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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 後編
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70〈生ける屍〉


 灰色の雲が低く垂れ込めていた所為(せい)なのかもしれないが、廃墟の塔は陰鬱な空気に支配されていた。石造りの壁には長年の風雨に晒された苔が染み付き、崩れかけた入口は、まるで巨大な獣に喰い破られたように無惨な姿を晒していた。その開け放たれた扉の奥には、どこまでも冷たく、深い闇が広がっている。


 塔内に光源になるようなものはなく、暗い静寂のなかに沈み込んでいたが、嫌な感覚の原因はそれだけではないのだろう。胸の奥にじわじわと不吉な気配が忍び寄る。それは理屈ではなく、ほとんど直感で危険だと悟る感覚だった。暗闇そのものが生きているかのように(うごめ)く、やはり何かが潜んでいるようだ。


 その正体を確かめようとして開け離れた扉に近づく。すると暗闇のなかに光る双眸が見えた。何かがこちらを見ている。それは錯覚ではないようだ。


 塔内に足を踏み入れようとした瞬間だった。突然、強い力で腕を引かれた。ラライアが無言のままアリエルを後方に引き戻したのだ。その表情は真剣で、ひどく険しい。つぎの瞬間、塔内部から異様な音が――肉を引き摺るような水気を含んだ音が聞こえて、得体のしれない何かが猛然と駆けてくるのが見えた。


 暗闇に目を凝らすと負傷した守人の姿が見えたが、どこか様子がおかしい……いや、それは〝かつて兄弟だったもの〟の成れの果てだった。人間の姿をしていたが、正気を失っているように見えた。


 引き裂かれた喉の皮膚が不自然にめくれていて、その間から覗くのは、損傷した気管――赤黒く変色した肉の断面が泡立つのが見えた。傷口から滴る血液は、すでに腐敗臭を放っていた。粘り気のあるそれは塔内に堆積していたホコリと混ざり合い、ドロリとした塊となって滴り落ちていく。


 腹部も裂けて内臓が露出していて、脾臓がどす黒い塊となって揺れている。腸は垂れ下がり、足元に絡みついていた。しかし、それでも兄弟だったモノは動いていた。


 その動きは、あまりに異常だった。まるで肉の操り人形のように、軋む関節を引きずりながら駆け寄ってくる。異様な角度で折れ曲がった腕はぶら下がり、足元で引きずられる腸が血液と泥にまみれていた。それでも異常な速さで――獣めいた瞬発力で、一直線に飛び掛かろうとする。


 けれどソレは、扉の前でピタリと動きを止めた。まるで光を恐れているかのようだった。裂けた唇の奥から湿った呼吸音が漏れる。クチャリ、クチャリと口の中で何かを咀嚼する音が聞こえた。


 よく見れば、歯の隙間に黒ずんだ肉片が挟まっている。その肉が何の肉なのか……考えるまでもないことだった。塔内に転がっている死体が答えになっていた。


 白濁した瞳は狂気に満ちた光を帯びていた。もはや理性のある人間には見えなかった。かつての兄弟は、すでにこの世に存在しないのだろう。その〝生ける屍〟は、〈古墳地帯〉で遭遇した〈骸骨兵〉に似た気配をまとっていたが、もっと忌まわしい何かに見えた。かつて人であったモノが、死線を超えてもなお歩み続ける異形。


 何かが兄弟を異形の化け物に変えた。腐臭と血の臭いが入り混じる廃墟の塔。その入口に、異形と化した兄弟の残骸が立ち尽くす。裂けた腹部から血液が泡立ちながら滴り、肉体は腐敗しきってはいないが、すでに身体の内側から腐り始めているのが分かる。


 この不吉な生物は、いったい何だ?


 この場所で何が起きたのかラライアに(たず)ねるが、彼女も困惑しているようだった。戦狼(いくさおおかみ)のひとりが塔の周囲を調べていたとき、異様な気配を感じ取り、その直後、塔内に倒れている守人を発見したという。


 すでに襲撃を受けたあとだったのか、すぐ近くに〈クァルムの子ら〉の変異体が立っていた。その〈食屍鬼(グール)〉めいた化け物は、戦狼を新たな標的と認識して襲いかかってきた。血と肉を求める飢えた獣のように、執拗に。


