肉に群がる生物が消えたあとには――ただ、蠅だけが残されることになった。


 その蠅たちは、次なる標的を求めるように群れをなし、黒い雲のようにうねりながら砦の壁を越えていく。凍えるような風に乗り、耳障りな羽音を鳴らしながら瓦礫に埋もれた通りを飛び交い、やがて廃墟の近くで徘徊していた〈混沌の先兵〉たちの身体に降り立った。


 蠅は前脚をこすり合わせたあと、怪物たちの乳白色の体表にある小さな傷口を見つけ、そこからじわりと体内に潜り込んでいった。小さな怪物はわずかに身を震わせたが、蠅の侵入に気づいていないのか、すぐに気にしなくなった。その間にも、蠅は生温かい肉の隙間に滑り込むようにして入り込んでいく。


 そして――産卵が始まる。


 怪物たちの体内に無数の白い卵が産みつけられていく。瞬く間に孵化した幼虫は、内側から組織を喰らい、血管を啜り、神経を犯していく。怪物の身体は不自然に痙攣し、薄い皮膚の内側で白い塊が蠢くたびに内臓が震えるのが見えた。異様な光景が続くなか、怪物はもがきながらも、一歩、また一歩と防壁に近づいてくる。


 その怪物の身体が激しく痙攣するようになると、内側から皮膚を食い破られるように、肉が裂けて蛆を含んだ血液が噴き出すようになる。体表の裂け目からは、黒光りする無数の蠅が湧き出すように飛び立っていく。生まれたばかりの邪悪な生命体が、歓喜に打ち震えながらこの世界に解き放たれるかのように。


 やがて蠅は群れとなり、次々と怪物たちに襲いかかった。彼らに逃げ場はなかった。粘つく体液に塗れた羽音が響き渡るなか、小さな怪物たちの声は次第に悲鳴に変わり、そして断末魔すら許されぬまま、神経を破壊され、肉が削がれ、骨が露わになっていく。


 蠅は貪欲だった。単に肉を喰らうのではなく、怪物たちを生きたまま苗床とし、その体内に新たな生命を植え付けていく。最初に襲われた怪物たちの身体はわずかに痙攣したのち、まるで自ら蠅を産み出す器のように、身体のあちこちにできた裂け目から次々と新たな蠅を吐き出した。その光景は狂気そのものだった。


 そうして砦を取り囲んでいた怪物の群れは、ものの数分も経たないうちに壊滅した。そこに残されたのは、皮膚を失い、わずかな肉と骨が剥き出しになった惨たらしい屍と、腐臭を放つ血溜まり、そしてあたりを埋め尽くすほどの黒い蠅の群れだった。


 けれど守人たちが見張りに立つ壁に押し寄せることはなかった。第二防壁まで張られていた結界を前に、蠅たちは動きを止めた。目に見えない壁に弾かれるように、それ以上先に進むことができなかったのだ。狂ったように羽音を鳴らし、空を埋め尽くす群れは壁の周囲を旋回していたが、しだいにその勢いを失っていく。


 成長速度が異常だったように、瞬く間に寿命が訪れることになった。一匹、また一匹と空中で力尽き、地に落ちていく。通りに死骸が降り積もるなか、それでも生き残った蠅たちは最後の力を振り絞るように壁に群がった。しかし結界を超えることはできず、やがて羽音が弱まり、完全に聞こえなくなった。


 ふと気づけば、そこには沈黙しかなかった。砦の周囲には、もはや何の動きもなかった。ただ死だけが、あらゆるものを覆い尽くしていた。腐臭が立ち込め、冷たい風がそれを遠くに運んでいく。砦を襲っていた怪物の軍勢は、名も知らぬ黒い蠅によって根絶され、そしてその蠅すらも、忽然と死に絶えたのだ。


 壁の上では、見張りに立っていた守人たちが戦闘の構えを取ったまま、何もできずにその異様な光景を眺めていた。矢を番えたまま、あるいは狭間に身を隠したまま――誰ひとりとして、次にどう動くべきなのか分からなかった。


 彼らの眼下に広がるのは、恐怖と狂気の果てだった。混沌の勢力によって埋め尽くされていた戦場は、今や何もかもが無に帰したかのようだった。


 蠅によって引き裂かれた怪物たちの屍が、黒い腐肉と骨の塊となって累々と積み重なり、その表面には死に絶えた蠅の亡骸が降り積もっていた。まるで砦を囲むように敷かれた黒い絨毯だ。冷たい風が吹くたび、乾いた音がわずかに聞こえ、地面に転がる無数の死骸を震わせる。


 まるで生命そのものが冒涜され、踏み躙られた場所だった。守人たちに勝利の実感はなかった。ただただ、目の前の光景に呑まれ、何も考えられず、ただ見つめることしかできなかった。


「……終わったのか?」

 誰かがそう口にしたが、誰も答えなかった。苦しい戦いが終わったのか、それとも新たな災厄の始まりなのか――それすらも分からない。ただひとつ確かなのは、もはや生き物は存在せず、あるのは無残に散らばる死だけだった。


 そのとき、崩れ落ちた塔の廃墟から黒い毛皮に身を包んだ守人が出てくるのが見えた。それはアリエルだった。闇に包まれた地下を抜け、ひどく汚れた衣服のまま、ゆっくりと地上へと足を踏み出した。


 彼の目が捉えたのは、異形の蠅によって蹂躙された光景だった。足元に堆積した死骸、漂う瘴気、そして沈黙。アリエルは微かに目を細めながら、死の静寂に包まれた戦場を見つめていた。

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