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塔内部は錆びた鉄を思わせる血の臭いに満ちていた。崩れかけた石壁の隙間からは、わずかな薄明かりが射し込み、乱雑に散らばった瓦礫と朽ち果てた木製の家具の輪郭が見えていた。その仄暗い空間のなか、異質な影が浮かび上がる。
倒れた守人の傍らに、忌まわしい呪文を紡ぐ呪術師が立っていた。〈クァルムの子ら〉で間違いない。こちらに背を向けていて特徴的な笠も羽織も身につけていなかったが、頭部に巻かれた薄汚い包帯と、その身に帯びた邪悪な気配を偽ることはできなかった。
床に倒れ伏した守人の身体から、靄のような瘴気が静かに立ち昇っている。すでに〝生ける屍〟に変えられたのだろうか。疑問が脳裏をかすめたが、考えるよりも先に身体が動いていた。
この場で仕留める。アリエルは気配を殺しながら一気に踏み込むと、そのまま〈クァルムの子ら〉の背後を取る。刹那、空を切る鋭い音が暗闇の中で響き渡る。鋸歯状の禍々しい刃は容赦なく振るわれ、その首を刎ね飛ばした。血飛沫が弧を描くが、遅かったようだ。
頭部を失った身体が、ゆっくりと膝を折る。その向こうで、倒れていた守人がふらりと立ち上がるのが見えた。異様な動きだった。関節が軋むような奇妙な音が聞こえ、傷だらけの身体が不自然に持ち上がる。
血走った眼は、まっすぐアリエルに向けられる。つぎの瞬間、血にまみれていた守人が獣めいた動きで飛び掛かってくるのが見えた。すぐに反応して、目の前で崩れ落ちそうになっていた〈クァルムの子ら〉の身体を蹴り飛ばす。死体は勢いよく吹き飛び、飛び掛かってきた生ける屍に衝突し、そのままもみくちゃになりながら倒れた。
しかし次の瞬間には、瓦礫の中から生ける屍が立ち上がるのが見えた。骨と筋肉が軋み、傷口から大量の血液が噴き出す。血を滴らせる指が不規則に痙攣しながら動く。また飛び掛かってくるつもりだ。腰を落として剣を構えた時だった。横合いから見知った気配が駆け抜けていくのが分かった。
ラライアだ。薄闇で白銀の長髪が踊り、彼女の身体から呪素が解き放たれるのが見えた。大気が震え、つぎの瞬間――空間に亀裂が生じるのが見えたかと思うと、その裂け目からオオカミの腕が顕現する。
その腕はラライアの動きに合わせて振るわれ、鋭い爪による一閃が――袈裟斬りを思わせる鋭い一撃が繰り出され、生ける屍は肩口から腰にかけて断ち斬られてしまう。鮮血にまみれた肉片が飛び散り、そのまま壁に叩きつけられる。
生ける屍は声にならない呻きとともに倒れ伏すが、切断された身体から内臓を引きずりながらも、這うようにして近づいて来る。
千切れかけた腕が、震えながら床を引っかく。裂けた腹部から滑り出した臓器が、ベチャリと石畳の床に広がる。水気を含んだ肉が擦れる音とともに、異形の化け物が這い寄る。
その眼窩の奥に宿るのは、理性を失った狂気なのだろう。執念じみた悪意だけが、魂を失くした肉体を突き動かしている。やはり焼き払わなければ、この悪夢を終わらせることはできないのだろう。
アリエルは数枚の〈発火〉の護符を取り出す。ソレは本来、呪素の保有量が少ない部族民が野営の際などに火を起こすためのものだったが、応用次第では戦場でも役に立った。
指の間に護符を挟み込みながら呪力を練り上げていく。護符が耐えられる限界まで呪素を注ぎ込むため、繊細な呪力操作が要求される。
粗紙の表面に刻まれた術式が赤熱するように微かに発光すると、札は薄い紙切れとは思えないほど震え、今にも弾けそうなほど光を帯びていく。
「……兄弟、安らかに眠ってくれ」
小声でつぶやきながら、生ける屍に向かって護符を投げつける。
ソレが肌に触れた瞬間、眩い閃光とともに爆ぜるのが見えた。限界まで呪素が込められた護符は発火し、炎が一瞬にして生ける屍の身体を呑み込んでいく。焦げた肉と血液の臭いが鼻を突くような悪臭となって塔内に立ち込めていく。脂肪が焼け、黒煙が立ちのぼる。その業火のなかで生ける屍が断末魔の叫びを上げる。
もはや喉も肺も焼かれていて声にならないはずなのに、それでも叫び続けていた。想像を絶する苦痛に身を捩り、焼け爛れた腕を振り回しながらのた打つ。肉が弾け、体表が炭化し、生命の痕跡が次第に崩れ去っていく。
アリエルは炎がすべてを貪り尽くしていく様子を、ただ黙って眺めていた。肉が焼ける音、骨が軋む音、焦げた血の臭い――そのすべては戦場では普通の光景だったのかもしれないが、目の前のソレは、どこか異様な重みを持っていた。
その理由は、燃えさかる生ける屍の顔がハッキリと視界に入ったからなのだろう。顔面の皮膚は焼け爛れ、眼球は破裂し、もはや面影などないはずなのに、アリエルはその兄弟の姿を思い出すことができた。