 しかし理性を失った化け物は、もはや戦狼の敵ではなかった。その化け物を撃退したあと、塔内の状況を確認しようとしたが、そこで目にしたのは変わり果てた守人の姿だった。


「生ける屍か……」

 アリエルは扉の前で立ち尽くし、喉を引き裂かれながらも生き永らえる異形に視線を向けた。その場にいるだけで、肌が粟立つような圧倒的な嫌悪感と恐怖に襲われる。


 忌まわしい種族〈クァルムの子ら〉の呪術によるものなのか。それとも、もっと根深い、名状しがたい〝何か〟の思惑が絡んでいるのだろうか。


 それはただの死体ではなかった。理性を失いながらも、確かに生きているように感じられた。絡まり合う臓物から血液が糸を引きながら零れ落ちているのを見ていると、屍の口が音もなく開かれるのが見えた。喉の奥から覗くのは、黒ずんだ気色悪い肉塊。


 それが、何かをつぶやくように(うごめ)くのが見えた。

『おまえたちを救いに来た』と。


 豹人の姉妹に、この忌まわしい生物について何か知らないか訊ねると、ノノは唸るような低い声で答えた。


 北部に伝わる伝承のひとつに、〈夜の狩人〉と呼ばれる悪鬼がいるという。かれらは夜の森を徘徊する穢れた血族であり、人の生き血を啜り、死の安息を奪う怪物だと。


 今も北部で語られる伝承によれば、〈夜の狩人〉はもともと人間だったのだという。神々の思惑と太古の禁忌の儀式によって、不死の呪いを背負った一族が始まりとされる。かれらは決して老いることがない。しかしその代償として、満たされることのない飢えを抱えて生きていくことになった。


〈夜の狩人〉の空腹は、決して満たされることがない。生きた人間の血を渇望する理由は分からないが、〈夜の狩人〉の牙に噛まれ、爪で肉を裂かれた者は、もはや正常な死を迎えることができなくなる。その者は徐々に理性を失い、最後には死と生の境界を彷徨う生ける屍となる。


 そして終わりのない飢えに苛まれながら、夜の森を徘徊し、自らの家族や仲間を襲うのだという。人でありながら、人を喰らう怪物へと変わり果てる。


 それが北部で恐れられる〈夜の狩人〉の特長のひとつだった。けれど目の前の怪物は、その〝生ける屍〟とは何か異なる気配をまとっているようだ。


 たしかに白濁した瞳や腐りかけた肉体は、〈夜の狩人〉に傷つけられた者の特徴と似ていた。しかしその動きに違和感があった。まるで見えない糸に引かれているかのような、不自然なぎこちなさ。理性を失っているだけではない。


 ――まるで〝何か〟に操られているような不自然さが感じられた。やはり何かしらの呪術によって変異させられているのかもしれない。もしそうだとするならば、こんな芸当ができるのは砦を襲撃している〈クァルムの子ら〉だけだ。


 邪神を崇拝する死と呪いに魅了された狂信者たち。奴隷たちをおぞましい化け物に変化させるように、守人を生ける屍に作り替えているのかもしれない。


 敵に気取られる可能性があったが、すぐに〈念話〉を使ってルズィと連絡を取ると、敵が味方の死体を操っていることを伝えた。それが正しい表現なのかは分からないが、ほかに伝えようがなかった。


 塔の暗闇に姿を隠したソレは、単なる〝生ける屍〟ではなかった。あまりにも生々しい生に対する執着を感じた。肉が裂け、内臓が垂れ下がりながらも、確かな殺意を持ってこちらに向かってきた。まるで何かが死肉の内側から意志を持って操っているかのように。


 しかし、今は正確な分析をしている時間はない。情報を迅速に伝えることを優先すべきだった。詳細は後で伝えることにした。とにかく暗闇を避けて、決して単独で動かないことが重要だ。


 手早く情報を伝えたあと、アリエルは塔に視線を戻した。今、この場にいる全員が、同じ不気味な感覚を共有しているはずだった。この戦場は、もう生者だけのものではないのだろう。


「ノノ、教えてくれ。あの生ける屍を殺す方法はあるのか?」

『焼却して、遺体を浄化します』と、彼女は喉を鳴らす。


 アリエルは、かつて守人だったモノに視線を戻した。その顔には見覚えがあった。岩塩坑で知られた街からやってきたという青年は、愛し合う女性との仲を引き裂かれ、無理やり砦に連れてこられたと愚痴っていたが、彼が強姦魔だったことは誰もが知っていた。


 だからなのかもしれない。その青年に関心を持つことはなかったし、名前すら思い出せなかった。

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