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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 後編
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 繊細な呪術操作が行われるなか、宝玉から溢れる呪力が〈聖女の干し首〉を包み込んでいくのが見えた。損傷し、その能力の殆どが損なわれていた聖女の遺骸は、まるで長い眠りから目覚めるかのように、ゆっくりと神聖な力を取り戻していく。


 灰色に褪せた長髪は黄金の光を帯びていき、その輝きは髪を伝い、やがて干し首全体に広がっていく。瘴気を呪素へと変換していく過程で、風化と加工によって黒ずみ、ひび割れていた肌が、次第に滑らかな質感に変わっていく。唇には淡い血色が戻り、閉ざされていた瞼がかすかに震えるのが見えた。


 まるで聖女の魂が、遥か彼方から帰還しようとしているかのように──しかし、その神聖さを帯びた変化が最高潮に達しようとしていたときだった。周辺一帯の空気が一変する。張り詰めた沈黙の中に、鋭い冷気が走ったかと思うと、どこからともなく禍々しい気配が接近してくるのが感じられた。


『何か来る……!』

 リリが小さな唸り声をあげたときだった。


 暗がりの中から凄まじい速度で黒い影が飛び出すのが見えた。夜の闇そのものが形を持ち、殺意を宿して襲いかかるかのような異形の存在だった。その影は音もなく地を駆け、三人に向かって一直線に迫る。瞬きをする間もなく、その邪悪な存在は目前まで迫るが、アリエルの眼前で影がピタリと止まる。


 鋭い刃の切っ先は、彼の喉元に突きつけられた状態で止まっていた。ほんの少しでも遅れていれば、確実にその首を()ねていただろう。


 ベレグが咄嗟に〈影縫い〉の能力を発動し、敵の動きを封じていた。もしも一瞬でも判断が遅れていたら──今頃、アリエルは血飛沫を上げて地に伏していたに違いない。


 特徴的な笠と外套を身に着けた襲撃者は拘束されたまま、僅かに揺らぎ、異様な殺気を放ち続けていた。その静寂のなか、周囲の闇がさらに濃くなっていくような錯覚を抱く。敵の正体は、忌まわしき種族〈クァルムの子ら〉の暗殺者だった。


〈隠密〉の呪術を発動していたのだろう、その存在は霧のように曖昧で、闇そのものと同化しているようでもあった。どうやって第二防壁を越えたのかは分からないが、彼らの狙いは明らかに膨大な呪力を秘めた宝玉だった。


 戦局を左右するほどの力を持つ〝呪物〟を手に入れるため、獣のように瘴気を嗅ぎつけ、今まさに攻撃を仕掛けてきたのだろう。


 影のように佇む襲撃者は、〈影縫い〉によって完全に動きを封じられていたが、その不気味な黒い眼は依然としてアリエルを捉えていた。それは獲物を見据える捕食者の眼だった。背筋に悪寒が走る。その一瞬の緊張を打ち破るかのように、総帥の金棒が音もなく振り下ろされる。


 凄まじい衝撃と共に、拘束されていた襲撃者の上半身が爆ぜた。血煙が宙を舞い、骨片が飛散する。途端に辺りは鉄錆びの臭いで満たされる。しかし終わりではなかった。


 今度は頭上から別の襲撃者が飛び込んでくる。逸早く気配を察したノノが瞬時に動いた。空間を裂くような〈風刃〉が放たれると、襲撃者の身体は空中でズタズタに斬り裂かれる。切断された四肢は回転しながら地に落ち、鮮血が霧のように飛散した。


 小雨のように降り注ぐ体液のなか、さらに四方から影が忍び寄る。まるで悪夢のように、どこからともなく襲撃者があらわれ、疾風のごとく駆けてくる。


 その行く手を阻むように総帥が前に出た。そして獣めいた咆哮が戦場全体に響き渡る。総帥の肌は徐々に赤く染まり、額のツノがゆっくりと伸びていく。全身から膨大な呪力が(ほとばし)り。目に見えない波動が押し寄せ、空間がピリピリと震え、足元の砂礫が細かく震えた。


 つぎの瞬間、総帥が消えた。肉眼では捉えられないほどの速度で動いたのだ。襲撃者たちは反応する間もなく、金棒を叩きつけられる。鋭い轟音と共に吹き飛ばされ、血煙に変わっていく。総帥が動くたびに敵の身体が粉砕され、赤い染みが広がっていく。闇の中に潜んでいた襲撃者たちの刃は、老いた偉大な守人には届かない。


 この場を支配していたのは、圧倒的な力の差による暴力だった。襲撃者たちは、ひとり、またひとりと消え、血に塗れた静寂が広がっていく。そこに照月(てるつき)來凪(らな)の護衛でもある八元の兄弟が戦いに加わり、一気に戦いは激しさを増していく。


 圧倒的な力で襲撃者を(ほふ)ることで、襲撃者は減り、状況は沈静化しつつあった。しかしその只中にいたアリエルは、不意に足元の異変を感じて呪力の操作を止めた。硬い石畳の下から、微かな振動が伝わってくるのだ。


 警戒する間もなく、石畳が砕け、その隙間から灰色に変色した手が突き出てアリエルの足首を掴んだ。瞬間、冷たい悪寒が背を走る。指先は異様に細く、異形じみた長い爪が肉に喰い込む。反射的に振り払おうとしたが遅かった。つぎの瞬間、地面が裂けるように崩落し、アリエルの身体は一気に闇の中へと引きずり込まれた。


