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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 後編
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 血にまみれた内臓を揺らしながら、生ける屍と化した戦狼(いくさおおかみ)が猛然と駆けてくる。毛皮は半ば剥がれ落ち、露わになった筋肉は黒く変色し、汚泥と血液にまみれていた。両眼はすでに白く濁っていたが、その焦点の合わない瞳で獲物を捉えていた。


 アリエルは攻撃に備えて腰を落とすが、そこに獲物を仕留める猛禽のように、ラライアが勢いよく飛び込んでくる。そして白銀の戦狼と、死臭を纏う獣が凄まじい勢いで衝突する。血と泥が飛び散り、二体の獣が組み付いたまま地面を転がる。


 牙を剥き、爪が食い込み、血液が飛び散る音が聞こえる。瘴気に穢れた顎がラライアの首に食い込もうとする。彼女はそれを避け、鋭い爪で相手の腹を引き裂いた。黒ずんだ腸がヌルリと滑り落ちるが、生ける屍には痛みも恐怖もない。骨が軋む嫌な音を響かせながら、屍と化した獣はなおも襲いかかる。


 アリエルはその壮絶な戦いを横目で見ながら、崩壊した塔の残骸を背にして立つ邪悪な呪術師と対峙する。全身が包帯に覆われたその姿は、死と腐敗を象徴しているようでもあった。


 そこに豹人の姉妹が静かに迫る。ノノとリリは二手に分かれ、左右から挟み込むように近づいてくる。その動きに呪術師は気が付いているようだったが、それでも微動だにせず立ち尽くしていた。


 しゃがれた低い声が聞こえたのは、ちょうどその時だった。

『──昆虫の女神に祝福されし黒き獣よ。我らは敵ではない』


 その忌まわしい声を耳にしただけで、ゾクリと肌が粟立つ。異様な魔の気配が微かに空気を震わせる。呪術師の言葉に困惑していると、包帯の巻かれた腕を持ち上げ、こちらに手のひらを向けるのが見えた。


 風に吹かれたように、包帯がはらりと捲れる。露わになったのは枯れ枝のように細い腕――いや、それはすでに腕とは呼べないのかもしれない。焼け(ただ)れ腐り果てた皮膚には、眼球を思わせる無数の黒い石が埋め込まれている。


 誰かに〝見られている〟──そう錯覚するほどの異質な存在感だった。と、つぎの瞬間、目の前で空間が歪むのが見えた。呪素(じゅそ)が一点に収束し──そして破裂する。


 耳をつんざく爆裂音のあと、砕け散った石畳の破片が四方八方に飛び散る。咄嗟に〈ダレンゴズの面頬〉を装着し、腕で頭部を庇いながら後方に飛び退く。つぎの瞬間──さらに別の地点で空間が爆ぜた。


 爆風が襲いかかり、視界が白く染まる。瓦礫が舞い、粉塵が視界を奪う。これは呪いだ。この場にいるすべてを飲み込む、忌まわしき呪い。息つく暇もなく、次々と放たれる衝撃波を避けていたが、とうとう直撃を受けて吹き飛ぶ。


 戦場に荒々しい呪素の波動が渦巻くなか、ノノとリリが光の粒子を纏いながら呪力を練り上げていくのが見えたが、忌まわしき呪術師はそれを許さなかった。その背中が不自然に盛り上がると、背骨が突き出し、皮膚が波打ち、まるで内側で何かが(うごめ)いているかのように肉が裂けていくのが見えた。


 ズルリと皮膚が剥けると、背骨の左右から異形の腕が生えてきた。枯れ枝のような醜い二本の腕は粘液に濡れ、震えながらゆっくりと持ち上がる。腐臭と瘴気を帯びたそれは人の腕には見えない。禍々しい瘴気を纏い、ただそこにあるだけで場の空気を汚染していくようだった。


 その異形の腕が、呪術師の左右に立つ姉妹に向かって突き出される。手のひらが黒く染まり大気が軋むような音を立てると、濃密な瘴気が収束し、凄まじい衝撃波が放たれる。乾いた炸裂音が響き渡り、石畳が割れ、地面が抉れる。巻き上がった泥濘が視界を奪うなか、衝撃波を受けた姉妹は容赦なく撥ね飛ばされる。


 軽々と吹き飛ばされた身体は瓦礫の上を転がり、何度も瓦礫に叩きつけられる。衝撃波をまともに受けた彼女たちは血混じりの咳を漏らしながら、地面に片膝をつく。


 包帯に覆い隠された呪術師の表情を見ることはできなかったが、力による圧倒的な優越感により、獲物が苦しむ様を愉悦の笑みで見下ろしているようにさえ感じられた。


 その光景を、アリエルは瓦礫と汚泥の上で仰向けになったまま見ていた。ひどい耳鳴りがして口の中に血の味が広がる。けれど、まだ終わってはいない。鈍痛を押し殺し、ゆっくりと身体を起こす。動ける。まだ戦える。自分に言い聞かせ、息を整えながら立ち上がると、呪術師に向かって地を蹴る。


