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忌まわしい種族〈クァルムの子ら〉によって〝生ける屍〟へと変質させられた兄弟を処理する必要があった。
その冒涜的な生物は、今も塔の内部に閉じこもっている。日の光を嫌い外に出ようとしないが、日没になれば状況は変わるかもしれない。生ける屍は闇の中で活動し、飢えた獣のように生者を襲うようになる。かつて共に戦った兄弟だったが、化け物になってしまった以上、この場で焼却するしかなかった。それが、最も安全で確実な手段だった。
ほとんど接点のない間柄だったが、それでも兄弟を〝焼く〟という行為には、ある種の躊躇いを感じずにはいられなかった。しかし結局のところ、それは遺体を焼却するのと何も変わらない。
アリエルは、そう自分に言い聞かせる。すでに兄弟は死んでしまったのだと。そこに残されているのは、意識のない肉の塊にすぎない。だから躊躇う理由はない。
『……エル?』
ノノは確認を取るように、そっとアリエルの肩に手を置く。
「あぁ、大丈夫だ。さっさと悪夢を終わらせてあげよう」
ラライアたちに声をかけたあと、ノノを連れて塔内に足を踏み入れた。
塔内部の気温は低く、カビと血液の臭いが混ざり合ったような悪臭が立ち込めていた。崩れかけた石造りの壁には、戦闘のさいに飛散したと思われる鮮血が付着し、糸を引くように滴り落ちていた。辺りはしんとした空気に包まれていて、聞こえてくるのはふたりの足音と、どこからともなく吹き込んでくる風の音だけだった。
暗闇のなか警戒しながら進むと、ある段階で異変に気がつく。生ける屍の姿はおろか、床に横たわっていた死体が跡形もなく消えていた。しゃがみ込んで床を確認すると、引きずられたような血痕が残されていた。
赤黒く変色した血の跡は、暗闇の中に沈み込む螺旋階段に向かって伸びている。その生々しい痕跡は、ふたりを死地に誘い込むための罠のようにも思えた。
アリエルが〈収納空間〉から剣を取り出すと、鋸歯状の刃が空気を斬る音が静寂の中で鋭く響いた。
「慎重に進もう」
小声でそう告げると、〈暗視〉で微かに明滅していた瞳を暗闇に向けた。
すると闇の奥で、ぼんやりとした輪郭が動くのが見えた。目を凝らすと、暗闇の中で瞬く双眸が見えた。それはどこか人間だった頃の名残を感じさせる。アリエルがそう感じたのは、かつて食堂で彼に向けられた何気ない視線に似ていたからだ。嫉妬と憎しみ、それに怒りに満ちた視線だ。
「――見つけた」
アリエルが反応した瞬間、生ける屍が猛然と飛び掛かってくる。
人間だった頃の面影を微かに残しながらも、無残に引き裂かれていた腹部からは内臓が垂れ下がり、もはやその動きは猛獣そのものだった。
種族特有の反射神経で逸早く反応したノノは、飛び掛かってくる化け物に手のひらを向けると、容赦なく灼熱の炎を放つ。〈火炎〉が渦を巻き、業火が生ける屍を包み込んでいく。瞬く間に焼けるような熱波と腐臭が広がっていく。
炎に包まれた生ける屍は、この世のものとは思えない凄まじい悲鳴を上げる。のたうち回る化け物の身体から、焦げた肉の臭いと黒煙が立ちのぼっていく。その間にも、燃え上がる炎は容赦なくその身を蝕み、黒衣ごと皮膚を焼き尽くしていく。
死んでいるはずのソレは、あまりにも苦しげに暴れ回っていた。
「……まるで痛みを感じているみたいだ」
アリエルは首巻を引き上げて鼻と口を覆う。臭いと煙は強烈で目に染みるほどだった。
「すぐに出よう」
ノノを促すと、暗闇の向こうから響く断末魔の叫びを耳にしながら塔の外に撤退する。
あとは、あの冒涜的な生物が完全に動かなくなるのを待つだけだった。生ける屍――かつて守人だったモノは、痛みを感じているかのように最後の瞬間まで叫び続けていた。やがてその断末魔も、闇の中に溶けるようにして消えていった。
それはまるで、廃墟と化した塔に漂う怨嗟のひとつが消えたかのようだったが、重苦しい空気は依然として残されていた。血と焦げた肉の臭いが鼻を突き、くすんだ壁の隙間から黒煙が立ち昇っていくのが見えた。近くに〈混沌の先兵〉が潜んでいなかったことが、唯一の救いだったのかもしれない。