 重力に引かれる感覚とともに粗い石壁に何度も叩きつけられる。鋭い岩角が黒衣を裂き、鈍い衝撃が内臓に響いた。呪素の変換に集中していた所為で反応が遅れたのも致命的だった。体勢を立て直そうとしたが、方向感覚も掴めないまま暗闇の底に落ちていく。やがて、硬い地面に背中から叩きつけられた。


 鋭い痛みが背骨を駆け抜け、視界が暗転しそうになる。歯を食いしばり、何とか意識を保つ。落下したのは砦の地下通路──かつて使われていた封鎖された古い通路だ。砦の中心につながる忘れられた道を、敵は地面を掘り進む過程で見つけていたのだろう。そして、誰にも気づかれることなく地下から忍び寄ってきていたのだ。


 耳を澄ますと暗闇の向こうから不気味な鳴き声が響いてくる。乾いた骨を打ち鳴らすような耳障りな音だ。やがて無数の眼が上方から射し込む微かな光を反射するのが見えた。〈混沌の先兵〉が闇の底から駆けてくるのが見えた。それらの怪物はアリエルを無視して壁に取りつくと、地上に続く崩落した穴をよじ登っていく。


「──マズい」

 すぐに阻止しなければならない。アリエルは痛みを押し殺し、地面を蹴って立ち上がった。しかし次の瞬間、背後に殺気を感じた。振り向く間もなく、凄まじい衝撃が腹部を襲う。鉄槌のような衝撃波が直撃し、身体が宙を舞った。


 肺から空気が絞り出され、視界がぐるりと回転する。荒れた石畳の上を転がり、咳き込みながらも身を起こす。そこに立っていたのは、〈クァルムの子ら〉の呪術師だった。それも、ただの呪術師ではない。


 その身体は半ば変異していた。かろうじて人型を保っているものの、両肩からさらに二本の腕が生え、細長い指の先には鋭い爪が伸びている。焼け(ただ)れた皮膚は粘液に濡れ、青い血管が網目のように浮かび上がっていた。異様に長い首が軋む音を立て、歪な呻き声を立てる。


 厄介な敵だったが、他に選択肢はない。アリエルは毛皮の〈収納空間〉に意識を向け、瞬時に抜き身の剣を取り出す。刃の重みが手に馴染むと、即座に上段に構え、静かに呼吸を整える。


 変異体はアリエルを睨んだまま動かない。緊張が支配する暗闇の中、ふたりはほとんど同時に動いた。アリエルの剣が閃き、空気を裂いた。狙いは正確だった。上段から袈裟懸けに振り下ろされた刃は、〈クァルムの子ら〉の身体を捉えたはずだった。しかしその瞬間、視界の端に小さな影が飛び込んできた。


〈混沌の先兵〉が獣じみた唸り声をあげながら飛びかかってきたのだ。怪物は粘液に濡れた腕を広げ、鋭い牙を剥いて喰らいつこうとする。しかし迎撃は一瞬だった。剣の軌道を逸らさず、そのまま怪物の身体を両断する。


 鋸歯状の刃が皮膚を裂き、骨を断ち切る感触が伝わる。怪物は二つに割れ、回転しながら宙を舞い内臓と体液を撒き散らし、腐臭にまみれた汚物が床に叩きつけられる。だが、その一瞬の混乱が致命的だった。


 気づいたときには、すでに変異体の姿が目の前から消えていた。背筋に冷たい悪寒が走る。視界を巡らせた瞬間、脳髄を揺さぶるような衝撃が頭部を襲った。視界がぐるりと回転する。蹴りを受けたのだろう。


 意識を失いそうになるほどの強烈な一撃を受け、アリエルは地面を転がるように吹き飛ばされた。〈ダレンゴズの面頬〉がなければ、頭蓋が砕けていたかもしれない。面頬越しにも、強烈な衝撃が骨まで響いていた。


 何とか体勢を立て直し、荒い息をつきながら剣を構える。視線の先には、異形の襲撃者がゆらりと佇んでいた。痩せこけた身体には肉がほとんどなく、まるで枯れ枝のように細い。しかし、その虚ろな眼の奥には尋常ならざる狂気と知性が見て取れた。


 そのやせ細った身体のどこに、あれだけの打撃力が繰り出せるのかは分からないが、そもそも常識では測れない異質な存在だった。その異形が、薄汚い包帯の下で微かに笑ったように見えた次の瞬間、ソレは疾風のごとく襲いかかってくる。


 アリエルは即座に地面を踏み砕くように足を叩きつける。甲高い音が響き、割れた石床の隙間から鋭利な氷柱(ひょうちゅう)が突き上がる。それはまるで氷の槍が林立するように、変異体の進路を塞ぐ。


 敵は寸前で動きを止めた。驚愕の表情が包帯の下に浮かび上がるようだった。その一瞬の迷いを見逃すわけにはいかない。アリエルは氷の間を駆けて一気に踏み込むと、渾身の力を込めて剣を振り抜いた。


 刃が敵の身体に食い込む感触があった。異様に細い首が不自然に傾く。視線が交錯した一瞬のあと、襲撃者の身体が斜めに割れ、ゆっくりと崩れ落ちる。


 気色悪い体液が床に広がるなか、アリエルは浅く息を吐き、剣を振るって穢れた血液を払った。勝敗は決したが、まだ戦いは終わっていない。上方を見上げれば、怪物たちの群れが地上へと這い上がっていくのが見えた。

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