 ザザの毛皮に手を伸ばすと、鋭利な棒手裏剣を掴む。体勢を整える間も惜しみ、呪術師の死角から手裏剣を打つ。それは炎に照らされて微かな閃光を放つ。


 投擲された棒手裏剣は呪術師に向かって一直線に飛ぶが、呪術師の背から伸びた異形の腕によって弾かれてしまう。鋭い音を立てながら手裏剣が地に落ちると、呪術師は背後を振り返ってアリエルに視線を向ける。その刹那、アリエルは土煙を突き破るように、疾風のごとき速さで敵の懐に飛び込む。


 面頬に付与された効果により身体能力が底上げされていた。間髪を入れずに振り抜いた刃は空気を斬り裂き、唸りを上げながら煌めいた。呪術師は咄嗟に背中の腕を伸ばす。刃と枯れ枝めいた腕がぶつかり合い、火花を散らす。


 衝撃が走り、両者の間にわずかな隙が生まれる。その瞬間、アリエルはさらに踏み込んで──決定的な一撃を、致命傷になる斬撃を叩き込むべく動いた。炎を反射し煌めく刃が呪術師の首に迫る。今度こそ届く。だが、その確信は見事に打ち砕かれてしまう。


 突如、呪術師の皮膚が裂けるようにして、もう一本の腕が出現する。瞬く間に伸びた異形の腕は、アリエルの眼前に迫り、そして手のひらから放たれた瘴気が空気を歪ませる。


 避ける余裕はなかった。視界が揺らぎ、骨が軋む。破滅的な衝撃波がアリエルの身体を容赦なく打ち砕いた。身体が宙に投げ出され、痛みが遅れて襲ってくる。肺の中の空気が絞り出されるような感覚と、意識が暗闇の底に沈みそうになるのを必死に耐える。


 直後、勢いよく地面に叩きつけられ、転がり、瓦礫の山に激突する。背中に鈍い衝撃が走り、血液の混じった胃液を吐き出す。けれど、まだ意識を手放すわけにはいかない。


 荒い息を整えながらアリエルは顔を上げた。視界の先、崩壊した塔の残骸の上で、呪術師が横薙ぎに腕を振るうのが見えた。その指先が呪素の波動を帯びると、倒壊した塔の残骸に向かって凄まじい衝撃波が放たれる。


 哀れな怪物たちの死骸や瓦礫が吹き飛ばされ、砂煙が立ち昇る。すると瓦礫の間に埋もれていた石像が顔を出すのが見えた──いや、あれは〈石人〉だ。


 風化を感じさせる石肌には、金継ぎを思わせる装飾が施されていた。厳めしい顔つきで佇むその姿は、かつて瘴気を浄化するために用いられた古代の遺物そのものだった。なぜ、こんな場所に?


〈石人〉は、本来なら〈古墳地帯〉や森の奥深くにひっそりと立ち、混沌の瘴気によって穢れた大地を浄化しているものだった。それが、なぜ廃墟と化した塔の中に設置されていたのだろうか。


 いや、それよりも――〈クァルムの子ら〉が、その石人を求めていることは明らかだった。浄化しきれなかった瘴気が結晶化したモノ──宝玉が狙いに違いない。


 瘴気によって穢された地に長年放置された石人の中には、膨大な瘴気を蓄えた宝玉が形成されることがある。そしてそれは、瘴気から呪素を生み出すことのできる邪悪な術者にとっては、計り知れない力を秘めた禁忌の遺物でもあった。


 瓦礫の間に佇む石人を前に、呪術師の口元が歪むのが見えた。包帯の間から喜悦とも、狂気ともつかぬ表情が垣間見えた。


『見つけた……』

 低く、しゃがれた声が聞こえた。


 その瞬間、アリエルは背筋が寒くなるのを感じた。ただでさえ危険な相手なのに、さらに状況を悪化させるような代物を手に入れられたらどうなるのか──想像するだけで、ゾクリと悪寒が走る。


 膝に力を込め、痛みに抗いながらアリエルは再び立ち上がった。そこに姉妹の手から放たれた〈火球〉が、瘴気を裂くように飛んでくる。その炎は標的に直撃し、そのまま焼き尽くすはずだった。


 しかし呪術師の周囲に展開された不可視の障壁に阻まれ、炎は軌道を歪められる。瞬く間に拡散した炎の塊は、周囲の建物に衝突し、破裂音とともに赤々とした爆炎を撒き散らした。通りで蠢いていた小さな怪物たちが巻き込まれ、甲高い悲鳴をあげながら燃え上がる。


 黒焦げになった肉の臭いが辺りに充満し、崩れ落ちるように倒れる怪物たちの影が炎に揺らめく。けれど呪術師の周囲は変わらず穏やかで、その異様な落ち着きが却って不気味な威圧感を与えていた。


 アリエルは視線を巡らせ、怪物の死骸のそばに槍が転がっているのを見つける。粗雑な作りだが、先端には尖頭器が括り付けられている。充分な殺傷力がある。迷わず槍を拾い上げると、呪術師の背に向かって全力で投げつけた。握り込んだ指の力が槍を解放した瞬間、空気を切り裂く音とともに鋭い軌跡を描く。狙いは正確だった。

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