けれど、これで終わりではないのだろう。アリエルは確信にも似た直感を抱いていた。砦にはまだ〈クァルムの子ら〉が潜んでいる。闇に紛れ、その企みを成就させるために。焼却後に遺体を浄化する必要があったが、濃い瘴気の中では困難な作業だった。だから別のことを優先させた。
「手分けして〈クァルムの子ら〉を探そう」
仲間たちはそれぞれの役割を果たすために動き出した。
アリエルは不穏な気配が漂う塔を調べることにした。砦のそこかしこに聳える塔の廃墟、そのいずれかに脅威が潜んでいると考えていた。
『一緒に行く』
低いうなり声が聞こえて背後を振り返ると、白銀のオオカミに変身していたラライアの姿が見えた。その耳はわずかな音も逃さぬようピンと立っていて、瞬間的に集中力が研ぎ澄まされ、紅い瞳は影に潜む者たちに向けられていた。
ラライアが地面に伏せるようにして体勢を低くすると、アリエルは感謝してから背に跨る。そのさい、オオカミのしなやかな筋肉が体毛越しに伝わる。
『準備はいい?』
ラライアの問いに答えるように、アリエルはオオカミの首筋をたたく。
ノノとリリも戦狼たちと協力しながら、〈クァルムの子ら〉の追跡を開始する。鋭敏な嗅覚と聴覚を駆使し、微かな異変すらも見逃すまいとしていた。
それでも時間は限られていた。すでに空は薄暗くなり、厚い曇り空の向こうで太陽が沈もうとしている。日没が近い。それは、敵が再び攻撃を仕掛けてくる時間が迫っている、ということも意味していた。
「急ごう」
アリエルがラライアの背にしっかりしがみつくと、一瞬の静寂のあと、彼女は力強く地面を蹴った。
その場に影を残すように、廃墟の塔と瓦礫が連なる通りを疾駆する。ラライアは白銀の毛皮を逆立てながら駆け抜けた。冷え切った乾いた空気が喉を刺し、吐き出した息が白く霧散していく。吹き荒ぶ風は森の木々を揺らし、ざわざわと不吉な音を奏でていく。
砦の外れにある小道に足を踏み入れると、異様な気配が肌を刺す。濃い瘴気だ。それはあちこちに横たわる小さな死骸から漂う血や糞尿の臭いだけでなく、もっと禍々しく、意識を侵すような冷たさを帯びていた。まるで生者を拒むかのように、空間そのものが歪んでいるように感じられるのだ。
ラライアの視線の先、瓦礫に埋もれるように聳える塔が見えた。半ば崩れかけ、斜めに傾いたその石造りの建造物は、すでに役目を失って久しい。
その塔がいつからそこに立っているのかは、もはや誰にも分からないけれど、とうの昔に放棄され、今では誰も近づかない廃墟と化していた。しかしどういうわけか、それは異質な存在感を放ち、瘴気を撒き散らしていた。
陰鬱な雰囲気が漂う塔は、砦の管理を任された〈世話人〉ですら近寄らない通りに面していて、その通りも無残に朽ち果てていた。石畳には長年の風雨に削られた痕跡が残り、倒壊した石壁からは暗闇がぽっかりと口を開けていた。
「……瘴気が濃いな」
アリエルはオオカミの背から軽やかに飛び降りると、その身にまとう呪素を巧みに操りながら気配を消していく。
〈隠密〉ほど優れた擬装能力はないが、呪力の流れを最小限に抑え、瘴気のなかに紛れ込むようにして気配を遮断する。そのまま塔に近づくと、横倒しになっていた石柱の陰に身を潜める。すると足音も立てずにラライアがとなりにやってくる。
すでに人の姿に戻っていた彼女は、白銀の長髪を背中でひとつにまとめ、鋭い瞳で塔を見つめる。人間の姿になっているとはいえ、その身に秘めた獣の感覚は研ぎ澄まされていて、すでに標的の気配を感知しているはずだった。
アリエルも〈気配察知〉を使い、砦内に脅威が潜んでいないか確認することにした。瞼を閉じ、ゆっくり意識を広げていく。呪力の波動が周囲を探り、塔の内部の存在を浮かび上がらせていく。
「……いた」
薄っすらとした白い輪郭が浮かび上がり、壁を透かすようにして人影が確認できるようになる。ひとりは倒れ伏し、もうひとりがゆっくりと近づいている。アリエルはラライアと視線を交わし、突撃の機会を窺う。
異変が起きたのは、足音を忍ばせながら塔に近づいている時だった。開け放たれた扉の奥から断末魔の叫びが響いた。血の気の引くような、絶望に満ちた声だ。
「遅かったか……」
脳裏に最悪の事態がよぎる。今この瞬間に、逃げ遅れていた守人が生ける屍に変質させられているのかもしれない。
もはや迷っている時間はなかった。ふたりは即座に行動を決断し、警戒を怠ることなく塔の中に突入した。