あまり接点がなく、名を呼ぶほどの間柄ではなかった。守人として一緒に何度か地底の監視任務に参加したこともあったが、深く言葉を交わす機会はなかった。
けれど、その青年の出自を知る者は多かった。彼は辺境の貧しい部族の生まれだった。十人もの兄妹と共に育ち、つねに飢えと隣り合わせの生活を送っていた。砦で育ったアリエルは経験したことがなかったが、辺境の森では珍しくもない話だった。
彼らの食卓には、まともな食事が並ぶことはなく、木の皮を煮た汁を啜り、野草を噛みしめ、飢えをしのぐために昆虫を捕えて食べた。それでも空腹は満たされない。ある日、彼は集落の備蓄庫から干し肉を盗んだ。
年端もいかぬ兄妹たちが痩せ細った手足を震わせながら泣いていた――盗みを決断するには充分な理由だった。
けれど、それがどんな理由だろうとも盗みは盗みだ。誰もが飢えていたし、部族の掟は厳格だった。彼は腕を切断されるか、集落から追放されるかの二択を迫られた。自ら腕を差し出す者などいない。彼は集落から追放されることを選んだ。
食べるために掟を破った青年が、つぎに手にしたものは剣だった。生きていくために、守人として森の守護者になる道を選んだのだ。もちろん、それは名誉を求めたわけではない。ただ、生きるための選択だった。
守人として砦に身を置くようになってから、苦しいことも経験してきたが、ささやかな幸せを手に入れることができた。
運が良ければ、一日三度、温かい食事にありつけるようになったのだ。夜は冷たい地面ではなく、簡素でも寝床の上で毛皮に包まって眠ることができた。心優しい青年の望みは、それだけだった。そしてそのささやかな願いは、一時的なモノだったにせよ、叶っていたように思えた。
砦の食堂で彼が笑っている姿を何度か見かけたことがあった。皿に盛られた温かなシチューを見つめ、焼きたての黒パンを頬張り、兄弟たちと何気ない冗談を交わしていた。
それだけのことだったが、彼にとっては幸福だったのだろう。けれど、その小さな願いも砦に対する襲撃によってすべてが崩れ去った。
戦士として剣を振るい、砦を守るために戦った青年は、〈クァルムの子ら〉の呪術に侵され、生ける屍に変えられた。生きるために戦い、生きるために剣を取った青年は、死してなお生かされるという最悪の末路を迎えた。
焼け崩れる亡骸が最後の痙攣を見せる。激しくのたうち回っていた身体が、ついに動きを止める。これで、ようやく死ねたのだろうか。
アリエルは燃えさかる骸に目を向けながら、じっと思考に耽っていたが、立ち止まっているわけにはいかなかった。塔内が煙で満たされていくと、アリエルはラライアと協力して〈クァルムの子ら〉の死体を引きずるようにして塔の外に出た。
「……何か、手掛かりがあるかもしれない」
連中がこの塔で何をしていたのか、その手掛かりがどこかにあるはずだ。
焼け焦げた死臭が漂うなか、アリエルは倒れ伏す〈クァルムの子ら〉の死体を見下ろした。薄汚い包帯に覆われたその身体は、もはや人の形をとどめているだけの異形だった。
顔のほとんどは包帯に巻かれていたが、隙間からのぞく肌は爛れていて、ところどころに黒ずんだ斑点が浮かんでいる。血色というものが感じられない。腰の帯革には大小の皮袋が吊るされていた。乾いた獣の胃袋を加工したもの、布で包まれた薬瓶、奇妙な形の木製の容器――そのほとんどが用途不明だが、呪具の類なのだろう。
水薬の瓶を拾い上げると、内側にこびりついた黒い沈殿物が揺れた。腐臭が鼻を突くと、死体の上に放り捨てる。
「とくに変わったものはないか……」
忌々しげにつぶやくと、〈クァルムの子ら〉の死体から帯革を引き剥がし、皮袋の中身をざっと調べた。しかし、これといった手掛かりになるようなものは見つからない。
と、その時だった。轟音が静寂を破る。空気が爆ぜるような音とともに、熱波が押し寄せる。アリエルは顔を上げると、通りの向こうに聳える塔を見つめた。
塔の上部から噴き出す炎が、黒煙を巻き上げながら曇り空に溶け込んでいく。火の粉が風に舞い、焼け焦げた瓦礫が砕け落ちる音が響く。
「きっと、ノノとリリが戦ってるんだよ」
ラライアの言葉にうなずくと、アリエルは立ち上がって周囲を見回す。
手掛かりのない死体をこれ以上調べても意味はないだろう。アリエルは〈発火〉の護符を取り出すと、〈クァルムの子ら〉の死体に貼り付けた。護符が発光しながら灰に変わると、途端に死体は発火する。すでに首のない死体だったが、嫌な予感がして焼却することにした。
「行こう、ラライア」
アリエルの言葉に応えるように、オオカミに変身していたラライアが静かに身を低くする。そのさい、銀白の体毛が炎の明かりを反射して妖しく輝いた。
アリエルは迷いなくその背に飛び乗る。ラライアは足元の瓦礫を蹴り、疾風のごとく駆け出した。燃え盛る塔へ、豹人の姉妹が待つ戦場の真っ只中へと。




